第25話 偽りの金色10

蘇芳が見上げるおれの姿は、純白の毛に覆われている。太く鋭い爪が地面を掻く感触、ぴんと立てた耳と、長い尾を揺らす風の感触は、ずいぶん久しぶりに味わうものだ。人はこの姿を「山犬」と呼んだり、「銀狼」と呼んだりするが、自分が何者なのかはおれにはよくわからない。生まれたときからふたつの姿を持っていた。人間の血も、妖の血もおれの身体には等しく流れている。どちらでもあり、どちらでもないこの命で、おれを見上げるこの不思議な人間よりも、ずっとずっと永い時間を渡ってきた。


さすがに逃げ出すだろうと思いながら見返した蘇芳の漆黒の目は、逸らされることなくはっきりとした視線でおれの輪郭を辿る。


『…………』


「……あなたが、妖怪……だったんですか」


蘇芳はおれを見上げたまま、呆然と呟く。初めて見るようなその表情が、飽きるほど見てきた、恐怖と嫌悪にまみれたそれではないことに少し安堵するが、それもただ一時のものだろう。いつもの、蘇芳が呆れたようにおれを見る視線が懐かしいような気すらした。できればそうやって、今までみたいに呆れたり面倒くさそうだったりしながらでいいから、「御影彩人」であるおれを見ていて欲しいと思った。そんな都合のいい思考を振り払うように、蘇芳から正面の色喰いに視線を戻す。


『……だよ。もうわかっただろ。蘇芳が気に掛けてくれるようなは、ここにはいない。いいから、早く行け』


唸るような声が響く。この姿で人に向かって話すことなんてなかったから、響いた音の違和感に自分が少し驚いた。蘇芳は一瞬目を瞬いたおれを見上げて微かに眉間にしわを寄せる。


「……しゃべれるんですね。っていうか、自分でびっくりしてません?」


『…………してない』


「……いまいち迫力に欠けるあたりが、彩さんらしいですよね」


『……は? おまえ、まだそんなこと……』


まだ表情から完全に動揺は抜けきらないように見えるものの、この異様な状況の渦中にいるとは信じられないほどの落ち着き払った声で蘇芳は呟く。思わず反応しかけたとき、ゆらりと蠢いた色喰いが、鋭い影の刃をこちらに向かって放ってくるのが視界の端を掠めた。


『……っ』


咄嗟に蘇芳の前に跳び出し、前脚と尻尾で黒い切っ先を払うが、この身体に対して色喰いの放つ攻撃は細かく、照準が絞りにくい。防ぎ損ねたガラスの破片のような妖力が身体をすり抜ける感触にひやりとした。


『蘇芳……!』


「……なんですか」


焦って振り向いたおれの背後から、面倒くさそうな声が響く。見下ろした蘇芳は、いつも肩に掛けていた洒落たストールの端を手に巻き付け、鋭く翻した布先で自分を狙う黒い刃をはたき落としたところだった。


『…………え?』


「間抜け面してる場合じゃないでしょ。狙われてますよ」


『いや……だって、おまえ本当に何者なんだよ……』


話に聞いたことはある。何の変哲もない布切れを鋭い槍のように、武器として扱う武術がどこかに存在すると。けれどそんなのは物語の中のことで、とっくに滅びた古武術を誰かが伝説化した程度のものだと思っていた。蘇芳は生き物のように自在にはためくストールをこともなげに引き寄せると、呆気に取られたおれを見上げてため息をついた。


「今の彩さんに何者かを疑われるってけっこう癪なんですけどね。どう考えてもこっちのセリフです。それより、喋れるんならその姿でも『力』使えるんですよね?」


「……使える、けど、使う必要ないだろ」


人間の姿かたちをとっているときのおれは、それほど戦闘にけているわけではない。でも、今は違う。人間からも妖怪からも恐れられた、古代から生き続ける獣の血が身体中を駆け巡るのが、自分でもはっきりとわかる。


