第2話 はじまりの青2

「……あ~~~~……やっぱり、だめだった……」


暗褐色に染まった数本の試験官を眺め、ずるずると脱力して座り込む。案の定、抽出時間を大幅に過ぎてしまった植物の葉や花弁は、濁った薬品の中に沈んでいた。


「……ごめんな。おれが抜けてるばっかりに」


ため息をつきながら、ピンセットで取り出した植物を処分していく。乳鉢ですりつぶして遠心分離器にかける手法では、あまり鮮明な色合いが出せなかった。今回の溶液を使った実験では一部の色素しか有効性が確認できていない。そもそも、色素を取り出すこと自体がこの研究のゴールではないのだから、こんなところで足踏みしている場合じゃないのに。無駄にしてしまった花弁の欠片を眺めながら、暗色の薬品と同じような色合いの気分でおれは作業机に突っ伏した。


ここは学部数もそれほど多くない、どちらかといえばこじんまりとした大学だから、学部も学年も違う蘇芳と顔を合わせる機会は意外とある。あいつがおれの顔と名前を認識しているのは、おれが自分で名乗ったからだ。1か月ほど前、冷え込みが厳しかったせいでまだ桜はほとんど咲いていなくて、ようやくうっすらと染まり出した蕾の先のピンク色と晴天のもとでの入学式。あの名前の響きが鼓膜を響かせたときのなんともいえない感情を、おれはまだどんな色にもたとえることができないでいる。




『新入生代表、蘇芳 日和すおう ひより


その日、講堂にその名前が響き渡ったのは、教授の手伝いに借り出されていたおれが、ホール内で厳粛に進んでいく式を横目でちらちらと窺いながら、来賓受付の長机を畳もうとしたときだった。式の動向を気にしていたのは、単に片付けの音を立てても大丈夫そうなタイミングを計るためだ。しかし、そのために司会の声に耳を澄ませていた結果、長机を持つ手を滑らせ、より盛大な音を轟かせることとなってしまった。


「こら、彩人! 式中だぞ、暴れるな!」


後ろで余りの式次第を束ねていた研究室の先輩が振り向き、おれの手から滑り落ちた長机の縁を支えてくれる。


「……あ、すみません」


慌てて体勢を立て直しながら、一瞬耳が拾った響きを疑うが、どう考えても聞き間違いではなかった、はずだ。同姓同名などそうそういなさそうな珍しすぎるその名が、なぜ、うちの大学の入学式で呼ばれているのか。




畳んだ長机をひとまず脇に寄せ、新入生の受付をしていた友人の元に急ぐ。僅かに残っていた、新入生のオリエンテーションのための入学者名簿をおそるおそる開いて見ると、ひときわ目立つその名前はすぐに見つかった。


「……蘇芳すおう 日和ひより…………文学部?」


あの名前の響きが自分の手の中に在ることと、その名前と共に在るはずの響きがそこにないことと、ふたつの事実が周囲の色を呑み込み、複雑に混ざり合い、おれはその場に立ちすくんだ。


入学式のあと、オリエンテーションを終えてバラバラと歩き出した新入生たちは、すぐにカラフルな熱気の中に飲み込まれていく。サークルや部活の勧誘、寮の案内、単なる好奇心と野次馬根性の後輩鑑賞、などなど。


そんな空気をどこか離れた場所から俯瞰するような表情で、背筋を伸ばしてすたすたと歩いていく後ろ姿に、つい声を掛けてしまったのは、おれ自身だ。


「……蘇芳、くん」


ざわざわとした構内で、自分自身でも聞き逃しそうだったその声に、なぜかその人は立ち止まった。どこまでも真っ黒で、艶やかな髪に、柔らかな春の日差しが重なる。髪と同じ黒い瞳は、いまいち温度の掴みにくい表情でおれを見返した。


「……? おれに、なにか」


「……あ、えぇと……おれ、理学部の、御影 彩人みかげ あやとといいます」


「はぁ」


「あの、あなたの絵を見たことがあって」


その言葉が自分の口から零れた瞬間、「蘇芳日和」の目はすっと細められ、おれを探るような表情になった。まずかったかとは思ったものの、今さら引き返すわけにもいかない。おれは続きの言葉を紡いだ。


