15.彼女たちの怒り
胸ぐらを掴まれたそのとき。背後の扉が開かれるや、梨香さんが僕のもとへ駆け寄ってきた。
「やめて、遥輝くんから離れて!」
「生徒会長? どうしてここに……」
嶋崎が目を見開いた。さすがに彼女のことは知っているらしく、状況の悪さを自覚したようだった。
「嶋崎先生、今の行為は校長と理事長に報告させていただきますからね?」
梨香さんがスマホの画面を突きつけると、そこには嶋崎に乱暴される僕の背中が映っていた。
彼女に待機してもらったのは危険から遠ざけるだけでなく、撮影してもらう為でもあったのだ。
「遥輝くん、大丈夫?」
「平気です。じっとしていれば痛みもひきます」
「もしかして、殴られたの?」
「少しだけですよ」
やはり蹴られたことは背後から確認できなかったようだ。録音を仄めかして嶋崎を動揺させたのは正解だった。このおかげで僕らに有利な映像を撮れたのだ。
扉越しなので音声が漏れているけど、体罰の証拠としては十分だ。いかに嶋崎でも言い逃れはできないだろう。
「まさか最初からこれが狙いだったのか?」
眉を寄せる嶋崎に、僕は万一に備えて梨香さんの前に立ち塞がった。普通ならここで引き下がるだろうけど、この人の性格上なにをするかわからない。
ため息を吐く嶋崎に、僕らは固唾をのんで反応を待つ。
くるならこい。
梨香さんには、指一方触れさせないぞ。
ところが嶋崎は意外な行動にでる。足早に僕らの横を素通りして、部屋を出ていったのだ。
「お、追いましょう!」
慌てて退室したが、スタジオを出ていったらしく嶋崎の姿はなかった。待合室にいた泉さんいわく、嶋崎は無言で彼女たちの前を横切り、駐車場へ去ったという。
僕と梨香さんで外に出てみるも、嶋崎の車は既に走り去っていた。
「きっと迂闊な発言をして証拠を増やしたくなかったんでしょう」
「最低だわ、謝罪もせずに逃げるなんて……!」
梨香さんが怒りをあらわにする。今すぐに学校へ戻って報告しようとさえしているが、それは得策ではない。僕らがいなかったときに嶋崎が部員たちに何をしていたのか確認しておかなければ足元をすくわれる可能性がある。
「証拠は残せましたし、今日は泉さんを助けられたからよしとしましょう」
「遙輝くん、自分が暴力を受けたのに平気なの?」
「凛のハイキックに比べれば可愛いもんですよ」
おどけてみせたものの、彼女のよほど嶋崎の行為が許せないのか怒ったままだった。
「そうじゃなくて、遙輝くんを傷つけたのが許せないの!」
「梨香さん?」
「遙輝くんは平気なの? どうしてそうやっていつも我慢するの?」
「いえ、その……。すみません」
一瞬、梨香さんが感情を爆発させる理由がわからなかった。
嶋崎の不正に憤慨しているのではなく、それほどまでに僕のことを想ってくれているのだろうか?
「もう遙輝くんの言うこときかないからね! なにがあっても離れないから!」
「それは嬉しいですけど、梨香さんを危険なことには――」
そう言いかけるなり、彼女に抱きつかれてしまった。
「梨香さん?」
本日二度目の抱擁は絶対に手放さなまいとする力強いものだった。指が肩に食い込み、半ば頭突きのように顔を埋められる。その力が強いほど、僕の前身に梨香さんの胸に秘められた熱い心が伝わってくるかのようだった。
「痛い?」
「いえ……。すごく、温かいです」
不意に足腰の力が抜け、梨香さんに寄りかかってしまった。
優しい香りのなかに身をあずけていると、だんだんと全身がほぐれていく。自覚していなかっただけでかなり緊張していたらしい。嶋崎から受けた痛みも梨香さんのなかへ溶けていくように薄れていくのだった。
「守ってくれるのは嬉しいけど、もっと自分を大切にして?」
「はい、梨香さん……」
一つに重なった僕らの影が、駐車場に長く長くのびている。このまま時間が止まってほしいと願うほど幸せな一時だったけど、スタジオから泉さんの呼び声が聞こえてきた。
そろそろ戻らなくてはならない。
交わっていた身体が離れていくと、汗で濡れたシャツが夕風によって氷のように冷えていく。この時期は陽が傾いても温かいというに、僕らはそれ以上熱くなっていたのだ。
「行きましょうか?」と、訊くと梨香さんが夕日に染まった顔で頷いてくれた。
スタジオに戻ると、なぜ僕たちが来たのかと部員たちに訝しがられたが、泉さんが説明すると全員表情を一変させたのだった。
「嶋崎のことは何度か生徒会に相談してたの。偶然スタジオの近くでデート中だって聞いてたから、私が電話で助けを頼んだよ。根岸は意外と頼りになるし、生徒会長がいればアイツだって大人しくなると思ったの」
「それじゃ、この二人はそれを中断してわざわざ来てくれたの?」
