第5話 困惑の躑躅色《つつじいろ》2


 まずはじめにおれがルーズリーフの上に描いた渾身のイラストを見て、蘇芳は首を傾げる。


「『新種のオタマジャクシ』ですか。スタートから難解ですね」


「『りんご』だよ!」


これ以上ないほどシンプルにスタートを切ったというのに、妙な感心のされ方におれは顔をしかめた。丸と線しか描いていないのに、もう画力の底が知れるなんてひどい話だ。


「あぁ……りんごですか」


「いかにもしりとりのスタートらしい、『りんご』だろ。蘇芳の感覚の方が難解だよ……」


「そういうもんですかね」


おれの苦情をしれっと躱しながら、蘇芳はおれの手元から薄っぺらいルーズリーフを抜き取り、自分の方に向けた。おれの描いた味気ない記号のような絵の隣に、蘇芳の持った鉛筆の芯が触れる。


綺麗な指先が動くのと同時に、静かな生協の空気が微かに震えたような気がした。紙の上を滑る鉛色が、流れるように複雑な軌跡を描く。生きている、みたいに。


柔らかな線は今にも風に揺れそうで、蘇芳の指の動きは、ほんの少しの速さの違いで、いとも簡単に黒の濃淡を生み出していく。まるで、最初からそこにあるものを浮き立たせていくように。なんの変哲もない鉛筆の、黒一色の芯から、布地の漆黒、風に揺れるリボンのグレー、光に照らされる白く柔らかなブラウス、そんなものがするすると解けるように導き出される。おれは息を飲んで、しばしその光景に絶句した。おれが「りんご」を描き上げたのとさほど変わらない時間のあと、蘇芳はいつもどおりの鋭い瞳を上げておれを見た。


「変な顔して、どうかしました?」


「…………え、あ。いや、別に」


訝し気に問われ、我に返る。生協の静けさの中に、ルーズリーフの上を滑る鉛筆の音が反響して、まだ耳に残っているような感覚がした。昔、蘇芳の絵に惹きつけられたとき以上の生々しさを持って、おれはこいつの絵を描く「姿」そのものに圧倒されていた。それは歓びとも、悔しさとも、虚しさとも取れる掴みどころのない感覚だった。気を取り直すために手元に置いていたコーヒーをぐっとあおり、現実的な苦みで口の中を満たしてから、おれは蘇芳の手元に視線を戻した。


「…………これって」


いつのまにか完成していた蘇芳の手元の絵は、ふわりとした漆黒のワンピースを纏った少女のような後ろ姿。今にも動き出しそうな柔らかな黒の布地の質感は、少し重みのあるシルエットに調和し、袖口や裾には繊細で華やかなレースが重厚にあしらわれている。少女の髪と大きなリボンが、その個性的ないで立ちには似つかないほどの儚さで風に吹かれてなびいている。


「見てのとおり、『ゴスロリ』です」


「…………は?」


思いきり怪訝な声で訊き返したのは、蘇芳の描いた絵が、「ゴスロリ」なるものに見えなかったからではない。むしろ、それにしか見えなかった。ただ、そのどこか不可思議な単語の響きと、この状況、蘇芳のいつもどおりすぎる表情との異様な温度差、おれの「りんご」からのいろんな意味での急展開に、おれの脳と感覚の回転速度は追いつかない。しりとりって、一体どんな遊びだったか。


「……蘇芳は、こういうのが好きとか……?」


「は?」


再びおれの方に向けられたルーズリーフを見下ろし、頭を整理するためのわずかな時間を稼ぐつもりで、とりあえず聞いてみた。蘇芳は面倒そうに頬杖をついたまま呆れたように、いろいろと消化不良のおれを眺めた。


