08.皆で見学しましょう
僕らは昇降口で瀬戸さんに出会ってしまった。
野良猫の件を伝えると興味を示したものの、彼女を連れていくべきか迷った。
ボクシング部の練習を見たら動揺し、新たなトラウトとなる危険がある。せっかく嶋崎が退職して立ち直りかけているのに、それは避けなくてはならない。
「あっ、もしかしてあの猫さんですか?」
振り向くと黒猫が校庭を歩いている。間の悪いことにモンプチだった。
ここで彼女を仲間外れにしたら落ち込んでしまうだろう。仕方なく三人で追いつつ、僕らは密かに作戦を練った。
「今は付き添ってもらいましょう。危なそうになったら梨香さんが連れ出してもらえますか?」
「わかったわ。遥輝くんも無理しないで。危ないことしたら減点よ?」
それは嫌だが、今は瀬戸さんの学校生活を守るのが優先だ。僕は昨夜、LINEで梨香さんから彼女のことを教えてもらっていたのだ。
梨香:保健室登校の原因だけど、嶋崎先生が関係していたの
遙輝:またアイツですか?
梨香:それも廊下でスカートを捲られたらしいの、こんなこと信じられる?
僕は怒りを通り超して呆然とし、しばらく返信ができなかった。
入学したての瀬戸さんは誰にも相談できず、ご両親にすら秘密にしていたようだ。
泉さんだけでなく、瀬戸さんもアイツの被害者だったのか。
僕が軽音部なのかと訊き、妙に持ち上げてくれたのも、嶋崎の情報にアンテナを張って知っていたからだろう。
梨香:瀬戸さんは生徒会役員に興味があるの。機会があったら見学してもらう?
遙輝:はい。でも、ヒャッハー先輩は刺激が強いので猫のことは秘密にしましょう
梨香:了解よ、明日のことは伏せておくわ
退職を知って不安が和らぎ、二学期から普通登校を始めると張り切っているようだが、心の傷は残っているはず。
焦りは禁物なので餌やりのことはあえて伝えなかったのだが、彼女も休日登校していたとは想定外だった。
モンプチは例の袋小路で僕らを待っていた。
景気よく鳴いて猫缶にありつくモンプチ。首を撫でてみるも抵抗されず、食べ終わってからも僕から離れようとしない。やはり元飼い猫だったのかと思ったが、梨香さんが近づくなり唸っていた。
「ううっ……。嫌われちゃったのかな?」
ショックを受ける彼女に初対面だからだと伝えるも、なんとモンプチは僕らを素通りし、瀬戸さんにすり寄っていた。しかもお腹を見せるように寝そべっている。これは猫が無警戒の姿勢だ。
「瀬戸さんも初対面よね?」
「はい、そうなんですけど……」
「きっと体格か小さいからですよ。相手が小さいほど安心するものなんです」
「えっ、この猫さん、私を見て安心してくれたんですか?」
瀬戸さんが嬉しそうにモンプチを覗き込むと、くすぐるように撫でる。予備で用意した軍手を渡しておいて正解だったな。
「にゃ~~、にゃ~~」という彼女の鳴き真似に、モンプチも返事をしている。基本的に野良猫は声でのコミュニケーションを避けるので、鳴き返すということはよほどあまえたがっているということだ。
しかし、餌をあげた僕や小柄な――瀬戸さんほどではないが――梨香さんを差し置いてここまで懐くなんて不思議だった。
もしかして以前の飼主に似ているのだろうか?
