第7話 困惑の躑躅色《つつじいろ》


しばらくの間、通路の邪魔にならないような位置を選んでしゃがみ込み、周囲に散らばった躑躅の花を拾い続けた。レジ袋はすぐに鮮やかな色彩でいっぱいになり、小さく風が吹くたびに、ほんのりと甘い蜜の香りが鼻をくすぐる。花村が言っていた「蜜を吸う」遊びが、無邪気な子どもたちを惹きつける理由がわかる気がする。が、拾った花の一つ一つがそうして生き生きとして見えることが、やはり微かな違和感を呼び起こした。


「……やっぱり、不自然だよなぁ」


ぽつりと零れる自分の言葉が耳を掠め、より一層その「感覚」が鮮明になる。やっぱり、これほどの花が一気に落ちてしまっているのが不自然なのだ。しかも、先日実際に「色喰い」の出現を目の当たりにした直後のこと。おれの希望的観測は実現されることの方が少ないが、悲しいことにこういう「嫌な予感」は意外と的中率が高い。まぁ、そういう性分なのだろう。


しゃがみこんだ姿勢のまま、じっと躑躅の花を眺めるが、その鮮やかな赤紫が揺らぐことはなかった。おそらく、この花自体が色喰いに狙われているわけではない。手を伸ばして少し硬めの深緑の葉に触れる。細かな毛で覆われたような、少しざらりと粘つくような質感。ぐっと掻き分けて覗き込むと、やはり、じわりと肌に沁み込むような嫌な温度と共に、何色ともつかない複雑な影のような形で、枝という枝にまとわりつく「色喰い」の姿があった。


「……っ」


植物の生命の「柱」でもある幹。その色をじわじわと奪っていく色喰いは、植え込みの陰の中を狡猾に渡りながら少しずつ侵食する範囲を広げていく。すでに、かなり広範囲の枝や幹の色が失われており、繋ぎ止めることができなくなった葉や花が、その柱から引き剥がされ、緩やかな風に舞って次々と落ちていった。


おれは急いで周囲を見渡す。すぐにでも、この植え込みの中に巣食う色喰いを消し去らなければ、まだ辛うじてしがみついている美しい躑躅の花もすぐに散らされてしまうだろう。しかし、間の悪いことに、前回とは違って今は周囲にちらほらと人影が見えた。こんなところで「力」を使えば、おそらく大きな混乱を引き起こしてしまう。白衣の上から、小さな筆をぐっと握りしめた。


とりあえず、少しでも人目から逃れるために、植え込みを伝って生協の裏手に向かう。食堂と併設された購買部の前を横切ったとき、自動ドアが開いて蘇芳が出てきた。


「彩さん? どうかしました?」


「……っ、悪い、急いでるんだ……!」


血相を変えたおれの様子を不審に思ったのか、蘇芳が目を瞬きながら尋ねてくるのに立ち止まる余裕もなく、おれは適当な返事を投げ捨てると急いで建物の裏手に回った。


少し陰になった場所で、壁に貼りついて姿を隠しながら必死で頭を回転させる。ここなら、きっと「力」を使っても人目には触れない。手元には、さっき拾った色鮮やかな躑躅の花がある。これだけ生き生きとしていれば、色を取り出すことも容易だろう。


だが、これほど広範囲に及んでいる色喰いの動きを止めるには、躑躅の色から一体何を描き出せばいいのだろう。下手な絵を描けば、それ自体が生徒の目に触れ、いらぬ混乱のもとになる。当然、愛くるしい巨大とかげを呼び出すわけにもいかない。


どくん、どくんと波打つ心臓の音が思考を邪魔する。壁に押しつけた白衣の背にひんやりとした汗が流れた。やっぱり、この「力」はおれには向いていない。そんな薄暗い、ひねた思考が考えようとする意志を削ぐように頭をもたげる。受け継いだ力を使いこなすだけの技量がおまえにはないと、嘲られている心地がした。おれには、「描く」力がない。預けられた自然の「魂」の色を、活かしてやれるだけの力がないのだ。白衣の上から筆を握りしめる掌が緩んでいく。その場にへたり込みそうになったとき、カツンと硬質の音がして、俯いた視界に黒いショートブーツの爪先が映り込んだ。


「…………蘇芳」


「何、へたってんですか。腹でも減りました?」


呆れたようにそう言って、蘇芳は微かに目尻を下げた。どこか薄暗くぼんやりとした視界に、蘇芳の纏う黒はいっそ鮮やかに映り込む。その鋭い存在感が、微かに頭の芯を冷やした。