「彩さんって、短期記憶の回路ちゃんとつながってます? おれ達、『しりとり』をしてるんですよね。趣味嗜好の話なんかしてましたっけ?」


「……いや、そうじゃないけど」


なんでわざわざ、『ゴスロリ』……。続きの言葉は、声に出さずに飲み込んだ。別にそれがだめだというわけではない。おれはファッションや流行の知識なんてほぼほぼ皆無だが、蘇芳の描いた少女の姿は、絵のタッチ云々を差し引いても充分に魅力的で、生き生きとして可愛らしかった。ただ、おれのイメージの中に在る「しりとりで登場する主なワード」には一切含まれていなかった、それだけだ。気持ちを切り替えるように、おれは自分のボールペンを握り直した。


しかし、おれはまたもや性懲りもなく、重要なことを見落としていた。

今おれの目の前にいるのは、他の誰でもない、「蘇芳日和」だということを。



 その異変に気づいたのは、その衝撃的なスタートから僅かに数分後、数回目のおれのターンに差し掛かったあたりだった。おれは相変わらず、覚束ない曲線をぐっと結ぶ。隣にある蘇芳の絵と、同じ空間に存在させることがもはや痛ましい。せめてものお詫びに大きな木の実を描き加えてやった。


「『つぶれたコッペパン』ですか」


「『リス』だ……」


相変わらず躍動する手元の動きとは裏腹に、いつもどおりすぎる表情の蘇芳がおれの絵を見て感心したように呟く。おれは疲れた声で返しながら、ルーズリーフを蘇芳の方に押しやった。コッペパン描いたら、しりとりは終わるだろうが。


蘇芳は「あぁ」と気のなさそうな相槌を打つと、一瞬だけ考えるように宙に目を走らせ、すぐに鉛筆を動かし出した。さっきの滑らかな布地の質感とは少し違う、細かな砂の上に置かれた、縞模様の果実。一部が砕けて、中から鮮やかな果肉と甘い香り、豊かな水気が溢れ出すようだ。ものの数十秒でそんな夏の1ページを描き終えた蘇芳は、長い指でルーズリーフの向きを変える。


「スイカ割り」


「スイカ」じゃなくて? そろそろ、さすがのおれでも気づいてきた違和感。しかし、結局はもう遅い。こんな「遊び」を始める前に、おれは気づくべきだったのだ。……この男の、「食えなさ」に。


「……りくがめ」


苦し紛れに描いた、楕円からちょこんと出た顔と手足。リクガメとウミガメの違いどころか、カメとたわしの違いすら明示されていないおれの絵を、蘇芳はちらりと一瞥する。微かに口角を上げたが、それ以上は何も言わずにすぐに自分の鉛筆を握った。


「目薬」


「……理科」


「缶切り」


1枚のルーズリーフが、子どものラクガキと一流画家のデッサンで交互に埋め尽くされていく。蘇芳が描くテンポは徐々に速くなっていき、おれの頭の中に、世の中の「り」で始まる言葉が緊急招集されていく。


やっと、「ゴスロリ」の謎が解けたときには、もう完全に手遅れだった。蘇芳の「意図」に、唇を噛み締める間もなくルーズリーフの向きは容赦なくこちらに向かう。


そうなのだ。最初から、この男はすべて「り」で終わる言葉しか使っていない……こいつ、おれに「龍」を描かせる気だ。


その後、かなり粘ったものの、さすがにおれの語彙力のストックは底をついてきた。苦し紛れの「りんご飴」にも特に意義を唱えずにスルーしてくれた蘇芳は、それでも攻めの手を緩めることはなく、次から次に言葉と絵をテンポよく繰り出す。その手に乗るかと思えば思うほど、「龍」という言葉の響きに引っ張られ、もともとそれほど豊富ではないおれの脳内辞書は呆気なく白旗を上げた。