「根岸先輩、この子はこれからどうする予定なんですか?」
「僕が引き取って里親を探します。譲渡会の情報も調べてあるので」
梨香さんの妹さんは動物アレルギーらしく、うちの義母さんも動物が苦手なので飼うのは無理だった。それでもオープンキャパス成功の為ということで里親が見つかるまでは同居を許可してくれたが。
「ソラちゃんみたいに会場で暴れないようにしておかないとね」
たしかにその不安はあった。
カルルピでもそうだったが、慣れない場所で大勢の人目に触れると緊張する犬猫は多い。もし印象が悪くなれば、引き取ってくれる人もいなくなってしまうだろう。
「でも、瀬戸さんがいれば上手くいくと思います」
瀬戸さんがいればモンプチも安心するだろう。僕は改めて彼女に協力を願い出た。
「はい、私でよければ喜んでお手伝いします!」
ぱっと、花のような笑みを浮かべる瀬戸さん。ここまできたからには最後まで協力してもらおう。そのほうが彼女も生徒会役員としての自信をもってくれるはずだ。
ボクシング部についての不安はあるが、その時は僕が囮になって梨香さんに連れ出してもらえばいい。
「ちょっと、なに勝手に始めているのよ?」
不意に泉さんの声が聞こえると、彼女も僕らのもとへやって来た。
待ち合わせ場所にいなくて探していたらしい。LINEで連絡すべきだったと謝りつつ、モンプチの保護の目処がつきそうだと伝えた。
「へぇ。これがその野良猫なのね」と、泉さんが近付くなりモンプチが「キシャー!」と吠えた。
「ちょっ、なによコイツ! こら、なんで逃げるのよ!」
瀬戸さんがモンプチを抱き上げ、僕の背後に隠れた。
「アンタ、昨日の一年生? なんでここにいるわけ?」
「生徒会役員に興味があったみたいで、それで僕らが誘ったんです」
「私を放置するくせに新米は付き添わせるのね。まぁ、部外者だから仕方ないけど」
ふて腐れる泉さんに僕らは慌てた。
「そんなことありません、泉さんだって一員じゃないですか?」
「そうそう。届け出はないけど、事実委員よ?」
「事実婚みたいな言い方しないで。っていか、なんでそんなに根岸にくっつくわけ?」
「えっ、あの……」
「なによ、黙ってないでなんとか言いなさいよ?」
ますます苛立つ泉さん。
彼女は露骨に瀬戸さんを敵視している。
なんとなく波長が合わないそうではあったが、そこまで怒る理由がわからない。
「止めて下さい。この子は、いろいろと療養中というか……」
僕は泉さんに立ちはだかった。彼女も嶋崎の被害者だと伝えたいが、迂闊な発言は傷を抉ることになりかねなかった。
「さっさと根岸から離れて。邪魔になっているでしょ?」
「ご、ごめんなさい。やっぱり私がいるとご迷惑でしたね……」
「そんなことありません、モンプチも瀬戸さんのことが好きみたいですし」
「餌をくれる人なら誰でもいいんでしょ。久々に後輩がきたからって煽てすぎよ」
僕は眉をひそめた。
今の発言は聞き捨てならない。梨香さんも同じ気持ちだったのか、彼女をたしなめている。そもそも瀬戸さんは餌を与えてないのに。
「そこまで言うのなら試してみましょう」
モンプチにスマホをかざすと、僕はあるアプリを起動した。
すると『ご飯をありがとう。嬉しい』と、機械的な音声がスマホから流れた。
「これは猫の翻訳アプリです。鳴き声や仕草から猫の気持ちを読み上げてくれるんですよ」
「それじゃ、私はなんて思われていたの?」
梨香さんが前に立つと、モンプチは耳を鋭くした。
『彼は私の。横取りしないで』
「横取りって、まさか遙輝くんのこと?」
そういえば梨香さんは僕の隣に屈んでいた。それで餌をくれる僕が奪われると危機感をもったのだろう。
モンプチは雌だ。
動物の雌は女性に、雄は男性に敵意を向けやすく、とくに異性と密着しているときは独占欲から攻撃をしかけることさえあるのだ。
つづいて瀬戸さんへの気持ちは『愛して。あなたにあえて嬉しい。もっと近付いて』と、好意的なフレーズのオンパレードだった。
