色色彩彩ーイロイロトリドリー
えい
第1話 はじまりの青1
吸い込まれるかと、思った。
それが、初めてその「色」を見たときの、感覚のすべてだった。
ここが、ざわざわとしたショッピングモールの端にある、簡易な展示スペースであることも、近くのフードコートに知人を待たせたままであることも、このあと買いに行くはずだった本のタイトルも、すべてその色に呆気なく塗りつぶされた。
海と青空。そのキャンバスに描かれていたのはそれだけ。
でも、そこにはすべてがあった。
波の音、潮の香、肌を焼く太陽の光線、溶けそうなアイスクリームの甘ったるい味。
そんなすべてを一気に蘇らせる、上下に分かれたふたつの青色。
こんな色を描ける人間がいる。しばらく立ち尽くして、やっと戻ってきた呼吸を自分の身体に馴染ませながら、おれはそのキャンバスの下に貼られた小さな紙を眺めた。およそこの繊細な色彩とは似つかないぞんざいな字で、「蘇芳日和」と走り書きしてある。
「すおう……?」
ぽつりと呟いたその色の名は、よく知っているものではあったが、この絵の前では不思議な響き方をした。同じ名を持つ植物から抽出されるこの色は、少し黒みを帯びた深い赤色。情熱的で高貴な色とされる一方で、血の色を連想させる点から、不吉な色として扱われることもある。
今おれの目の前に広がる、キャンバスから溢れ出して辺りを満たすような、涼やかでどこまでも澄んだ青とはどこか対照的な色のイメージが、自分が零した色の名とせめぎ合うように反響する。
それはどことなく、何かを予感させる響きだった。
吉兆か、それとも逆か……おそらくは見るものによって、どちらの色にも染め変える不思議な色の名。ぞんざいな字で書かれた「
************
「
少し色あせたような赤色のパラソルの下で、青空と新緑のコントラストをぼんやりと眺めていたおれの視界に、馴染みの顔が映り込んできた。油断すると勝手に彷徨っていってしまいそうな、覚束ない意識とピントを無理やり引き戻す。
「おはよう、恭介……今、何時?」
「おぉ……恒例の『彩って呼ぶな』すら出てこないとは……。こりゃ重症だな。昨日、何があった?」
呆れたような表情でそう言いながらも、おれの一番好きな配分でブレンドしたカップコーヒーを差し出してくれているのは、隣の研究室に生息している小柴恭介。つき合いもそこそこ長く、おれの習性を熟知しているこの男は、こういうとき無駄な問答はしない。
「昨日……昨日、か。カロテノイドの色素を抽出するのに、塩酸は有効ではないことがわかった」
「それ、先週じゃなかったか?」
「そうだっけ……じゃあ、クロロフィルにアセトンの有効性が判明したんだったかな?」
「それも3日前に大騒ぎして報告に来ただろうが。そんな調子で薬品いじるなよ。彩は、今日はもう終業。帰って寝なさい」
恭介はそう言って苦笑した。相変わらず柔らかそうな猫っ毛が、春の風にふわりと揺れる。あったかいミルクで作ったカフェオレのような優し気な茶色。自分の研究もそつなくこなしながら、こうしておれの動向まで正確に把握している。優秀な人物というのは、自分の能力の使いどころを選ばないようだ。
「ん~……。けど、もうちょっと採取数増やしたいんだよな……」
手元のアイスコーヒーをずず、と啜りながら、独り言のように呟いた。たしかにここ数日は睡眠時間が足りていない。今年中にめどをつけたい研究の進み具合があまり芳しくないのだ。ひんやりとした苦みが喉元を通り過ぎると、少し頭の中にかかりっぱなしの靄が払われるような気がした。
「採取くらいなら、手伝ってやろうか?」
「え、いやいや。恭介だって自分の実験があるだろ。昼寝がてら、のんびりやるから」
「昼寝がてらって……。おれは別にいいんだけどな。まぁ、無理はすんなよ」
恭介は微かに眉尻を下げると、肩をすくめてそう言った。
研究棟の裏側には、鬱蒼とした茂みが広がっている。どこかちぐはぐに建て増された校舎が複雑な影を落とすこの場所は、偶発的にひとつづきの空間でさまざまな日照の条件が網羅される。いろいろな条件下に生息する植物が幅広く採取できるとあって、おれを含めた植物を対象とする研究者や学生にとっては宝の山だ。
