第32話 葵ちゃん

「今……なんて?」


 聞き間違いか、いやそれでもハッキリと聞こえてきた。こんなところで聞こえてはいけないはずの言葉が。


「あそこで先生が呼んでるよ?って」

「いや……違う。その前」


「シトラス?」


 やっぱり。聞き間違いなんかじゃなかった。

 なん、で、その呼び名を杏紗が?


「でも、シトラスって何?何かのあだ名?かっこよくていいね!」

「あー、昔のあだ名だよ。誰から聞いたの?」

「ん?あの先生。……あれ?あんな先生いたっけなぁ……気のせいか!」

「……ありがと」


 すぐさま私は杏紗が指を指した女の所へ駆ける。見たことの無い人が紛れていたら誰かしらが気づきそうなものだけど。人数が多いゆえの大胆な行動か。


「あなた……誰?」


 殺気はない。敵対する意思はなさそうだけど、警戒レベルはマックスまで引き上げる。


 でもこの雰囲気はおそらく……


「急いじゃって。少し落ち着いて。私は組織の人間。あなたならこれで分かるでしょ?」


 やっぱり。組織の人間は特有な雰囲気がある。


「昨日の投擲とうてきもあなた?」

「せーかい。ぬるま湯にひたって勘が鈍ってないか確かめてみたけど。どうやら杞憂だったようね」


 ぬるま湯にひたっていたのは事実だ。物理的にも精神的にも。むしろこの投擲が私の気を引き締めてくれたのは事実かもしれない。だからって感謝はしないけど。


 組織の人間がここにいる、ということはどうやら私がForceに加入した、という情報は入手できたってことだよね。


「まさか、殺し屋をやめてアイドルをしてるとはね。一ヶ月後にわかる、ってそういうことだったんだ」

御託ごたくはいいよ。……要件は」

「『おぼろ』が動き出した」


 ……朧。私と対峙たいじした中でも指折りの実力を持つ殺し屋。朧は私のいた組織とは常に対立していた。

 だけど、今の私にとって何の関係もない話。仮に朧によって組織が壊滅したとしても。私が助ける理由はどこにもない。


 しかし、女は私の考えを見透かしているかのように続ける。


「朧は黒川を狙っている」

「っ!」


 ……なるほど。そうきたか。

 以前から黒川さんは色んな殺し屋から狙われてきた。だから朧が狙う、と言われても不思議なことでは無い。

 ……もっとも、なんで黒川さんがこんなに狙われているのかは分からないけど。

 そうなると、朧は私にとっても組織にとっても強大な敵だ。強大で共通の敵がいる時にとるべき行動は一つ。


「利害関係の一致。朧を倒して。我々も協力する」

「……黒川さんを狙うなら倒すだけだよ」


 例えそれが朧であろうとも。私のやることは変わらない。


「そして、これはボスから伝言『シトラスが私達に敵対する意思がないことを確認した。そのためこちらからの接触はこれがラストだ』だって」


 ……律儀だなぁ。そんなこと、報告しなくてもいいのに。


「以上です。最後に、あまり日常に溶け込み過ぎないように。これは私からのアドバイスです。では」


 余計な一言を残して女は去っていった。Forthに合格してから気が緩んでいるのは否定できない。改めて気合いを入れなくちゃ……


「どうしたの?そんな引き締まった顔して」

「あ、葵ちゃん」


 殺し屋の顔からアイドルの顔に戻る。


「なんか、嫌なことでもあった?まぁー合宿中々辛いからねぇ〜」

「大丈夫!少し疲れちゃってただけだから!」

「そっか、なんか悩みあったら相談してね?私なんかじゃ頼りにならないかもだけど」


 高崎葵さん。透明感のある黒髪ポニーテール。なんというか、クラスの人気者っていうイメージ。男子からも女子からもすごい告白されてそうな感じ。かなり抽象的だけどだからこそかなり接しやすい。合宿でも実は何度か話している。


「そういえば柚乃ちゃんもサウナ付き合わされたんだっけ?」

「うん。……も?」

「そう、練習終わりに私も椎菜ちゃんに付き合わされてさ。九分間。すっごく辛かった」

「……ご愁傷さまです」


 多分椎菜ちゃん達が二週目のサウナをする時に遭遇してしまったのだろう。確か椎菜ちゃんと葵ちゃんは同じ班だった気がするし。


「それにしても椎菜ちゃんサウナに入った瞬間人が変わってびっくりしちゃった」

「ははは、ねぇ〜ほんとだよ」


 椎菜ちゃんのサウナ愛はガチだからな……


「そういえば、今日練習終わりなんかあるらしいよ」

「な、なんか?」

「うん。私達のダンスレッスンの先生が匂わせてた」

「なんだろうね〜辛くなきゃいいけれど」

「ふふ、ホントにね」


 一体どんなイベントがあるのだろう。



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