23.極秘の指令


 僕の恥ずかしい検索履歴によると、初めてのキスというのはお互いの部屋とか人気のない教室で行うものらしい。義母のいる車内でというシチュエーションは前例がないだろう。そもそもSUV(ハリアー)だったからできたのであって、普通車にこんなスペースはない。

 でも、場所なんて関係ない。

 キスというのは、お互いの気持ちが高まった時にすべきことなんだ。たぶん。

 梨香さんの気配が近づき、僕らの唇が触れ合おうとする。

 その寸前


「ダメよ」と耳元で梨香さんの声がした。


 え、と僕は目を開ける。彼女は僕の手を振り払って頭を上げると「おあずけよ」と冷たい目で見下ろしてきた。その表情も口調も先程と別人のようである。唖然とする僕を横目に、梨香さんは静かに座席へ腰かけていた。



「あの、梨香さん?」


 隣に座って理由を訊ねると、彼女は最初からこうするつもりだったという。つまり僕に向けられた眼差しも恥じらうような顔もすべて演技だったのだ。


「倉庫で私に嘘をついた罰よ」

「嘘というと?」


 ただならぬ雰囲気に恐る恐る訊いてみると「また独断で危ないことしようとしたでしょ」と睨まれてしまい何も言えなくなってしまう。

 女装時に危険なことはしないと梨香さんに言っておきながら嶋崎に反発したのは事実だった。いくら泉さんを守る為とはいえ、自分を大切にするようにとライブスタジオで交わした約束を無視したことになるのだ。


「後輩には先走るのはダメって叱っておきながら、自分はいつも勝手なことばかりするんだから。遥輝くんがわかってくれるまでキスは絶対にしてあげないからね」

「す、すみません、反省してます!」


 僕は慌てて頭を下げる。キスをしたいからではなく、梨香さんを裏切ったことを謝りたかったのだが取りつく島もなかった。ちなみに義母さんは新たにかかってきた電話に対応中で僕らの会話は聞こえていない。


「もうこんなことはしませんからっ!」

「スタジオでもそう言ってたわよね? 遙輝くんってすぐに顔に出るのに、こういう嘘をつくのは上手なんだから……!」

「いえ、嘘をついたつもりはなくて、倉庫ではああするしかなかったというか……」


 僕は唇を噛んでいた。危険だとわかってはいたものの、あれが僕の頭に浮かんだ唯一の方法だった。頭の回転が早い人なら、もっと安全な手段を思い付いたのかもしれない。


「わかってるわ。私なんか何もできなかったし、嶋崎先生が怒鳴ったときなんて足が震えて動けなかったんだもん」


 梨香さんは睨むのを止めると、眉尻を下げた。


「遙輝くんがいなきゃ、なにも解決できなかったと思う」

「そんなことありません。僕が掴まれたときはすぐに飛び出してくれたじゃないですか?」


 梨香さんは首を振るい、もっと早く動けたはずだったと呟いた。


「それに、先程も泉さんにテレパシーを送って訴訟を回避してくれたじゃないですか? 助けられているのは僕のほうですよ?」

「あれくらい誰にだってできるもん」

「えっ、冗談ですよね?」


 誰でもテレパシーが使えるってどういうことですか?

 少なくとも僕には無理です。


「八つ当たりしてごめんね。本当は遙輝くんが正しいってわかってるけど、危険なことはしてほしくないの。わがままだとか、面倒臭いって思われるけど、ここで伝えておかないと遙輝くんがどんどん傷ついちゃう気がするんだもん」


 梨香さんはそう言うものの、僕はそんな感情は抱いたことなんてなかった。

 むしろ心配してくれるのが嬉しく、今後も生徒会役員として一緒に活動し、恋人としての関係を築いていきたいのならその想いに応えたいとさえ思っていた。


 僕はなぜ倉庫で嶋崎に反抗的になったのかを、梨香さんに打ち明けることにした。

 泉さんを守りたかったのは事実だが、嶋崎の目が実母と似ていたことで反抗心から感情的になってしまったのだと。


「迷惑をかけてしまったことがあるから梨香さんには黙っておきたかったんです。まだ引きずっているのかと思われるのも格好悪いような気がして」

「そんなことない。遙輝くんは格好良かったもん。それに、反抗できるってことはお実母様のことを思い出しても普通に喋れるようになったってことでしょう?」


 梨香さんの言葉にはっとなる。

 以前はフラッシュバックが生じるとしかめ面になったり、幻覚を振り払おうとして独り言を呟いていたけど、倉庫ではそんなことはしなかった。しかもその表情を誉めてくれてさえいた。


