第8話 蒼天の露草色1
この国の色彩は刻一刻と
「彩さん」
「……ん?」
いつもの場所、いつもの作業。深みを増した芝生に座り込み、採取の手を止めて休憩をしていたおれを、ひときわ不機嫌そうな男がぞんざいに見下ろした。
「いいかげん、観念してください。そんなにおれに喧嘩売りたいんですか」
「……そんな恐ろしいことしないけど。……あー、蘇芳も食うか?」
へらりと笑って見せながら、手に持ったストロベリーチョコレートの包みを差し出してみる。可愛らしいピンク色の色彩が、不機嫌顔の蘇芳には著しく不似合いだったが、それを面白がるほどの余裕はおれにはない。一応、蘇芳の教養授業がありそうな時間を狙って採取に来たつもりなのだが、たぶんそれを見越して裏をかかれたのだろう。こいつは本当に優秀で、抜け目がない。
「いりません」
蘇芳はおれの差し出したチョコレートの包みを絶対零度の視線で一瞥して、吐き捨てるように言った。お菓子に罪はないのに、そこまで邪険にしなくてもいいだろう。
「疲れとかイライラには甘いものがいいらしいぞ」
「そもそもの原因を排除する方が早いですよね。つまり、彩さんのことです」
「排除って……怖いんだけど」
「だったら大人しく怖がっていてくれませんか。そんなもん食ってないで」
「けっこう美味いぞ。ほら、ヘビイチゴを眺めてると、イチゴとかベリーのなにかが食いたくなることとか、あるだろ」
「ありません」
「……おれは、あるんだよ」
頬を撫でるどこか湿り気を帯びた風に、小さな雑草たちが揺れる。頭上の空は今日もどんよりとした曇り空。目の前にはド迫力の不機嫌顔。梅雨時というだけでも気が重いのに、余計な要素満載で憂鬱だ。
「彩さんの変質的な思考はどうでもいいです。そんなものより、早く渡してください」
さらりと失礼なことを抜かしながら、蘇芳はチョコレートの包みを躱してずいと手を差し出した。開かれた掌には、まだうっすらと赤い線が残っている。おれは蘇芳の掌を眺め、残りのチョコレートを銀紙で包み直すと白衣のポケットに収めて立ち上がった。
「渡せない」
「……あんた、この間『逃げない』って言いましたよね」
蘇芳の鋭い眼がじっとこちらを見透かすように突き刺さる。その異様な迫力にたじろぎそうになる足をぐっと踏みしめ、おれは蘇芳に向き直った。
「言った。けど、それとこれとは別だ。……この『筆』は、渡せない」
「……」
「この間は、本当に助かった。けど、毎回巻き込むわけにもいかないから」
白衣の上から、朱塗りの筆をぐっと握る。この筆が持っている力は、いきなり手にした人間が簡単に使いこなせるようなものではない。正直、蘇芳がこの筆を扱えたことに驚嘆していたし、こいつなら……という想いがないわけではなかったが、やはり綺麗な掌に刻まれた傷跡から目を逸らすこともできなかった。蘇芳はその手で、こいつが目指す絵を描かなければならない。その手は、その指は、そのために在るものだ。
蘇芳は、おれが握りしめたポケットをじっと眺め、それから呆れと苛立ちの混ざったような声で小さく笑った。
「……は、よくそんなことが言えますね。今度は何を描くつもりなんですか。コッペパンですか、それとも新種のオタマジャクシですか」
「……うるさい。それはおまえが勝手に言っただけだろ」
おれはそんなものを描こうとしたおぼえはない。
「とにかく、話はもう終わり。サボってないで授業行け」
ポケットの中身を押さえたまま、蘇芳の長身をぐっと校舎の方に押しやる。蘇芳はびくともしなかったが、はーとわざとらしく深いため息をついて黒のリュックを背負い直した。
「彩さんが何をしたいのか、おれにはよくわかりません」
「……」
蘇芳の静かな声は、その言葉どおりの温度で耳を掠める。それは、怒りでも、嘲りでもない。ただの疑問だった。人間にとって不快な湿度は、植物を潤し育てる。皮肉なほど生き生きとした弾力の芝生をざくざくと踏み分けて去って行く蘇芳の後姿を、おれは黙って見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます