第36話 青紫の憂鬱4
閉店時間が近づいた田舎町のスーパーは、一日の終わりを惜しむようなどこかひっそりとした空気が流れている。その空気が、陳列台に残った商品の色彩をどこかぼんやりと霞ませるようだ。やけに響くオルゴールバージョンの歌謡曲を聞くともなく聞きながら、総菜コーナーを目指して歩いていると野菜コーナーに立ちすくむ背の高いシルエットが見えた。
ここは大学からほど近い下宿ゾーンのど真ん中にある大型スーパーだから、学生に出会うこと自体は決して珍しくない。それでも、親の仇のようにもやしの袋を眺めながら立ちすくんでいる男はやはりレアだ。
「……おまえは、もやしに前世の因縁でもあるのか?」
黙って通り過ぎてもよかったのだが、思わず声をかけてしまった。蘇芳は手に持っていた割引シールつきの袋から目を上げてこちらを見た。
「さぁ。たぶんないと思いますけど」
昼間に会ったときのままの服装だから、たぶんバイト帰りだろう。蘇芳は買い物かごにもやしの袋を放り込んで小さく肩をすくめた。
「普通に返すなぁ……。そんなに真剣にもやしを吟味してる姿が意外だってことだよ」
「単に、使い道を考えていただけですよ。スーパーでへらへらしてる方が不審でしょうが」
「まぁ、それはそうだけど。バイト帰りか? 遅くまでお疲れさん」
おれがそう言うと、蘇芳は簡潔に「どうも」と返しながら、スマホを取り出して時刻を確認した。
「彩さんこそ、ずいぶん遅いですね。まだ白衣着てるってことは実験中かなんかですか?」
「あ、うん。ちょっと居残り中でさ、晩飯買いに来たんだよ」
総菜コーナーの方向を指さして答えると、蘇芳はそちらの方にちらりと視線をやってから再びおれを眺めた。
「それはご苦労様です。今なら割引シール貼られてますよ」
「店員かよ。じゃあ、なくならないうちに行くわ……あ」
「?」
蘇芳の言葉に苦笑して、先を急ごうとして思い出した。昼間にこいつと学部の女の子たちの会話を見て、聞いてみたいと思っていたのだ。
「あのさぁ、蘇芳ってモテそうだし、彼女いたりする? 女心とかよくわかる?」
「…………モテないし、いないし、わかりません。なんなんですか、その質問……」
底抜けに脱力したような表情で蘇芳は肩を落とす。呆れ声で答えられた内容に、おれは小さくため息をついた。
「そうかぁ……。いや、変な意味じゃないんだけど、おれそういうの全然ダメだからさ、花村が何か悩んでそうなのに、あんまりわかってやれなくて」
「……? 花村先輩?」
「そう。なんか、元気ない気がするんだよ」
「はぁ。彩さんって、そういうとこやっぱアホですよね……」
「なんでだよ! 身近な人が困ってたら助けたいって思うだろ」
「だから、それでいいじゃないですか。なんで女心とかなんとかの話になるんです? 彩さんが知りたいのは、『女心』じゃなくて『花村先輩の気持ち』でしょ」
「…………そう、か」
「そんな風にぐるぐる考えるより、ちゃんと聞いてあげればいいじゃないですか。友達なんだから」
「友達……」
「? 違うんですか?」
蘇芳は素で不思議そうな表情になり、首を傾げる。本当に不思議な奴だなと思った。蘇芳の目には、おれは花村と「友達」に見えるのか。「友達」って、言っていいように見えるのか。
花村も恭介も、この大学から去って行けばいつかおれのことは忘れるし、おれと過ごしたこの時間は彼らの中で「なかったこと」になる。おれの「色」がこの世界に映り込まない限り、それはしかたのないことだ。それでもおれはきっと忘れないし、今一緒に過ごせる時間が大切だ。だからそれでいいと思っていた。旅の途中、流れていく電車の窓から眺めた風景のように、それ自体はもう思い出せなくなったとしても、楽しかった思い出や、鮮やかに残る他の風景を思い描くとき、微かにちらついて一緒に彼らの心を温めてあげられればいい。だからおれは、恭介や花村に、この大学で過ごす間にたくさんの「嬉しい」や「楽しい」を感じていてほしかった。無理をしてほしいわけじゃないけど、わがままを言えば、なるべく笑顔でいてほしかったのだ。
「……そうだな。『友達』だよ」
少しの後ろめたさとともに初めて口にしたその言葉は、ちょっと苦くて、意外に重くて、でも柔らかくて、温かい……そんな響き方をしたように感じた。蘇芳は黙ってこちらを眺めていたが、おれの呟きを聞き取ると小さく頷いてもやしの横のコーナーからどっしりとしたエリンギのパックを手に取った。ひとりでもちゃんと料理するんだな、えらいな……となんとなく感心しながら、野菜コーナーを彷徨い次のターゲットを探す蘇芳の指先を見つめていると、蘇芳の漆黒の目がこちらを向いた。
「早く行かないと弁当なくなりますよ」
「あ、うん。なんかありがとな」
「別に。道に迷った犬みたいな顔してるからちょっと構っただけです」
「……人を野良犬扱いすんな」
不満げに言い返すと、蘇芳はにっと口角を上げた。「野良犬なんて可愛いもんじゃないでしょうが」とでも言いたげな、可笑しそうな表情だ。本気で腹を立てたわけではないのだが、一応の名誉のためにおれは蘇芳にしかめ面を返し、急ぎ足で総菜コーナーに向かった。
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