第38話 青紫の憂鬱6


翌日、生協のパラソルの下でいつもどおりに眠気覚まし用のコーヒーを啜りながらぼんやりとしていると、頭上から小さな影がぱらぱらと降ってきた。年季の入った白い飾りテーブルの上に、イチゴの柄をプリントした可愛らしい飴の包みがこつんと当たって転がる。


「懐かしいな、この飴」


ひとつ手に取って眺めてから顔を上げてそう言うと、「飴」を降らせた張本人である恭介はにっと笑った。


「ほんと、思い出すよな。あのときの彩の真面目な顔と、あの質問……」


言いながらも恭介は思い出し笑いを堪えられずに口元に手を当てて微かに肩を震わせる。いつもの冷静沈着な研究者の顔が小さな子供のように無邪気に綻ぶ様子になんとなく癒されながら、おれは飴の包みを開いて口の中に放り込んだ。


すぐに舌の上に、少し甘酸っぱいイチゴの風味が広がる。少しだけ舐めてから歯の間に挟んで軽く力を込める。さくりと軽い感触でほどけるようにして砕けた中から、微かな酸味を包み込むような優しいミルクの甘みが広がった。


「まだおぼえてんの……?」


久しぶりの甘みを味わいながら恭介を見返すと、気のいい友人はにっと笑った。


「おぼえてるよ。だっておもしろかったからな。『これって、どうやって食べるのが正しいんですか』っていう、あの質問」


「……だってさぁ、同じもの食ってんのに、バリバリ噛み砕いてるのもいれば、根気強く舐め続けてるのもいるし……。気になるじゃん、おれの探求心が疼いたの」


たしか、理学部合同の懇親会かなんかだった。菓子を持ち寄っての軽いものだった気がするが、まだ入学後間もない恭介に、そんなわけのわからない質問で絡みに行ったのは間違いなくおれ自身だ。


「いや、まぁ別にいいんだけどさ。あんなにマジに飴の食い方問い詰められたのはさすがに初めてだったからな」


そう言って可笑しそうに笑うけれど、あの時の恭介が思いきり戸惑ったように目をぱちぱちさせながらも、優しい表情で丁寧に答えてくれたことを、おれだっておぼえている。




「でもちゃんと答えてくれる気がしたし、実際そのとおりだったしな。質問は変だけど、人選は完璧だった」


そう言っておれは口の中に残った甘みを軽快に噛み砕く。この飴は食感が独特だから、少し舐めてから噛み砕くと両方味わえてお得だよと、あのとき恭介は教えてくれた。恭介はおれが飴を堪能するのを可笑しそうに眺めながら、ふっと遠くを見るような視線になる。


「……そういうの全部、ちゃんとおぼえてるはずなんだけどな」


「?」


さっきまでとはまったく違うトーンでぽつりと呟いた声が聞き取れずに、おれは目を瞬く。訊き返そうとしたとき、ふっと頭上に影が落ちた。


「……あれ、蘇芳くん」


恭介が先に顔を上げ、おれの隣の空間を見上げる。その視線の動きに釣られるようにして目を上げると、いつもどおりに黒々しい後輩がおれをじっと見下ろしていた。


「? どうかした?」


「どうも。ちょっと聞きたいことあるんですけど、あとで時間ありますか」


「おれに?」


相変わらずイマイチ表情の読めない蘇芳だが、こうしておれが誰かと話しているときにまでわざわざ声を掛けてくるのは珍しい。というか、蘇芳の方からおれに「話がある」なんて言ってくること自体が珍しい。別に疚しいことがあるわけではないのだが、半ば恐る恐る聞き返すと蘇芳は涼しげな表情であっさりと頷いた。


「別に、時間はあるからいいけど……」


そう言ってなんとなく正面に視線を戻すと、恭介は少し困ったように微笑んだ。


「おれのことなら別にいいぞ。行って来いよ」


恭介がそう言ってくれた言葉に、蘇芳はあっさりと首を振る。いつものモノトーンのストールの上で、滑らかな黒髪が微かに揺れ、それが晩夏の太陽に照らされて複雑な影を落とした。


「別にそこまで急ぎじゃないです。彩さんがいつもどおりにゴロゴロしててくれれば、講義が終わった後に行きますから」


それだけ言うと、蘇芳は恭介に軽く会釈をして、おれには愛想もへったくれもないような一瞥を残して、涼やかな足取りで講義棟に向かって歩いて行った。


「…………あいつ、おれがいっつもサボってるみたいな言い方しやがって」


蘇芳の講義が終わる時間に、おれが例の採取場所で少し手を止めて休憩をしていることが多いのは、単にそういうサイクルになっているからだ。人を年がら年中雑草の上で寝ころんでいるお気楽者のように言わないでほしい。言うだけ言って去って行った蘇芳の後ろ姿をなんとなく渋い顔で眺めながらぽつりと零すと、恭介はおれをじっと眺めた。


「やっぱり、ずいぶん仲が良いんだな。蘇芳くんと」


「え……今のやり取りでその結論になる? 恭介こそ、いつの間に蘇芳と知り合いになったの」


「ん……知り合いってほどじゃないけど、彼、目立つからさ。彩と一緒にいるのもよく見てたから、挨拶するようになった程度だよ」


「ふーん……」


なんとなく歯切れの悪い恭介の返事に、おれは首を傾げる。恭介が学部や学年の違う友人や後輩にまで顔が広いのは別に今に始まったことじゃない。けど大抵の場合、この話の流れだと知り合いになった経緯とか、その人とのおもしろエピソードのひとつやふたつは聞けるはずなのだが。まぁ、相手はあの蘇芳だし、そんなものかな……と特に深くは考えずに、おれは表面にすっかり汗をかいたコーヒーの紙コップに手を伸ばし、慣れた香ばしさを飲み干した。

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