第30話 見えない色3 ー蘇芳sideー


「…………彩さん」


「んー?」


足元に転がっている金髪の男を見下ろす。とは言っても、やはりおれの目にはこの人の髪の色はうっすらと輝く、ひどく曖昧な色にしか見えない。今はもう、この人の髪が金色だということを、「知識」として知っているだけだ。


それでもただの黄色や金色ならほとんど映ることのないおれの目に、時折光の加減なのか、忘れかけたその彩りを微かにちらつかせる。なぜなのかはわからないが、何しろ不可思議な生態を持つこの人のことだ。本来の自身の「色なき色」を唯一染め変えているこの髪の色は、おそらくおれたち人間の計り知れない強い力かなにかで与えられたものなのだろう。


とりあえず得体は知れないこの色が、おれにとっては皮肉にも特別で、輝くばかりに咲き誇る向日葵の花や、豊かに実った稲穂や、秋の街を染める銀杏イチョウ……そんな風景を思い出させるものだから、なんとなく目を凝らしてしまうクセが治らない。


「その国内時差ボケの意味もわかったんで、多少は情状酌量してあげますけど。それでもさすがに、起きてください」


「…………今、何時?」


のそりと起き上がった白衣の男は、柔らかそうな髪をわしわしと掻きながら、寝ぼけまなこでおれを見上げる。白衣にも、髪にも、異様に白い肌にも芝生の緑が鮮やかに映り込みそうだ。相変わらず、この人の「色」は、周囲のあらゆる色を引き立たせる。そして当の本人の輪郭は、すこぶる頼りない。


「おれがこの場所に現れて、転がってるあんたを見下ろす時刻、いい加減体内時計に刻んでもらえませんか」


「……………………んー…………四時、半か」


「……まぁ、彩さんにしては上出来としておきましょう」


ため息をつきながら、まだぼんやりと座り込んでいる男の白衣の腕を掴んで引っ張り上げる。なんでおれがこんなことをしないといけないのか。この人といると調子が狂わされるのはさすがにもうわかっているのだが、それでもこうして講義が終われば、この鬱蒼とした謎の雑草地帯に脚を向けてしまう。きっとこの、特別な「色」のせいだ。


「もしかして、おれ、褒められてる?」


一瞬力を入れて腕を引っ張ると、彩さんはさすがに目が覚めたのか軽やかに立ち上がり、色素の薄そうな瞳をこちらに向けてにっと笑った。その、純粋に得意げな表情を呆れ顔で見返す。


「幸せですねぇ……」


「憐れむような目で見るなよ。しかたないだろ、相対性理論で言えば、人間の数時間を、おれが瞬きするくらいの時間に感じたって不思議じゃないんだ」


「そんなもっともらしいこと言ってますけど、彩さんの場合イマイチ説得力に欠けるんですよね。せめて他の面でもうちょいしっかりしといてほしいというか」


「……うるさいな。おまえにどんだけ呆れられようが、眠いもんは眠いんだよ」


「開き直るのだけは、早くなりましたね……。また、論文難航してるんですか」


なんとなくふわふわと頼りない足取りで隣を歩く(一応)先輩である彩さんを横目で眺めながら尋ねてみる。この人がこの大学にいるのは、ただただ純粋な研究意欲から。そもそも人間じゃないのだからきちんとした学籍は持っていないし、当然卒業だって正式にはできない。目の前にいるときだけ認識される、その特異な存在感を知ってか知らずかフル活用して学生の中に紛れ込み、この空間でだけ認知される大学生として生きている。


「実験は順調なんだけどなぁ……。おれ、文章にまとめるの苦手だ……」


「日本語すこぶる怪しいですもんね」


「そこまでじゃない!」


適当に打った相槌に律儀に反応するあたり、一応目は覚めているらしい。目が覚めているときのこの人は、あまりおれの方を見ないように感じる。と、いうよりも、周囲の景色に吸い込まれそうな目をしている。愛おしいような、憧れるような、羨むような……そんな目で、この人は周りの風景に散りばめられた「色」を見る。こうして気の抜けるような会話をしていたって、その表情は、いつもどこか切なげだ。


「とりあえず、研究室で寝泊まりすんの効率悪いですよ。ちゃんと寝ないから頭働かないんでしょ」


「そうだけど、おれのねぐらにはパソコンないの。大学ここでやらなきゃしょーがないだろ」


彩さんが生息(?)しているのは、この街を見下ろすような雄大な原始林を抱く、青々とした山の連なりのどこか。さすがにWi-Fiも飛んでいない。「緑」という3音では綴り切れない複雑な色合いを飾り立てる荘厳ないただきを眺め、おれは足を止めた。


「? どうした?」


数歩おれを追い越してから、彩さんは思い出したように立ち止まって振り返る。長めの髪が、夕日の赤い光に微かに染まっている。他の人には、この色はどんなふうに見えるのだろう。おそらく彩さんにとって「特別な」この色を、おれは何度も「安っぽい」と言った。それは単に、おれの目に映らない色への微かな苛立ちと、いつもどこか自信なさげで俯き加減だったこの人に向けた小さな皮肉のつもりだった。けどたぶん、おれはこの色を見たいんだろう。目の前にあるのに、いつも鼻先をすり抜けて消えていく、捕まえることのできない色。


「パソコンなら貸してあげます。久しぶりに、おれの新作メニューの毒見係になりませんか?」


そう尋ねると、彩さんはきょとんとして、少し考えて、それからおもむろに慌て出す。いろいろな怪談や民俗学文献の片隅に姿を現す稀代の妖怪は、今日も相変わらず反応速度が鈍い。


「え……っ、それって、蘇芳の家……? いや、だって悪いし……」


「なにを人並みに遠慮してるんです。気ぃ遣うくらいなら、そんな生白い顔で転がるのをやめてください。ほら、行きますよ」


ため息をつきながらそう言って彩さんを追い越すと、うしろからもごもごと何か言いながら追いかけてくる足音が聞こえた。立ち止まって言い分を聞けば、なんだかんだと遠慮をしながら「行かない」と言うに決まっている。妙なところで頑固な彩さんに追いつかれないよう、でも見失われないよう、おれは歩幅を慎重に調節しながら歩き続けた。

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