07.瀬戸旭


 瀬戸旭さんは僕らの後輩だった。

 面識がなかったのは入学早々に保健室登校を始めたからで、梨香さんは保健室でカーテン越しに名前を聞いたことがあり、養護教諭を通じて訊ねたところ同一人物と判明したのだという。

 瀬戸さんは挨拶が遅れたことを謝った。

 本当はもっと早く来たかったが、試験中だと迷惑になると思ったらしい。

 僕が届けた本は家族と一緒に取りにいったという。あの大学生たちの気配はなかったが、しばらく図書館通いをひかえるようで、僕は安心することができた。


「あの時はありがとうございました。私、とても嬉しかったです」


 瀬戸さんはしきりに喉元に触れ、自分の声を確認するように喋っていた。吃音ではないし、声そのものも透明感のある綺麗なものだ。おそらく話し慣れていない相手に緊張しているのだろう。

 僕は申し訳ない気持ちになった。

 今まで保健室登校だったのなら校内を歩くだけでも恐いはずなのに、わざわざ生徒会室に来て、ほぼ初対面の上級生に囲まれるなんてすごいプレッシャーのはず。養護教諭から可能な範囲で校舎を歩くよう助言されたようだが、それにしてもハードルが高いだろう。


「私も無理しないようにって保健室で伝えたんだけど」と、梨香さんも負い目を感じていた。


 瀬戸さんは必死に笑顔を作っている。保健室でもクラスメートと同じ範囲の勉強をこなし、試験もちゃんと受けているという。

 学校生活に馴染む努力をしているのがひしひしと伝わってくるけれど、緊張で引きつった顔や、小枝のような手足を震わせる姿に、いつか折れてしまうんじゃないかと僕は気が気でなかった。

 事実、生徒会室に立花姉妹や副会長が戻ってくると、声が徐々にか細くなっていた。

 やはり大勢と対面するのはまだ辛いのだろうが、その様子に気付くことなく立花姉妹が質問攻めしている。

 二人は彼女が転校生だと勘違いしているらしい。同学年と耳にして気になるのも当然だが、ここで保健室登校していることを伝えるのも気が引けた。


「あっ、そろそろ凛の迎えがあるので帰りますね」


 僕は梨香さんに目配せし、鞄を持った。


「瀬戸さんは、時間は平気ですか?」

「私、も、そろそろ失礼します……」

「それじゃ、一緒に帰りましょう」



 僕は瀬戸さんと下校することにした。

 昇降口を出ると、立花姉妹のことを許してほしいと頭を下げた。二人には悪気はなく、ただ可憐な同級生に興奮――とくに鈴音が――しただけなのだと。


「とんでもありません。私もお話ししたかったんですが、想像以上にそっくりで、どちらと会話していたのか混乱してしまって……」

「先に喋るのが鈴音で、上官風の口調で少し目つきが鋭いのが美音ですよ」

「そうなんですね? あ、そういえばそんな噂を聞いたことがあるかも」


 彼女も姉妹の存在を知っており、実際に会って好印象を持ったいたことが救いだった。学年も同じだから友だちになれるかもしれない、と考えるのは早計だけど。


「私こそお邪魔してすみませんでした。お迎えがあるのに、付き添ってもらうなんて…」


 眉尻を下げる彼女に、僕は嘘をついたことを謝罪した。


「緊張していたと思ったんですけど、僕の早とちりでしたか?」

「お気遣いをいただいてばかりですみません。保健室登校をしていた私が悪いんですけど、学校で誰かとお話するのに慣れていなくて……」

「瀬戸さんは悪くありません。むしろ立派だと思いますよ」

「私が、立派?」

「クラスメートと足並みを揃えられるよう自学できるなんてすごいです。僕だったら絶対にサボっちゃいますもん」

「ええっ? 根岸先輩がおサボりなんて、意外ですね」


 口元を手で隠す瀬戸さん。

 初対面の時は服装で判断したが、お上品な笑いかたといい、両手で鞄を持つ姿といい、あらゆる所作からもお嬢様の雰囲気が出ていた。もしかして実家が大金持ちなのかと訊いてみたが、ごく普通の家庭だという。

 彼女のことをもっと知りたかったが、踏み込みすぎるのはよくないと思い、他愛のない話しをつづけ、沈黙が生じても無理に話しを振らないようにした。

 むしろ僕が隣にいるせいで息苦しくさせているかもしれないが、一人で帰宅させたら図書館のときのように誰かに絡まれるようで心配だった。

 僕の考えを裏付けるように、すれ違う通行人(おとこ)は彼女に目を奪われている。梨香さんも目を引くが、瀬戸さんの場合は見るからにか弱いので、欲にかられた猛獣に誘拐されるんじゃないだろうか。

