第15話 蒼天の露草色8
「……鯉?」
「行って来い」
蘇芳が最後の一筆で生き生きとした瞳を描き入れると、二匹の鯉はぱしゃりと雨粒に濡れた尾ひれを動かし、そのまま競い合うように、雨の線を辿って天に向かって泳ぎ出した。
「……え? 空、飛んでる……?」
「『登竜門』伝説、ですよ。元は『後漢書』に記された伝説です。流れに逆らい、滝を登り切った鯉は、その姿を変え……」
「あ……」
二匹の鯉は空から降る雨粒の流れに逆らい、ダイナミックな動きで力強く天に昇ってゆく。見る見るうちに、その姿は雨雲で覆われた灰色の空に達し……厚い雲に触れたかと思ったら、光り輝く美しい青龍の姿になった。光そのもののような姿が、一瞬にして厚い雲を晴らし、その向こう側にあった突き抜けるような蒼天を連れてきた。
「龍に……なった……」
「童謡の歌詞にもなっていますよ。『
おれの知っている「こいのぼり」の童謡とは違うようだが、この光景を見れば頷かないわけにはいかなかった。久しぶりの青空を見上げ、少し眩しそうに目を細めた蘇芳は、そう言ってにやりと笑う。
「……う……あいつは……別物、ということにしといてくれ」
「あの子はあの子で、立派な龍でしたよ。自分ができることを、きちんと果たした。飼い主が自信なさげな分もカバーして、堂々としてたじゃないですか」
「……そう、だな。そうだった」
つぶらな瞳で、満足げにおれを見上げた大きなとかげ。空が飛べないからなんだとばかり、自慢の尻尾で色喰いを叩き落としてくれたのだ。できないことに縛られているおれよりも、ずっとしっかりとした「魂」だ。
蘇芳の言葉の意味がわかったら、なんだかすっといろんなことが腑に落ちて、目の前の曇り空の残滓が溶けていくような気がした。
おれは、蘇芳のように強くはない。必要なものだけをきちんと選べないし、いろんなものに目移りして、ふらふらしている。情けないことに変わりはないけれど、情けないなりに自分が望んでいることがわかった気がした。
そして、もうひとつ、おれが「したい」ことが見えた。朱の筆を持ち、雨に濡れて艶やかに光る髪、黒の彩りを身に纏う蘇芳を眺め、見つけた答えを小さく告げる。
「……おれ、やっぱり……おまえの描く絵が、見たいよ」
おれが引き出す、自然の魂の色は、こいつに預けたい。投げ出したものを押しつけるんじゃなくて、ちゃんとしっかり持って、渡せばいい。
「……おまえに、この力の、半分を預ける。力を借りても、いいか?」
蘇芳は、久しぶりの青空を眺めていた漆黒の瞳をこちらに向けた。手に持った朱塗りの筆を長い指ですっと撫でると、おれに向かって不敵に微笑む。
「安くないですよ」
「……え」
「ふらふらしてないで、しっかり目ぇ開けて、極上の『色』を取り出してください。おれを、駆り立てるくらいの」
蘇芳の言葉は、不遜なようで、でも驚くくらいにすっと身体に沁み込んだ。それはおまえの役目だ、と言われた気がした。その言葉は、ずっとなんとなくおぼつかなかったおれの足元を、少しならして、固めてくれるような気がした。
「……うん。善処する」
「便利な日本語ですねぇ……まぁ、いいです。あなたといると、退屈しませんから」
蘇芳はそう言って、雨に濡れた黒髪を掻き上げると薄く笑った。
「おれは、蘇芳の退屈しのぎ用玩具じゃないからな……」
「え、違ったんですか? 初耳です」
「おまえなぁ……」
「それより、早くあの子呼んできてあげた方がいいんじゃないですか。こんな快晴、またしばらく拝めないかもしれないですよ」
久しぶりに見る青空の下では、さっきまで重苦しかった雨の滴が散りばめられた宝石のようにキラキラと光る。
ずっと、なんとなく直視できなかった、この底知れない後輩の表情が不思議と柔らかく見えるのは、この雨上がりの景色の鮮やかさのせいだろう。
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