第29話 見えない色2 ー蘇芳sideー
大学近くのアパートの一室で、部屋に積み上がった段ボールの山をうんざりしながら眺めていると、放り出していたスマホが振動した。面倒だなと思ったが、表示された名前を見れば諦めはついた。きっとおれが出るまでこの電話は鳴り続ける……そう確信させる名前の響きだ。
『おぉ、
通話につないだ瞬間、陽気な声が耳元で響いた。カーテンすら掛けていない窓からのぞく、どんよりとした花曇りの空模様も意に介さずに、呆気なく明度高めの暖色に塗り替えるような声だ。暑苦しいのはいつもどおりだが、声を聴く頻度もかなり減った今ならさして苦痛ではない。なんなら少し懐かしくさえある気がする。
「移動は終わったけど、片付けは終わらない」
そう言いながら、ひとつだけ色の違う段ボールを引き寄せる。他のものより厚く、しっかりとした造りのこの箱に、絵を描くための道具を詰め込んで持ってきた。端だけが不恰好にめくれ上がったガムテープを剥がそうかどうしようかと少し考えて、そのままクローゼットの方に押しやった。
『まぁ、そう焦らんでも。そのうち自然に片付くだろう』
呑気なアクセントをつけて、詠うように祖父は言う。おれが借りた学生向けアパートのこの部屋には、そんな便利機能はついていない。おれが片付けなければ、部屋は永遠にこのままなのだが、そんな議論を真面目にしてもしかたがないので、軽く唸るだけで済ましておいた。
『それより、大学どうだった?』
「どうって?」
『可愛い子とか、綺麗な子とか、いたか?』
「………」
『なんだよ、黙って。充実したキャンパスライフには不可欠だろ』
心なしかうきうきしたような声で話すこの男は、世界的にも有名な水彩画家のひとりで、おれの祖父。エネルギーなんて有り余っているくせに、「余生はのんびり好きなように絵を描きたい」なんて突然言い出し、あっさりと前線を退いた。今は祖母と一緒に世界中を気ままに旅している。将来を有望視されながら忽然と芸術界から姿を消した孫を疎ましがるわけでもなく、憐れむでもなく、当然別に気を遣うわけでもない。壮大な世界観を、驚くほど精緻に、そして同時に信じられぬほど大胆に描く、あの感性の前には、おれの現状など清々しいほどの
「じーさんは相変わらずだな……。今日は入学式だけだったから、特に誰とも……あ」
『ん?』
「……変な人になら、会ったな」
答えかけて、先程出会った妙な学生のことを思いだした。入学式が終わって、門を出ようとしたおれを呼び止めた学生だ。
印象に残ったのは、まずその男の纏う「色」が、おれにとって最悪の取り合わせだったからだ。羽織っていたのはおそらく白衣。白い肌。そして、おれの目には限りなく
『初対面で変な人、とは。ずいぶん印象的だったんだな』
「…………さぁ、よくわからんけど」
祖父が意外そうな声で聞き返す。「印象的」という表現をあの青年に当てはめてしまっていいものか、おれは少し戸惑った。実際は、ひどく印象に残りにくかったのだ。ちょっと尋常じゃないくらい、その青年の姿を認識するのは骨が折れた。それがおれの色覚の異常に依るものなのか、その青年自身の性質に依るものなのか、その両方なのかはわからない。でも、だからこそ目を凝らしてしまったというか……「見えないから、見たい」と本能的に感じさせる何かが、たしかにあった。そしてそれは、ずいぶん久しぶりに感じる、あの感覚に少し似ていた。「描ききれないから、描きたい」と、強く搔き立てられる、あの感覚に。
『まぁ、たまには人間にも興味を持てよ。人間臭さは、この世界を描くための最高にリアルな彩りなんだ』
「じーさんの創作論はおれにはよくわからん……。っていうか、おれは今描く気はないんだ」
『「
「…………まぁ、気が向いたら」
祖父の励ましは、いつもどおりに型破りだ。でも、腫れ物に触るみたいに気を遣われるよりよっぽどいい。おれ自身も、別に自分を上等だとも思っていないけれど、だからといって腫れ物とも傷モノとも思ってはいないのだ。今のところ、「もしかしたらそのうち絵を描きたくなるかもしれないただの学生」。それ以上でも以下でもない。
祖父が嬉々として語るイタリア料理の魅力と、地中海の風景の素晴らしさと、それから祖母との惚気話をひとしきり聞き流し、やっと電話を切ったころには強い西日がカーテンのない窓から部屋になだれ込み、段ボールだらけの部屋を染め始めていた。
シャワーを浴びて、帰りにコンビニで買って来ていた弁当を食い終わると、なんとなく手持ちぶさたの状態になった。やるべきことは目の前に積み上がっているのだが、今は何一つ片づけられそうにない。むりやり段ボールを押しやって辛うじて作ったスペースにごろりと寝ころび、見慣れない天井をぼんやりと眺めた。
―あなたの絵を、見たことがあって。
たしか、今日そんなことを言われたなとふと思い出す。誰にだったか、しばらく考えて、浮かんできたのはやはりあの妙な青年だった。こんな会話ひとつ記憶に残りにくいとは、一体どういうことなのだろうか。たしか、感想も言ってくれたはずだが、どんな内容だったか、どんな調子だったかもはっきりと思い出せない。あの青年にまつわる記憶そのものが、薄ぼけた絵の具にたらふく水を足したときのように、いやに透明で、そのくせ霞んで、掴みにくい。たとえそれがどれほどありふれた表現でも、オリジナリティに欠ける世辞でも、ついさっき交わした言葉をこうも簡単に見失うものだろうか。
「…………あの髪の色、何色なんだろうな」
おれの目にはほとんど映らなかったあの色。もっと目を凝らせば、見えてくるのだろうか。おれにとっては最悪の、「見えない」色を纏ったあの人は、どんな表情でおれの描いた絵を、色を眺めたのだろうか。
すっと目を閉じると訪れる、滑らかな暗闇の色を見てうっすらと思い出した。この世界には、特別な色があったということ。見えないことを「色」として名づけた、「白」という光の名を。
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