第37話 青紫の憂鬱5
研究室に戻り、花村に借りたエコバッグからおにぎりと唐揚げのパックとプリンを取り出すと、花村は可笑しそうに笑った。
「ほんとに買ってきたの?」
「だって、わざわざ他のモノ買って『違う』って言われたら嫌だし。普通に美味そうだったし」
「小っちゃい子のおつかいね」
「……ちゃんと買ってきたから褒めてほしいな」
肩をすくめてそう言うと、花村はふっと微笑んだ。
「そうね。ありがとう」
おれはいつも、花村と恭介はよく似ているなと思う。優秀で、優しくて、「ごめん」と「ありがとう」をとても丁寧に言う。花村は来客用に置いてある茶葉を共用の棚から取り出し、「たまにはいいよね」と言って熱い緑茶を淹れてくれた。
「いただきます」
割り箸を綺麗に割って手を合わせ、キツネ色の唐揚げを口に運んだ花村は、じっと眺めるおれに気づいたようで首を傾げた。
「彩人は食べないの? どう見ても2人分でしょ、これ」
「え、あぁ。うん、食べるよ」
咄嗟にそう答え慌てて席につくと、花村はもぐもぐと咀嚼しながらおれを見返した。
「彩人って、不思議だよね」
「…………え?」
ぽつりとそう呟かれ、危うく湯飲みを取り落としそうになった。まさか花村にまで何かを見透かされているのかと思いおそるおそる見返すが、涼し気な表情には特にいつもと変わったところはない。
「ときどきどこ見てんのかなって思うのに、ちゃんと見てる。周りの人のこと」
「どこ見てんのかなって思われてたんだ」
「不思議」の意味がわかり、とりあえず安堵しておれは唐揚げに箸を伸ばした。しっかりとした味付けの衣がさくりと音を立て、まだ熱さの残る肉汁がじゅわりと滲み出る。おれは花村ほど飯を食う必要に迫られているわけじゃないけど、こうして向かい合って遅めの晩飯を食うのもけっこう久しぶりで、この「時間」は唐揚げの旨味以上に身体に染み渡る気がする。まるでそれが、生きるのに必要な栄養素の一部であるみたいに。
「……私、変だった?」
花村にそう問われ、おれは口の中に残る肉をもしゃもしゃと咀嚼しながら、花村の机に並べられた「試作品」の瓶を眺める。
「変じゃないけど。……珍しいなと思ったんだ。花村が、紫色の香水を作ることってあんまりないから」
おれの言葉に、花村は目を瞬き、自分の机の上を眺める。植物から「香り」を抽出する蒸留装置の実験は彼女の
赤、ピンク、黄、藍……。うっすらと色づく液体で満ちた小瓶は、彼女らしくきちんと並べられ、綺麗なグラデーションを呈しながら机上にかしこまっている。その色相の中に、妙にくっきりとした紫の液体が加わるのは、いつもこの時期だけ。そうして、花村がほんの少し余裕を失くして見えるのも、1年のうちでごくわずかな期間だけ。そのふたつの小さな「違和感」が重なっていることに気づいたのは、この研究室で並んで研究をするようになってからだ。
花村はしばらく目を丸くしておれと机上に並んだ小瓶を眺めていたが、しばらくすると静かに立ち上がり、指先でそっと紫色の液体で満たした瓶の蓋に触れた。
「……あんまり好きじゃないの。あんまり好きじゃない人を、思い出させるから」
「…………」
「でも、この時期になるとなぜか作っちゃう。……私の父親はね、私が中学生のときに亡くなったんだけど、世界中を回る写真家だった。紛争とか、貧しい国の子どもたちとか、そういうものを撮ってた」
「……すごい、な」
安易に感想なんて告げるべきじゃないのかもしれないけど、おれの口からはぽつりと言葉が零れた。自分を顧みないことを美徳だとか立派だとかは思わない。けれど、そうまでして自分の目で見ようとするものがあることが、単純にすごいと思った。おれの目に映る人間たちの姿は、やはりどこか不思議だ。
花村はおれの言葉を聞いても特に不快そうにはしなかった。手元の紫色を眺めながら、「そうだよね」と呟いた。
「父の仕事をどうこう思ってるわけじゃないの。ただ、私はただの子どもだったから。……家になんてほとんどいなくて、どこだかわかんない難しい国で仕事中に命を落とした父を、そんなに好きだと思えなかった。それだけ」
「……そっか」
「最後に父が撮っていた写真を、大使館の人が届けてくれたの。何が映ってたと思う?」
「うーん……。砂漠……兵士? あ、難民の子どもたちとか」
首をひねりながら答えると、花村はそんなおれを見て、いつもの表情で可笑しそうに笑った。
「そんなのなら問題にしないわよ。せっかく彩人の名推理を活かしてあげようと思ったのに」
そう言いながら、花村は手に持った紫色の香水瓶をおれの目の前でゆらゆらと揺らした。夜の闇にも似た色彩が、ガラス瓶の中でたぷんと小さな波をつくる。
「……あ、そうか。紫色のこと忘れてた」
「やっぱり彩人は彩人だったね。正解は、紫色の花の写真。群生しているところを遠目のアングルで撮っていたから種類はよくわからなかったけど、アンゲロニアとか、サルビア・ガラニチカとか……野草だと思う。あの人の仕事にはまったく関係のなさそうな、綺麗な写真だった」
おれは花村のお父さんのことは知らない。だから安易にその写真の意味を推し量ることはできない。それにきっと花村は、そんなことをおれに求めたりはしないだろう。その代わりに聞き覚えのある植物の名を頭の中を探ってみた。
「原産地はアメリカ大陸か……。アンゲロニアはサマースナップドラゴンとも言うんだよな。日本で言えばキンギョソウ」
おれがそう呟くと、花村が目を瞬いて笑い出した。
「そうそう、それ。日本でその色を出そうと思うと、色素構造と香り成分の似ているのが意外となくて。アキギリとかアケボノフウロとかを混ぜてるの」
「綺麗な色だと思うけど」
「……でも、やっぱりよくわからないの。見たいのか、見たくないのか。好きなのか、好きじゃないのか。本当はそんな気持ちで植物を扱いたくない。だから、この香水をつくるのは、父の命日があるこの時期だけって決めてる」
「花村らしいな」
「そう? こんなこと話しちゃうなんてあんまり私らしくないんだけど。まぁ、彩人には負けるよね」
花村は肩をすくめてそう言うと、ガラスの小瓶を片手に持ったまま再び席につき、ひとつ残った唐揚げを箸でひょいとつまんで口に運んだ。
「ん? 褒めてくれてる?」
「うん。なんか深く考えるの馬鹿らしくなっちゃって、ぺろっと言っちゃうんだよね」
もぐもぐと唐揚げを美味そうに頬ばる花村にしみじみと言われ、おれは期待に満ちた表情を引き込める。
「……褒めてんの、それ」
「褒めてる褒めてる」
楽しそうに笑う花村の手の中で、深い紫色の液体がゆらゆらと不規則に揺れるのを、おれは少し複雑な気持ちで見守った。
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