「やっぱりモンプチは瀬戸さんが大好きなんですよ。今後も彼女の力が不可欠です」
「信憑生がないわ。所詮、無料で使えるアプリでしょ?」
『お前なんて恐くない。なんかイライラする。私に近づかないで』
泉さんと目が合うなりネガティブな言葉に一変する。しかも当人(モンプチ)は凶悪な顔で睨んでさえいた。
さすがに傷ついたのか、泉さんが肩を落とした。
僕も胸がしめつけられるけど、さすがに瀬戸さんに対するさっきの発言は擁護できない。事情を説明して謝るのは、二人きりになってからにしよう。
「猫にどう思われようとどうでもいいけど。どうせ今日連れて帰るんでしょ?」
泉さんに言われてはたと気付く。
瀬戸さんがいればこのまま連れて帰れるだろう。
でも、その為には持ち運ぶ道具が必要だった。
皆でケージの代替品を考えるものの、名案は浮かばない。
そうこうしている間にモンプチが瀬戸さんの腕から抜け出し、そのまま逃げるように走り去ってしまった。
「どうしたんでしょう? 私、なにか悪いことをしちゃいましたか?」
「猫は気まぐれです。じゃれていたと思ったら、急に気分が変わるのはよくあるんです」
無理に追いかければ信頼を失うことになる。
後日ケージを持参して捕獲しに来よう。
瀬戸さんが誘導すれば大人しく入ってくれるだろうし。
モンプチのお世話にかなり時間を要したらしい。
日は高くなっており、そろそろお昼時だった。
手伝ってくれたお礼にと、僕は皆で食堂に行くことを提案する。土曜日でも開いているし、義母さんにねだって食券を貰っていたのだ。
ところが袋小路を出るなり、ヒャッハー先輩が近づくのが見えた。
マズい。部室に来るように言われていたのを忘れていた。
「皆さんは先に行って下さい、僕はボクシング部に寄らなくちゃいけないので」
「えっ? 先輩がボクシングをなさるんですか?」
僕は慌てて首を振り、最初に餌付けをしてたいのも、モンプチという名をつけたのもヒャッハー先輩なのだと告げた。
「それなら挨拶をしておかないと。きっとモンプチが気になっているはずです」
「そうね。瀬戸さんの言うとおり、ここはご挨拶しておくべきだわ」
「下手に逃げたらかえって目をつけられるわ。コイツ、見た目よりも図太いから平気よ」
泉さんの言葉に、瀬戸さんが苦笑いを浮かべる。なにを根拠にそう思ったのか不明だが、とにかくここは無難に乗り切ろう。あまり踏み込まないようにして、モンプチのことだけを手短に報告すればいいだろう。
「おう根岸。餌付けが終わったみたいだな。さっさと部室に行くぞ。そっちの女子たちは、姉御に呼ばれてきたのか?」
「え? 姉御?」
「違うのか? てっきりレッスンの見学に来たのかと思ったんだが?」
「レッスンって、まさかリズミックボクシングですか?」
梨香さんは校内の張り紙を見て知っていたらしい。
ボクシング部では定期的に部室を一般開放し、姉御さん――おそらくラウンドガールの人――主体でそれをやっているようだ。
「気になるならぜひ見学してくれ。昼飯も用意してあるからよ」
意外なことに彼女たちは、とくに瀬戸さんが興味を示していた。
「瀬戸さんも行きたいんですか?」
「はい、身体を動かすのは好きなので!」
「それなら私も行くわ。お姉ちゃんに付き添ったこともあるし」
「私も参加してあげていいわよ。…………ダイヤちゃんの体型に追いつくのに役立つし」
皆さんがいいのならと、僕は渋々頷いた。
もともと僕の部室行きは確定だったけど、彼女たちもついてくることになるとは。でも今日は男子の練習はないようだし、ヒャッハー先輩も女子には紳士的だから危険はないだろう。
僕は胸を撫で下ろしつつ、皆と一緒に部室に向かうのだった。
後々、水着のような衣装に着替えた三人に介抱されることになるなど、この時点の僕には知る由もなかったのだった。
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