第32話 見えない色5 ー蘇芳sideー
「……まだやるんですか?」
「んー……もうちょい」
風呂から上がり、ペットボトルの水を飲みながら部屋に戻ると、さっきと同じ姿勢で無心にキーボードを叩く妖怪がいた。綺麗なブラインドタッチで、流れるように映し出される文字は、おれには解読不可能な元素記号や専門用語がほとんどだ。まったくの独学で、よくここまで身につけたものだと、さすがのおれも感心せざるを得ない。でもたぶん、ここで褒めるとさらにやる気を出してしまいそうな気もする。おれはソファに座って水を飲みながら、ぼんやりとその姿を眺めた。
「……あ、蘇芳、もう寝る? 邪魔になるなら、別のところでするけど」
不意に手を止め、彩さんはこちらを振り返る。意外に近い距離で、長めの髪がふわりと揺れた。相変わらず曖昧で、ぼんやりとしたその色をなぞるように、そっと手を伸ばす。
「…………蘇芳?」
不思議そうにおれを見返す表情が可笑しい。自分の方が、よっぽど不思議な生き物のくせに。そうして、この人がやっぱりどこか自信なさげなのが、少し癪だった。こんなにまっすぐで……強いくせに。
「彩さんの髪の色」
一束指に絡め、すっと梳いてみると、柔らかな感触が指を撫でた。うっすらと闇が入り込んでくる部屋の中で、浮かび上がるパソコンの画面から洩れた無機質な光がちらりと反射し、微かに温かさを増す。彩さんは小さく首を傾げるようにしてしばらく目を瞬いていたが、髪に触れたおれの手を振り払うでもなく、少し目を細めて小さく笑った。
「安っぽい、か?」
「…………そう、ですね。…………けど」
「?」
「悪くないです」
そう呟いたとき、彩さんはちょっと妙な表情をした。笑い出しそうにも、泣き出しそうにも見える、どこか困ったような表情で、「変な蘇芳……」とぽつりと呟いてまたパソコンのキーボードを叩き出す。その滑らかな手つきを眺めていると、だんだんと眠気が押し寄せてきた。ソファに倒れ込んで目を閉じると、少し呆れたような声が響く。
「おーい、寝るならちゃんと寝ろよ。風邪ひくぞ」
「……いつも地べたに転がって寝てる人に言われてもね……」
「おれはいいんだよ。ほら、起きろって。すーおーうー」
完全にいつもと逆転したような構図で、彩さんにゆさゆさと肩を揺さぶられながら、おれは妙にすっきりした気分でいた。
……おれにとっての「金色」は、この人の髪の色でいい。薄ぼけてて、はっきりしなくて、いつも少しだけおれを苛立たせる。でも、どこか温かくて、輝くことをやめない強い色。
失った色を取り戻せなくても、おれにしか見えない「色」があるんだと言ってくれる気がするから、この色を、おれは「金色」と呼べばいい。
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