第34話 青紫の憂鬱2


「あ、蘇芳……って、あれ? 恭介?」


昼の生協。いつもどおりにモノトーンの長身を見つけ、声を掛けようとして隣の人物に気づいた。


「彩。息抜きか?」


恭介は優しい色合いの髪をふわりと風に揺らしながらおれの方を振り返る。白衣からは、たぶんおれの嗅覚だからこそ嗅ぎ分けられる数種類の薬品の匂いがする。実験の合間なのだろう。相変わらず忙しそうではあるが、こちらに向ける笑顔は元気そうだったので安心した。


「いや、教授に頼まれて研究室用の飲み物買いに来たんだけど。恭介はメシ?」


そう尋ねると、恭介は一瞬ちらりと隣の蘇芳の方に視線をやった。この2人は面識があっただろうかと考えながら蘇芳と恭介の顔を交互に眺めるが、恭介はともかくとして蘇芳はいつもどおりに不愛想と不機嫌の永世中立国みたいな表情で感情が一切読めない。おれの正体を知っても努めて変わらずに接してくれているんだと思っていたが、それはおれの過小評価なんじゃないかと最近思うようになった。信じられないけれど、たぶんこいつ、本当に気にしていないんじゃないか。


恭介はおれが蘇芳に向ける胡乱な視線に気づいたのか、少し困ったように肩をすくめた。


「特に何か話してたわけじゃない。おれもただのお使いだよ。じゃあ、またな」


そう言うと、蘇芳に軽く会釈して、おれの肩をぽんと軽くはたいてから、研究棟に向かって歩き出した。恭介の後姿をしばらく眺めていると、ずっと黙ったまま憮然とした表情で立っていた蘇芳が口を開いた。


「なにか用ですか」


「用がなきゃおまえに声もかけられないのかよ……」


恭介と比べるわけではないのだが、愛想の欠片もない後輩の挨拶に、ついつい呆れた声が零れる。蘇芳は見慣れた黒いリュックを肩に掛け直し、鋭い眼でおれを見返した。


「用もないのにおれに声をかけられるようになったんですか。成長しましたね、彩さん」


「……バカにしてんの?」


「ただの感想ですよ」


「なんかおれの扱い日に日にひどくなっていくよな……」


「そうですか? おれ、けっこう彩さんに尽くしてると思いますけど」


蘇芳はなぜかおもしろくなさそうにそう呟くと、恭介が歩いていった方向を眺めながら手に持った紙パックのジュースをずずーと啜る。カラフルなフルーツティーの可愛らしいパッケージが恐ろしく浮いて見える。


「つ……変な言い方すんな! たしかにむちゃくちゃ世話にはなってるけど、そういう意味じゃなくてだな……」


予想外の反駁に思わず慌てた声を上げたとき、おれたちの横を通り過ぎようとしていた数人の女子生徒が声を掛けてきた。


「あ、蘇芳くん。今週の飲み会の話、高崎くんからきいた? 来られそう?」


蘇芳と同じ1年生だろうか、みんなお洒落で可愛らしい。少し下の目線から、期待を込めたような視線で蘇芳を見上げて彼女たちは尋ねた。蘇芳はずずっと間抜けな音を立ててフルーツティーを飲み干すと、彼女たちの方に視線を向ける。


「ごめん。その日、どうしてもバイト抜けられなかった。また今度声かけて」


当たり前と言えば当たり前だが、おれに対するときよりも数倍声と表情が柔らかい。こいつにも一応人に対する配慮とかあったんだなとなんとなく安心しながら、蘇芳と女の子たちが二、三言葉を交わすのを眺めていた。彼女たちは蘇芳の不参加の返事に残念そうではあったが、「今度は行こうね」と健気な念押しをすると満足そうに去って行った。


「……その、近所のコドモを見るじいさんのような目、やめてもらっていいですか」


「え、だって蘇芳もちゃんと人付き合いとかできてたんだなぁって、安心するじゃん」


「おれのこと一体なんだと思ってます?」


「別になんだとも……蘇芳は蘇芳だろ。まぁ、おまえの感じが発動されるのがおれだけなんだったら、心配いらないよな」


わかりやすく不満げな蘇芳の様子が面白かったので、おれはにっと笑ってそう言った。実際は近所のじいさんどころではないレベルの「年長者」なのだが、そんな的はずれな先輩風を吹かせるつもりはない。ただ、さっきの子たちに向けていた蘇芳の表情が、おれに向かったときには全然違うものに変わることがなんだか可笑しかった。


蘇芳はへらりと締まりなく笑ったおれの表情をじっと眺め、呆れたようにため息をついた。


「何を嬉しそうにしてるんだか知りませんけど……。彩さんに心配してもらうようなことはありません。人付き合いも授業もバイトも、人並みにはこなしてますから」


「人並みねぇ……。恭介と言いおまえと言い、優秀な奴は謙虚だよなぁ。おれからすれば出来すぎなくらいなんだけど」


「小柴先輩はともかく、おれに関しては買い被りすぎですよ」


「そうかな……」


さらりとそう言われれば、それ以上ムキになって反駁するのが馬鹿らしくなってくる。けれどどう考えたって蘇芳は優秀だ。蘇芳は長い指で飲み終わったジュースのパックを丁寧に畳むと、目だけを上げておれを見た。


「そうです。おれは基本やりたいことしかやりません。はこなすだけです。……小柴先輩だって、そうだと思いますけど」


「……? 恭介?」


ぽつりと付け加えられた内容に目を瞬く。どうして蘇芳がそこで恭介の名を出すのか、おれの知る限りのふたりの関係性からはわからなかったからだ。


「ま、そういうことなんで。用がないなら行きます」


「……あ、うん。呼び止めてごめんな」


蘇芳は簡潔に「いえ」と返事をすると、いつもどおりに涼し気な靴音を響かせながら講義棟に向かって歩いていった。その後姿がすっかり見えなくなってから、蘇芳に聞こうと思っていた内容を思い出す。表面に汗をかきだしたペットボトルのコーヒーを見下ろし、小さくため息をついた。

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