「……蘇芳は、見たんだよな。おれの、『力』」


蘇芳が「安っぽい」という、頼りない金色の髪を透かしてその表情を見返す。蘇芳はおれの唐突な質問に目を瞬いたが、それからじっとおれを眺めて、平然と頷いた。


「見ました。彩さんが、とかげモドキの謎の生命体を描いて、そいつが実体化して、黒いモヤモヤを叩き潰すところを」


「……おまえらしくない、よくわからん表現だな」


「よくわからん現象を、理路整然と述べろという方が無理でしょう。まぁ……さすがに俄かには信じがたかったですけど、自分があんな馬鹿げた白昼夢を見るような人間だとも思いたくなかったですし、一応確認させてもらったんです」


「……で、信じたのか?」


「信じたというか……とりあえず、信じざるを得ないというか。世の中広いですから、アホみたいに奇妙なことだって起こり得るでしょう。そう思っておきます」


「…………」


大して表情も変えずに、蘇芳はさらりと言ってのける。心なしか、「アホ」とか「奇妙」とかの響きにアクセントが置かれていたような気がするのも、どうでもいい話でおれに絡んでくるときの感じと同じだ。こんなところで異様な現実を突きつけられているというのに、視界に映る、黒い靴の足元は決して揺らがない。どんな色でも染め変える黒を纏い、どんな場所でも、こいつの描く線は確信的で、美しく、そして強い。


「…………蘇芳なら、何を描くんだろうな」


「は?」


訝し気に聞き返した蘇芳の目を見返す。力の抜けた掌から滑り落ちたレジ袋が地面に落ち、色鮮やかな花が足元に散らばった。


「……彩さんは、今、何かを描こうとしたんですか?」


「……した……けど、どうせ描けない」


「……どんなものを描こうとしたんですか」


「…………躑躅ツツジの、植え込みに潜んだ妖怪を、人目につかずに退治できるようなモノ」


「………………はぁ。出来の悪い絵本の中にでも迷い込んだような気分です」


「…………」


心底疲れたようなため息まじりの言葉に、おれは顔を上げることもできずに小さく唇を噛んだ。蘇芳の言うとおり、今のおれは出来の悪い絵本の中のキャラクターそのもの。揺らがない輪郭を持った目の前の男とは、そもそも立っている地面が違う。


「おれの人格が崩壊したら、ちゃんと責任取ってくださいよ」


「……え?」


少し調子が変わった、呆れたような、でも少し笑い出しそうな蘇芳の声。おそるおそる伏せていた目を開けると、不敵に口角を上げた蘇芳の表情が間近にあった。


「……っ、なんだよ!?」


「でかい声出さないでください。見つかりますよ。さっさとこの間みたいに『色』を出してください。さすがのおれも、モノがないと何も描けない」


「……え、なに、描く……? おまえが……?」


「頭悪そうな返ししてる場合じゃないでしょ。ほら、早く」


蘇芳は足元に散らばった躑躅の花をがさりと拾い集め、急かすようにおれの眼前に差し出す。蜜の香り、艶やかな赤紫。この薄暗い空間で目の前に突きつけられた躑躅の色は、太陽の光の下で見たときよりも、どこか妖しげに美しく見えた。その明るい色で覆い隠していた何かを浮き立たせるように、蘇芳の指がすっと花弁の縁を撫でる。


『…………明誉みょうよの、名のもとに命ず』


表情の読めない蘇芳の黒い瞳に引き摺られるように、おれは唱えた。蘇芳の手の中で、元の居場所から切り離された躑躅の花が微かに揺れる。


『汝の魂の色……山野を彩るはな、妖艶なる引力の躑躅色つつじいろを現せ』


おれが呟いた言葉と呼応するように、躑躅の花弁から鮮明な赤紫の色が滲み出て、おれと蘇芳の間にふわりふわりと漂った。蘇芳は深い漆黒の目で、その色をじっと眺める。そして、極上の美酒でも味わうようにその鋭い表情を一瞬だけ緩めたかと思ったら、おれの方にずいと手を差し出した。


「筆」


「え……? あ、でもこれは……」


簡潔に告げられ、咄嗟に白衣のポケットから取り出した筆を握りしめる。この筆を、目の前の人間……蘇芳に持たせていいものなのか……覚束ない判断を下す間もなく、伸びてきた長い指がおれの手から朱塗りの筆を奪い取った。


「…………っ」


蘇芳の手がその筆に触れたとき、バチっと鋭い音がした。蘇芳は一瞬だけ涼し気な表情を歪めたが、その手を離すことはなく、次の瞬間にはぐっと強く金箔を押した筆の柄を握り込む。その、目の前の光景の異様なほどの迫力に押されて声を失っていたおれの目の前から、ゆらゆらと浮かんでいた躑躅の色が一気に蘇芳の手元の筆に吸い込まれていった。


