第6話 困惑の躑躅色《つつじいろ》3
「彩人、調子どう?」
「ありがと。まぁ……いつもどおりって感じ」
へらりと笑って見せると、花村はじっとおれの表情を見て、安心したように微笑んだ。長く綺麗な髪を手早くまとめていつものバレッタで上げると、手元の実験記録に戻る。花村の字は彼女に似て、涼し気に整っていていつだって丁寧だ。
「その躑躅の花、綺麗ね」
「うん。生協の植え込みのところに咲いてる。ここにあるのはもう落ちちゃった花だけど、他にも白とか、ピンクとか、いろいろあったよ」
「子どもの頃、それの蜜吸ってたな」
「はは、花村もそういうのやったんだ。小さい頃って、けっこうわけわかんないことするよね」
「そうねぇ。でもさ、そういう『わけわかんないこと』が、思わぬ発見の出発点になったりするのよね。私も、息抜きに躑躅の香り成分の抽出でもしようかな」
花村は独り言のようにそう言うと、ぐっと伸びをした。彼女は植物から匂いの成分を抽出するのが得意だ。3年生で、すでに蒸留装置を用いた独自の抽出方法で、数種類の植物の香り成分を水溶液として取り出すことに成功している。現在取り組んでいる研究とは違う内容のものだが、ときどき花の香りを配合した香水なんかをオリジナルで作っているようだ。
「じゃあ、花村の分も拾ってくる。昨日の風で、まだ綺麗な花もずいぶん落ちちゃったみたいだし、せめて可愛い香水にしてあげてよ」
そう言って、手元の作業を中断し立ち上がると、花村は可笑しそうに笑った。
「相変わらず植物想いだこと。いいわよ、この
我が研究室のエースの、頼もしい一言に見送られておれは再び採取に向かった。
生協に向かって歩きながら、数日前の「しりとり対決」を思い出す。ちょうど昼の時間帯だったのか、構内はカラフルな装いの新入生たちの人波が賑やかに流れていく。それでも、あのとき蘇芳が描いたモノクロの絵の欠片が、何よりも鮮やかに瞼の裏に焼き付いているような心地がした。
「……
あの、不愛想で失礼極まりない後輩が描く絵は、中毒性のある薬品のように、気づけば思考を侵食している。目の前にちらつくと、冷静な判断を失う。その結果、おれはそこそこ厄介な立場に立たされることになっている。
あの日以来、蘇芳の姿は見ていない。とは言ってもほんの数日のことだし、おれはコーヒーを飲みに生協に現れる以外はほとんど研究室から出ていないから、それ自体は別に変ったことじゃない。そして、おれの周辺にも、別段変わったことは起こっていない。
蘇芳はあのとき、おれの「能力」を確信したに違いない。そもそもがそれを確かめるために、自分の「絵」を餌にあんな勝負を持ちかけたのだろうから。それでも、蘇芳がそうやって「確かめたこと」をどうするつもりなのか、今のところまったく見当がつかないというのが、なんとも不可解というか落ち着かないというか……はっきりと言ってしまえば不気味だった。
とりあえず、あの男がこんな非現実的なネタを吹聴して回ることはないだろうし(自分が変に思われるだけだろうから)、かと言ってこのままそっと陰から見守ってくれるなんていうこともないだろう(っていうかそれはそれで怖い)。
顔を合わせればあいつの目論見の断片くらいは掴めるのかもしれないが、なんだか掴んだものの数倍の情報を搾取されそうな気もする。……というわけで、おれはキャンパス内の春色に紛れる「黒」が姿を現さないか、びくびくと周囲を窺いながら歩いていた。
カフェテリアやコミュニティエリアを通り過ぎると、人通りは目に見えて少なくなる。それでも、いつもはほとんど
「相変わらず締まりのない
「………ひっ!」
思わず零れた声が裏返った。いつの間にか、背後に相変わらず隙のない、不愛想な後輩が立っていた。「新しい環境」なんて意にも介さないという表情で、周囲をひたすらに呑み込んで染め変えるような存在感とともに、見慣れた黒色を身に
「……おはよう、蘇芳」
久しぶりだな、なんていうほどの親しい間柄でもない。引きつりそうな表情筋をなるべく抑え込むようにしてへらりと笑うと、蘇芳は可笑しそうに目を細めた。
「そんな警戒しなくても、取って食ったりしませんよ。昼メシですか」
「いや……ちょっと、
「躑躅……? あぁ、このへんの植え込みの。たしかに、いい色してますよね」
おれの研究内容をなんとなく知っている蘇芳は、すぐに「実験用」の採取だと気づいたらしく、生協の周囲を彩る鮮やかな赤紫色を眺めてそう言った。それから、小さく首を傾げる。
「それにしても、ずいぶん花が散っていますね。まだ咲いたばかりみたいなのに」
蘇芳の黒い瞳が、おれの背後にある、躑躅の植え込みを探るようにじっと見る。たしかに、おれの足元にもまだ綺麗すぎる花がたくさん落ちていた。昨日は風が強かったから、それで落ちてしまったのかと思っていたが、植え込みの花は外的な刺激にもけっこう強いはず。これほど一気に、花が落ちてしまったことはたしかに少し不思議だ。
「……うん。風のせいかなと思ったけど、ちょっと多いよな。なんにせよまだ綺麗な花もあるし、せめて何かに使えないかなと思って」
そう言ってしゃがみ込み、足元に散らばった花をひとつ拾い上げる。昼時の陽の光に照らされて、ひときわ鮮やかな赤紫。くんと反り返った花弁が、風に吹かれて微かに揺れた。
「彩さんらしいですね。手伝いましょうか?」
「…………え?」
頭上から降ってきた、目の前の人間がおよそ発しなさそうな言葉。一瞬意味がわからず、呆気に取られた拍子に、手に持った躑躅の花をぽろりと落としてしまった。顔を上げると、蘇芳はまったくいつもどおりの表情で、地面に転がる石ころを見下ろすのとさほど変わらないような温度の視線でおれを眺めている。
「そんな袋持ってるってことは、けっこうな量を拾うつもりなんでしょう。よければ、手伝いますけど」
おれの白衣のポケットから覗く、大きめのレジ袋を指さした蘇芳がそう言う。おれは慌てた。
「い、いや……。手伝ってもらうほどのことじゃないし、大丈夫。ぼちぼちやるから」
「そうですか。じゃあ、おれはこれで」
初めてくらいの親切な申し出を咄嗟に断ってしまうが、蘇芳は特に気を悪くした様子もなく、いつもどおりの涼し気な表情でそう言うと、生協の食堂エリアに向かって歩いて行った。黒いカーディガンの裾がふわりと風に揺れて遠ざかっていくのを、おれはなんとなく消化不良のような感覚で見送った。
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