「きっと遙輝くんが強くなった証拠よ。でも、感情に任せて乱暴なことをするのはダメだからね――」


 梨香さんが僕の真横に移動し「――それができるようになったら、ご褒美にキスしてあげる」と囁いた。「梨香さん」と、僕らはお互いに見つめ合い、手を握る。なんだか最初のようないい雰囲気になりかけたものの、車が梨香さんの自宅に到着してしまった。


「それじゃ、また明日ね?」


 義母さんに礼を言い、降車する梨香さん。名残惜しいけれど僕には引き止める理由がなかった。玄関の前で見送られながら、僕らの車は動き出してしまうのだった。



「さっき九条さんと何を話していたの?」


 義母さんに訊かれ、僕は実母のことだと伝えた。


「実母様って、恭子さんのことを?」

「はい。梨香さんには打ち明けたことがあるんです」

「そうだったの……。また苦しくなったら、いつでも私たちに相談してね?」

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫だと思います」


 掌には絡められた指の感触が残っている。正直、キスができなかったのは残念だったけれど、僕の心は不思議と軽やかになっていた。


「喧嘩したはずの軽音部の相談にものるなんて偉いわ。遙輝くんが生徒会役員になってからいいことばかりね。これも九条さんのおかげかしら?」


 それは言わずもがな。あと、カルルピの影響もあると思います。そもそも事の発端は泉さんとのお菓子作りでしたから。


「そういえば、嶋崎先生はどうなったんですか?」


 校長たちからの電話はその報告だったようだが、僕は梨香さんに夢中で聞き逃していた。一生徒が詮索すべきことではないけれど、事件の当事者として知る権利はあるだろう。


「帰宅させたわ。後日逮捕は確定だから懲戒処分ね。これで免許は剥奪されて、三年間は再取得も無理になるわ」


 本来なら警察を呼んで現行犯逮捕できる案件だったろう。しかし、証拠の裏付けをとり、これまでの罪状も明らかにした上で逮捕状を貰ってから逮捕しても同じだと義母さんは言う。泉さんのお母様もそれをすんなりと理解してくれたらしい。


「そういう法律の知識ってどこで学ぶんですか?」

「年の功よ。泉さんのお母様はとくに詳しかったわ。名刺を見たかぎり法律関係のお仕事に就いているわけじゃなさそうだけど、どうしてかしらね?」


 きっと裁判の経験者だからだろう。人生経験を積むとそういう知恵も身につくのか。


「今回のことは、新聞にも載っちゃうのでしょうか?」

「当然よ。公務員(きょうし)は逮捕された時点で報道されるのが普通よ。そこで、遙輝くんにお願いがしたいことがあるんだけど」

「はっ、なんでしょうか?」


 鋭い眼差しをルームミラー越しに向けられ、僕は居住まいを正した。これは校内で女子生徒たちを視姦、いや見つめているときの目だ。義母さんは、理事長としての信念(よくぼう)をもって命令を下そうとしている。


「遙輝くん、よく聞きなさい」


 僕は座席から身を乗り出し、理事長の極秘指令を受けた。

 その内容は、泉さんを守るようにというものだった。

 報道によって学校の悪評が広まれば、被害者の泉さんも自責の念に苛まれるかもしれない。

 また、学校関係者の不祥事の場合、被害者(せいと)が特定される場合は加害者(きょうし)の実名報道はされないものだが、それでも嶋崎がいなくなれば誰が被害を受けたのか推測できてしまう。

 いくら未遂だったとはいえ、泉さんが他の生徒から奇異の視線を向けらえることは十分考えられる。もしかすると陰湿な嫌がらせを受けてしまうかもしれない。それを防ぐ為に、できるだけ彼女に寄り添ってほしいとのことだった。


「お母様も娘さんの意思を尊重して見守ることにしたらしいけど、もしもこれが原因でイジメを受けるようなら転校させると言っていたわ」


 僕は冷や汗をかいた。

 よく考えたら、小さな偶然の積み重ねと僕の女装で泉さんを救えたものの、一つでも歯車が噛み合わなければ取り返しのつかないことになっていたのだ。お母様は母親として当然の、むしろ娘の意思を尊重した寛大な判断をされている。


「わかりました。泉さんのことは、僕たちが守ります」

「でも、あまりベタベタするのは不審に思われるから止めるのよ? ほどほどの距離感を保ってあげてね?」

「気を付けます。迷うことがあれば梨香さんにも相談して行動してみます」

「頼りにしているわ。私の力だけじゃ守り切れるのは難しいから、遙輝くんたちがいれば心強いのよ」


 義母さんに言われ、僕は頷いた。

 梨香さんにもこの指令を教えていいか訊いてみるとOKを貰えたので、明日彼女に伝達することにした。彼女の想いに応える為には、自分が些細だと思うようなことでも伝えてみたほうがいいと考えたからであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る