「………」


ボールペンを持った掌に嫌な汗が滲む。たかがしりとり。けれど、その「たかがしりとり」で負けたあとには、一体何が待っているのだろう。もはや、蘇芳がおれの「能力」を見たことに間違いはなさそうだ。ここまで確信的に、そして的確におれを追い詰める蘇芳の、目的は一体何なのだろう。目元にかかる金色の髪を透かして蘇芳の表情を盗み見ても、その終始涼しげな表情から感情をうかがい知ることはできそうになかった。


「描かないんですか?」


静かにそう言って、蘇芳は微かに口角を上げる。その漆黒の瞳は、「それでもいいですよ」と言っているようにも見えた。ここでペンを投げ出したとしても、おそらくこの男はそれ以上を追及しては来ないだろう。


おれは目の前にある、ボールペンと鉛筆の線で埋まった3枚目のルーズリーフを眺めた。そこに描かれた、一本一本が意図を持ったような、蘇芳の鉛筆の軌跡を辿った。それから小さく息を吸って、微かにペン先にインクの溜まったボールペンを動かした。


あのとき、おれの足元を染めていた芝生の緑から生まれ、つぶらな瞳でこちらを見上げた巨大なとかげ。皮肉なことに、それまでにおれが描いた絵のどれよりも、生き生きとして見えた。太い尻尾を描き終えてペン先を紙から離すと、おれは顔を上げた。


「……『龍』」


蘇芳はおれの手元をじっと眺め、それから意外にも満足げに表情を緩めた。指に挟んだ鉛筆をくるりと回すと、おれの描いた龍の隣に、滑らかな線を描き始める。つるりと滑らかな質感の器。柔らかく、弾力のある重なりの麺。柔らかな陰影で描かれた透明感のあるダシのような液体からは、温かな香りが漂ってきそうである。


「うどん」


「…………え?」


「おれの負けです。さて、彩さんは何が聞きたいですか?」


そう言うと、蘇芳は鉛筆を青のペンケースにしまい、「どうぞ」というように掌をこちらに向けた。


「……蘇芳は……」


ぽつりと零れる言葉が、目の前に広げられたルーズリーフの上を滑っていく。蘇芳がこの勝負を「終わらせた」のは、こいつの「知りたかったこと」が、もうちゃんとわかったからなのだろう。そして、おれは……。


「……蘇芳は、なにうどんが好きだ?」


最後に蘇芳が描いた、湯気が立ち上りそうな美味そうなうどんの絵。それを眺めて尋ねると、蘇芳は立ち上がりかけた動きを止め、眼を瞬いておれを見返した。


「……きつねうどん、ですかね」


「ふーん……意外と、シンプルな好みなんだな」


「意外と、は余計です。おれは、彩さんが思ってるほどややこしい人間じゃないですよ」


「…………それには、同意しかねるけど」


目の前の、「食えない人間」の集大成のような男を半目で眺めながらそう言うと、蘇芳はにっと笑った。もう一度だけ、ちらりとおれの手元の「龍」を見下ろして、いつもの黒いリュックを背負い、生協の壁にかかった時計に目をやる。


「わりと楽しめました。今度ここで会ったら、素うどんくらいは奢ります」


「……別にいいよ。それより、もう授業サボんなよ」


呆れ声のおれの言葉に小さく肩をすくめて見せた蘇芳は、それ以上は何も言わずに、いつもどおりの涼やかな足取りで講義棟に向かって歩いて行った。おれは手元に残された、おれたちの勝負の「痕跡」が残る数枚のルーズリーフにそっと触れる。


蘇芳がこの勝負を終わらせたのは、あいつが知りたかったことがもうわかったから。

おれが蘇芳に「質問」をしなかったのも、おれが知りたかったことが、もうちゃんとわかったからだ。


あいつが、絵を「捨てて」いないことがわかった。


ぺらぺらの、なんの愛想も変哲もないルーズリーフの上に遺された、ほとばしるようなエネルギーを纏った無数の線。その線が形作る、確信的なひとつひとつの存在。


おれがずっと探していた「蘇芳日和」は、この世界から消えてはいなかった。

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