とは言っても、最近は泥だらけになって黙々延々と採取を続けるような学生も随分少なくなった。しかも、時期的には特に研究発表やら論文提出が近いわけでもなく、そこはいつもどおりにしんとして、
タンポポの葉、小さなスミレ、ヘビイチゴの花。
白衣を揺らす風に、飾り気のない素朴な色合いがすんなりと馴染んで混ざり込んでいるように感じた。このまま、この風に吹かれてしばらくまどろんでいる間に、白衣に色移りしてくれればいいのに、と研究者の端くれらしからぬ雑な思考に絡めとられながら、おれはごろりと芝生に寝ころんだ。
植物から天然の色素を抽出するこの研究におれを没頭させるのは、数年前に偶然見かけた一枚の絵。
潮の香、波の音、砂浜に照り返す太陽の熱さえも蘇らせる、ふたつの青。
呼吸をするようなあの色が、いつまで経っても瞼の裏に滲んでいる。穏やかな波の揺らめきを追うように目を閉じた瞬間、ばさりという音と共に、重みのある何かが顔面めがけて降ってきた。
「……っ、ぷは!」
咄嗟に払いのけ、眠気で重い上半身を起こすと、周囲の柔らかな春色を圧倒するような、硬質の黒色が視界に映った。地面に寝転がるおれを、面倒そうに瞳を細めて見下ろすその男を、足元から睨みつける。
「窒息するだろうが!」
投げつけられたらしい黒のトレンチコートを放り出すと、そいつは大して面白くもなさそうな表情で、平然と言ってのけた。
「すみません、ちょっと目障りだったもんで。その、安っぽい金髪が」
「……おまえはあいかわらず、美的感覚以外のものは備えていないんだな」
最低限のマナーとか、社会常識とか、人間性とか。髪の色が気に食わないからって、いきなり他人の呼吸を妨げようとするな。
「美的感覚すら持ち合わせていない彩さんに言われても
「……や、無理に敬語とか使わなくていいから。あと、『彩さん』って言うな」
「彩さんでしょ」
「おれの名前、『
「一緒じゃないですか」
「違う! この名前はちゃんと二文字とも呼んでもらわないと困……ってそんなことより、おまえ授業いいのか?
おれがそう言うと、目の前の男は肩をすくめた。長身の、すらりとした手足。始まったばかりのキャンパスライフに心躍らせる学生たちが身を包んだ、精一杯背伸びをするかのようなどこか覚束なくぎこちない色合いのファッションや、染めたての髪色が溢れる大学構内で、この男の纏う黒色はひときわ目立つ。
カラスの羽のような漆黒の髪と、星明りを探す夜空のような瞳。モノトーンのカットソーとトレンチ、耳に光る小さな銀色のピアス。
「彩さん。また国内時差ボケ起こしてんですか。今、午後4時。おれは授業をきちんと受けて、帰るところです」
「……あ、そう。…………って、4時!?」
「4時です」
この世の真理みたいに言われ、ぐっと息を飲む。霞がかかったような頭の中に、研究室に静置したままの試験官が浮かび上がった。
「……やば……っ、置きすぎた……!」
今回の色素抽出にかかる時間はおよそ1時間。たぶん今日の朝、検体を溶媒につけ、静置したところで眠り込んでしまったのだろう。そして時間を見失ったまま目覚め、構内を彷徨い、失礼な後輩に出会い、今に至る。もう手遅れのような気がするが、それでも咄嗟に跳ね起きたおれを、蘇芳は感情の読めない瞳でじっと眺めた。
「まだ、やってるんですね。あの実験」
「……は?」
「植物から色を取り出すなんて、彩さんらしい研究ですよね」
そう言って微かに口角を上げる蘇芳の表情は、言葉の表面温度ほど親し気なものではない。こいつの言う「おれらしい」がどういう意味かは知らないが、これが誉め言葉でないことくらいはさすがにわかる。おれは白衣についた葉を払いながらむりやり笑った。
「そうかな。じゃあ、おれ行くよ。また失敗しちゃった気がするし」
蘇芳に背を向けて歩き出す。白衣から少し苦みのある草の匂いがふわりと舞い上がった気がしたが、視界に入るその色はうんざりするほど真っ白だった。
おれをこの研究に駆り立てた張本人は、きっと大して興味がなさそうにおれの後姿を眺めて、それから特に何も思わずに帰途につく。
あのとき呟いた、不可思議なあの色の名を、おれはどうしてここで呼んでいるのだろう。
美術に関する学科などひとつもない、この田舎町の大学の構内で。
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