「……いい子だ」


不敵に微笑み、ぽつりと呟いた蘇芳は、目の前のなにもない空間に向かって滑らかに筆を運ぶ。繊細な輪郭、ダイナミックな湾曲、確信的な繋がり……蘇芳の指先が縦横無尽に駆け巡ったところから、色鮮やかな蝶が次々に浮かび出した。



躑躅の色を映しとった無数の蝶は、蘇芳の周囲を一回りすると、一斉に植え込みに向かって飛んでいく。赤紫の羽を翻し風に乗る姿は、まるで躑躅の花そのもののようだ。僅かに残っていた花に紛れるように、植え込みの中に潜り込んでいく様子に、周囲にいた学生たちが「わぁ……!」と感嘆の声を上げたが、それ以上の混乱は起こっていないようだった。近くにあった植え込みの茂みの影を覗き込むと、枝に止まった躑躅色の蝶が、まるで花の蜜を吸うように、周辺に巣食う色喰いの陰を吸収し、浄化していくのが見えた。


しばらくすると、色喰いの気配は消え去り、色鮮やかな蝶たちは、そのまま近くに残った躑躅の花に同化するように、静かにその姿を溶け込ませていった。


「…………すごい」


ぽつりと零れた言葉が、薄暗い空間にぼんやりと反響する。蘇芳の描いた蝶は、本当に美しかった。でも、それだけじゃない。きっと、あの「色」が最も映える姿だった。色の声に応えるように、蘇芳は躑躅の花に宿っていた魂に、もうひとつの姿を与えた。


「……『躑躅つつじおか』」


蘇芳は、朱塗りの筆を握った自分の手を見下ろしながら、落ち着いた声でそう呟く。黒い髪が、風に揺れてふわりと靡いた。


「え?」


「泉鏡花の『龍潭譚りゅうたんだん』に含まれる短編です。『躑躅の中から、羽音高く一匹の虫が飛んで出た』」


「へぇ……そういえば、蘇芳って文学部……だったんだよな」


「そうです。色の描写って、けっこうおもしろいんですよ。彩さんは、さっきの蝶を綺麗だと思いましたか?」


「うん。すごく、綺麗だった」


正直にそう言うと、蘇芳はおれの方を見てふっと微笑んだ。いつもの不敵な笑みとは少し違う表情のように感じたが、その感情の主成分は、薄暗さと目元に掛かる漆黒の髪に覆い隠されて掴み取れない。蘇芳は静かな声で続けた。


「『躑躅が丘』には、こんな言葉もあるんですよ。……『色が綺麗でキラキラしている虫は、毒虫なのよ』……美しい羽虫に翻弄され、帰り道を失うんです」


「……」


「自然の中の美しい色には、全部、意図がありますよね。生きるための」


「……そう、だな」


それは誘惑だったり、擬態だったり、威嚇だったり。色は生きるための知恵であり、すべである。意味のない色はない。植物の色について研究してきた経験から、蘇芳の言うことは、なんとなくわかる気がした。


「自己満足のための美しさなんて、ないんです。もっと狡猾で、生々しくて……したたかだ」


「……」


「彩さん」


「……なに?」


「彩さんは、おれの描く『絵』から、逃げませんか?」


そう言って、蘇芳は手に持った朱塗りの筆をおれに差し出す。視線を落とすと、艶やかな朱色に、見慣れない紅が上塗りされているのが見えた。繊細な金箔の模様が、ところどころ赤で掠れて染まっている。


「……蘇芳、おまえ、手……」


蘇芳がこの筆を手にした瞬間、弾かれるような音がしていた。でも、蘇芳は手を離さなかった。おれの目に映る蘇芳の掌には、無数の小さな切り傷が刻まれ、そこからじわりと真紅の血が滲んでいた。


「答えてください」


蘇芳は、いつもどおりの涼し気な声で問う。でも、その瞳はいつもよりももっと、深い漆黒に染まって、何かを見極めようとするようにじっとおれの目を見返した。


「…………逃げないよ」


美しいだけじゃない何かを描こうとする、蘇芳の絵から。

おれはきっと逃げない。


簡潔に答えると、蘇芳はしばらくじっとおれを眺め、それから満足げににやりと口角を上げた。朱塗りの筆をおれの白衣のポケットに差し、ブラックジーンズで掌をぐっと拭った。それから、足元に転がっていた愛用の黒いリュックを背負い直して、たしかな足取りで講義棟に向かって歩き出す。


その黒々しい後ろ姿を見送りながら、おれは自分の言葉を何度も頭の中で反芻した。


おれは、蘇芳の絵から逃げない。

……蘇芳が、おれから逃げない限りは。


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