第35話 青紫の憂鬱3

「じゃあ、戸締り頼んだぞ」


すっかり日が暮れきった頃、一仕事終えたらしい教授がそう言って帰り支度を始める。教授がこうして鍵を渡して先に帰るのは、花村と誰かが研究室に残るときだけ。「誰か」はつまり花村のボディーガードというか、番犬役が務まる者というだけで、要は花村が最も信頼を得ているということだ。そしてそのことについて異議を唱えるような者は、ここにはいない。


「はい。番犬は得意です」


研究ではさして貢献していないが、番犬役なら得意分野……というか、犬だしな。思考疲れの頭に浮かんだしょうもない発想を零しながら鍵の入ったケースを受け取ると、教授はわけがわからないというような表情をした。


「……は? また寝ぼけてんのか、御影」


「え、いや、何もないです。花村は、培養室ですか?」


「あー、そうだ。珍しくこんを詰めてる。無理しすぎないように見張っててやってくれ」


「……」


ロマンスグレーの髪を掻いた教授は、そう言っておれの肩をぽんとはたいてから研究室を出ていった。


「……花村、めし食った?」


培養室から戻ってきた花村に声を掛けると、花村は一瞬不思議そうに目を瞬き、それからやっとおれの質問の意味に気づいたらしく少しバツ悪そうに微笑んだ。


「あー……もうそんな時間か。彩人も居残り組?」


「まぁね。おれ腹減ったからなんか買ってくるけど、花村は何がいい?」


断られる前にとおれはさっさと席を立ち、入り口の前でそう尋ねた。花村はそんなおれの幼稚な作戦を見透かしたのだろう。可笑しそうに少し表情を和らげて、それから少し考えるように宙に視線を泳がせた。


「サンドイッチと唐揚げ弁当。あと、プリンかシュークリーム」


「……そんなに食うの?」


思わず怪訝な顔をして振り返ったおれに、花村が噴き出した。


「冗談よ。彩人が柄にもなくスマートな気遣いをしてくれるもんだから、ちょっとからかってみたくなって」


「ひど……」


顔をしかめて見せながらも、楽しそうに笑う表情にほっとする。花村がいつもどおりではないことくらいすぐにわかるけれど、それでも彼女はこうして身近な人の気持ちを見落としたりはしない。そういうところが、おれから見てもやっぱり「恰好いい」のだ。おれが買い物に出ている間は研究室に鍵を掛けておくようにと念押しするおれに、ニヤニヤしながら頷く花村に見送られ、おれは近所のスーパーに向かった。

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