 僕はできるだけ、けれども密着しすぎないように歩いた。


「根岸先輩は軽音部にも入っているんですか?」


 不意に彼女が訊いてきたのは、分かれ道にさしかかった時だった。

 部員たちとの会話は増えたものの所属はしていない。そのことを伝えると瀬戸さんは意外そうな顔をした。


「部長さんたちを嶋崎先生から守ったと聞いたので、てっきり先輩も軽音部なのかと思ったんですが……」


 たしかに部外者が顧問の悪事を暴くなんて珍しいだろう。そもそも泉さんと友だちになれなければ僕だって介入できなかっただろうし。


「友だちとして助けるなんて格好いいですね。図書館でも私を助けてくれましたし、なんだか根岸先輩みたいな頼れる人って、憧れちゃいます……」


 頬を染める瀬戸さんだが、僕はそんな立派な人間じゃないと首を振るう。


「僕は友だちを傷つけられるのが嫌だっただけで、瀬戸さんのことだって梨香さんの援護がなければ助けられませんでした。憧れるなんて大袈裟ですよ」

「そんなことありません、私も根岸先輩みたいに強い先輩になりたいです!」


 ぐっと、しがみつくように瀬戸さんが身を寄せる。彼女の口から‘強い’という言葉が出たのが意外だったが、僕のように不器用な作戦しかたてられない人間の真似をしたら重傷を負うような気がして不安になってきた。


「また生徒会室にお邪魔させて下さい、もっと根岸先輩から学びたいんです!」

「僕なんかを目標にしちゃダメですよ。同じ生徒会役員なら、会長の梨香さんとか、人気者の梨香さんとか、成績優秀な梨香さんから教わるべきです」


 後輩に慕われるなんて感無量だけど、梨香さんを指標にしたほうが得るものが多いはず。そう言い聞かせると彼女は表情を曇らせ「わかりました」と、声を絞り出した。


「私は、根岸先輩も立派だと信じていますよ。私なんかよりも、ずっとずっと」


 僕は返事に窮する。

 後輩(みおん)から命令されたり、副会長にスリーパーホールドされるのを見られたら失望されちゃうだろうし、期待値を上げるのが恐かった。

 なんて小心者なんだと情けなくなるけど、手本にすべき先輩が他にいるのは事実だ。学校生活を通じて視野を広げてもらい、彼女自身で悟ってほしいところだった。


「では失礼します。今日は送っていただき、ありがとうございました」


 頭を下げ、自宅へと歩いていく瀬戸さん。僕は最後まで彼女を見送った。とぼとぼと歩く小さな背中は、昼の暑さに疲れたようにぐったりとした家並みのなかへ溶けるように消えていく。

 明日からの週末を、彼女はどう過ごすのかな。

 借りた本を読むにしても、どんなものに興味があるのだろう。

 鞄を覗かないようにしたけど、手触りからしてA4サイズの本だけだった。おそらく図鑑や専門書だ。僕もそういう分野を読む質(たち)なので無性にジャンルが気になった。

 もし機会があれば訊いてみよう。保健室に押しかけるのは避けるべきだけど、校内で再会することはあるだろう。彼女のペースに合わせて、ゆっくり交流を深めてみよう。



「おはようございます根岸先輩」


 ――と、思ったのも翌朝までだった。

 餌付けの為に梨香さんと登校すると、昇降口でばったり出くわしたのだ。


「瀬戸さんも休日登校ですか?」

「はい。図書室で勉強や読書をしたほうが学校に慣れるかと思って。土曜なら生徒も少ないですし」

「そうなんですね」


 無理をしているのではという懸念を混ぜた相槌をしたけど、彼女が気付くことはなかった。


「お二人は生徒会役員のお仕事ですか? よかったら、お手伝いさせてもらえませんか?」

「いや、今日はその……」

「瀬戸さん、私たちはこれから……」


 僕らは返答に詰まる。餌付けの最中にヒャッハー先輩に絡まれたら、彼女にとってトラウマになってしまうのではないか?

 かといって興味を持ってくれた――それも目を星のように輝かせるほど――後輩を遠ざけるのは忍びない。


 僕らはいったい、どうしたらいいのだろう?

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