「すごく印象的で、ずっとおぼえていたので。……まるで、生きているみたいな」


「センパイ」


硬い声が、言葉を遮る。


「わざわざありがとうございます。でも、そんなに言ってもらうほどのもんじゃないです」


「……え?」


その声には、有無を言わせない強さがあった。怒鳴られたわけでもないのに、続きの言葉は喉の奥に引っ掛かって永遠に出てこなかった。「もう絵を描く気はない」と、はっきりと言われた気がした。そして、それはたぶん、気のせいではない。


ずっと頭の中に在った「蘇芳日和」と出会って、同時にもう会えないことを悟った。あの日の空の色を、なんと表現すればいいのかはいまだにおれにはわからない。


あれから約1か月。


学部も違うし、もう顔を合わせることもないだろうと思っていた蘇芳とは、なぜか大学構内でよく出会った。詳細はまったくわからないものの、なんらか地雷を踏みにのこのこ歩み寄ってしまったおれに気を悪くしたとばかり思っていたが、あの入学式以来、蘇芳は顔を合わせれば軽く会釈をしたり、簡潔に挨拶をしたりしてくるようになった。


かといってそれほど親しみを感じるわけでもない蘇芳の態度は、一体どういう感情の表れなのか、おれにはいまいち量りきれない。この1か月の間に、呼び方が「センパイ」から「彩さん」に変わり、おれの髪の色を「安っぽい」と言ってけなすようになり、そのくせなぜかおれの採取場所によく現れる。特に意味も意図もないのだろうが、おれの方はそうやってよくわからない関わりを持つたびに、なんとなく複雑な気分になった。


それは、やっぱりおれにとって、蘇芳が絵を描いていないことが少なからずショックだったからなのだろう。数年前にあの絵を見て以来、おれは蘇芳の名を何度となく聞いてきた。曰く「天才画家の卵」だとか、「高校生とは思えない完成された描写力」だとか、「神がかった精緻なタッチ」だとか。芸術界隈でその名は既に知れ渡っていて、高校卒業後は海外か、名門芸大かという感じで、将来を約束された画家の道を突き進んでいくのだろうと思っていたのは、たぶんおれだけじゃなかったはずだ。


おれは蘇芳の顔も知らず、ただあの絵のことをずっとおぼえていた。まさか研究棟の裏の茂みで、そいつに見下ろされる日が来るなんて思いもせずに。



なんだかうまくいかないことというものは、連鎖反応的に湧き出てくる。そういう時には、大体にして対処の判断も「うまくいってない」ことがほとんどだから、ちっちゃなボタンの掛け違いが、より厄介な出来事を引きつれてきたりもする。この世界の、ありがたくない方程式のひとつだ。


「彩人、ちょっと頼まれてくれない?」


名前を呼ばれ、実験記録をまとめていた手を止める。おれの名を正しく読んでくれる人は貴重だ。同じ研究室の同級生、花村はなむら みやこを見上げると、彼女は薄茶色の真っすぐな髪を耳に掛け、おれの手元を覗き込んできた。


「なんだ、けっこう進んでるじゃない。そんなこの世の終末見たような顔しなさんな」


そう言って、綺麗な指でおれの背中をぱんと叩く。姉御肌と言うのか、面倒見が良くさばさばとした性格の彼女は、思い切りも良く切り替えも上手だ。きっと、研究者に向いている。


「そんな顔してた? 別に大丈夫だけど、ちょっと眠くて」


誤魔化すように笑って見せると、花村はじっとおれの表情を眺めて、にっと笑った。


「じゃあ、眠気覚ましの材料あげる。はい、これ。小柴の研究室まで届けてあげて」


がちゃん、という微かな音とともに差し出されたのは、新品のビーカーと、数種類の試薬。


「あそこの3年、また発注忘れてたらしいのよ。昨日たまたま会ったときに、小柴が今日の実験がやばいって嘆いてたから、貸してあげて」


「へぇ。恭介が発注忘れに気づかないなんて珍しいね」


そう言いながら、段ボールの箱を受け取る。独特の紙の匂いがふわりと鼻を掠めた。花村はおれを見て、小さく首を傾げる。


「ん? なに?」


「……いや。小柴にも、ビーカー試薬よりも気になるもんがあったんでしょ、きっと」


「?」


訳知り顔でうんうんと頷く花村に見送られ、おれは研究室を出た。


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