蘇芳は手に巻き付けたストールの先を手繰り寄せ、動きを確かめるように微かにしならせる。じりじりとこちらに向かって歩を進める、いびつな人型の色喰いを見据えながら、一瞬だけこちらに目をやった。


「相変わらず嘘が下手ですね。色喰いあいつらを食い千切るだけでことが済むのなら、今までだってそうしていたでしょ。『色』を取り戻すためには、あの筆で『描く』ことが必要なはずでず」


『…………』


「彩さんのことはボケてるし抜けてるしピント外れだと思ってますけど、馬鹿だとは思ってませんよ。……ほかに手段があったなら、おれに頼らずとも、自力でなんとかしていたでしょう」


『……ボケてて抜けててピント外れで、悪かったな』


「もっと言いたいことはあるんですけど、とりあえず、早く『色』出してもらえませんか」


『…………そう言われても……』


いつもとさほど変わらないような調子で進んでいく会話のテンポに、おれの思考は呆気なく取り残される。どうして蘇芳がこの場から逃げ出さないのかも、どうしてこの姿を見たうえで、いまだにおれに「彩さん」と呼びかけられるのかも、わからないし考える糸口すらおれにはない。ぐちゃぐちゃにこんがらがった頭の中に覆いかぶさるように響く蘇芳の声になす術もなく引き摺られ、思わず周囲を見回すが、おれの目に映る風景はすでにかなりの範囲に色喰いの力が侵食しているようだった。元来ははっきりとした姿カタチを取らないはずのこの妖怪が、今おれたちの前に黒い人形のような姿で立っていることが、すでにかなりの「色の力」を取り込んでしまっていることを物語っている。


「…………あ、そういえば」


蘇芳はおれがうろうろと視線を彷徨わせるのをしばらく眺めていたかと思ったら、不意に何かを思い出したように足元に放り出していた黒いリュックの中を漁り出した。そしてすぐに、鮮やかな黄色の花が入った透明な瓶を取り出した。


『……向日葵ひまわり……?』


大きめの香水瓶のような容れ物の中に収まっているのは、美しい向日葵の花。小ぶりだが、輝くような色彩は本物だ。


『……これ、ハーバリウムか』


元々は研究用に用いられた、植物を生花に近い状態で標本として保管するための手法だ。最近では、贈り物やインテリアとしても人気だと聞く。蘇芳は肯定を表すように小さく頷いてみせた。


「バイト先の奥さんから預かってたの、忘れてました。この間店に来たとき会ったでしょ。店に飾ってた雑貨ですけど、彩さんの髪の色に似ているからあげたいんだって。なんか『失礼なこと言っちゃったお詫び』だとも言ってましたけど……」


『髪……今はもう……こんなに、綺麗じゃないけど』


太陽のような、明るく溌溂はつらつとした金色。明誉がおれのために与えてくれた色彩は、きっとこんな風だった。でも、あの温かい掌が離れてしまってから、おれはずっと顔を上げて生きて来られたわけじゃない。胸をはってここに居られたわけじゃない。自分にはない「色」への羨望も、執着も、本当はずっと往生際悪く抱えたまま、それでもあの約束を道しるべにこの場所に辿り着いた。何度となく俯くたびに、明誉がくれたこの色は少しずつ色褪せていくように感じた。思わず零れた独り言に、蘇芳は目を瞬いて、それから可笑しそうに口角を上げた。


「じゃあ、おれがあげますよ。この色を、彩さんにあげます。だから、描かせてください」


『………?』


「ほら、本気のお出ましですよ。早く」


蘇芳の言葉の意味がわからず、首を傾げたおれに蘇芳は急かすような視線を投げて寄越す。いつの間に手にしていたのか、大きな掌にはおそらくおれがこの姿になったときに投げ出されていた真紅の筆を握りしめている。再び向き直った視線の先には、ところどころがぼこりと膨れ上がり、歪んだ影のような身体を重そうに揺らしながらこちらに向かって禍々しい妖力の塊を放とうとしている色喰いの姿があった。

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