おおっと、部員たちが感嘆したことに僕らは驚かされる。
軽音部は予算を管理している生徒会役員を目の敵にしていたのに。
交流の増えた泉さんならともかく、彼女たちまで僕らに頭を下げてくれるとは予想外だった。というか、デートしていたわけじゃないんですけど。
だけど、僕らのことを快く思わない部員が一人だけいた。
「おい、なに誇らしげな顔をしてんだよ?」
「桑原? いたのか?」
桑原は大柄なドラマーで、以前僕と予算のことで揉めたことがあった。
「いたのかじゃねえよ。雑用のくせに俺たちの仲間顔してんじゃねえぞ」
威圧する桑原だが、そこで他の部員たちが一斉に吠えかかった。
「なに偉そうなこと言ってんのよ、素直に感謝しなさい!」
「アンタも嶋崎にビビってないで会長のストーカーを見習えばいいでしょ!」
「こんなに有能な雑用だなんて思わなかったわ、荷物運びが楽になるし入部させましょう!」
若干けなされているような気もするけど、彼女たちなりの誉め言葉だろう。
「でもよ、コイツらが嶋崎に歯向かったせいでますます俺たちへのしめつけが強くなるかもしれないぜ? 後先のこと考えずに行動されたって迷惑だろう?」
それでも不平を漏らす桑原に凄まじい怒号が響き渡る。その声の主は、泉さんだった。
「根岸たちは私たちを守ってくれたのよ! 皆が泣いて、私もどうしていいかわかんないときに電話一つで駆けつけてくれたの! アンタにそんなことできる?」
「偶然近くにいただけだろう、それに九条は何もしていないだろうが……」
「九条(かいちょう)の地位と機転があったから嶋崎が引き下がったの! アンタも部屋の隅でビビっているぐらいなら少しは見習ったらどうなのよ!」
あまりの気迫に他の部員も萎縮している。
桑原はバツが悪そうに舌打ちするや、道具も持たずにスタジオを出て行った。さすがに彼のことがいたたまれなくなったが、引き止めるとかえって傷つけると思ったので止めておいた。
「ちょっと、自分の道具(ドラム)ぐらい片付けなさいよ!」
「泉さん、僕が運びますよ?」
彼女からは反対されたが、彼を不快にさせた僕にも原因がある。それに避難させる口実とはいえ僕は荷物を運ぶと発言しているし、なにより皆でやれば暗くなる前に帰れるだろう。
僕たちも部員たちと撤収作業に取り掛かった。
機材を運んでいる途中、梨香さんと泉さんが二人きりでいるのが見えた。
なにやら会話しているようだが、見慣れない組み合わせなので心配になり、僕は少し近付いて聞き耳をたててみた。
「見苦しいところを見せてごめんね。もし桑原になにかされたらすぐに私に言って?」
「いいのよ泉さん。私だって彼を叩いたことあるから、怒られるのも当然よ」
最初は緊張気味だったものの、梨香さんは徐々に打ち解けている様子だった。
また、梨香さんも泉さんが激怒してまで僕らを庇ってくれたのが嬉しかったようで、お礼を言い返していた。
「お礼なんていいのよ。私のほうが助けられているんだもん。お菓子作りの時だって、九条のおかげで応募用のワッフルを完成させられたんだし」
泉さんは感謝の後に、梨香さんを人質にして僕に協力を迫ったことを説明してくれた。
「私を人質って、どういうこと?」
「もし断ったら生徒会にクレームをつけるって根岸を脅したの。だからアイツは九条を守りたくてお菓子作りのことを隠していたのよ」
また、腕を組んで歩いていたのは人混みのなかで僕がはぐれて迷子にならないようにする為だったとも伝えてくれた。これで僕への疑惑は完全に晴れたわけだけど、なんだか腑に落ちない理由付けだな。まぁ、梨香さんが納得しているのならいいんだけど。
片付けが終わり、僕らはスタジオを後にする。
大きめの機材はスタジオで保管することができるらしく、部員たちはベースやギターといった持ち運びのしやすい楽器だけを担いでいた。
部員たちとの別れ際、泉さんが僕らの前で改めてお礼を言ってくれた。
「今日は本当にありがとう。今度、デートを潰した埋め合わせをさせてもらうわ」
「とんでもない。むしろ、桑原の言うとおり、僕のせいで余計に嶋崎先生を怒らせてしまったかもしれません」
「ねぇ泉さん、今日のことは他の先生たちに報告しましょう? 私たちが一緒にいれば言い逃れなんてできないと思うわ」
不意に泉さんが笑顔を萎れさせた。
「泉さん?」
「うん、考えてみるわ。それじゃ、また明日ね……」
暗い表情を浮かべる彼女に、僕らは不安におそわれる。僕らの証言に加え、証拠まで提出すれば嶋崎はそれ相応の処罰を受け、顧問としての資格も失い軽音部に近づくことも許されなくなるだろう。
それなのに泉さんは顔をひきつらせていた。
彼女だって嶋崎を嫌い、怯えていたはずなのに。
「泉さん、なにか悩んでいるみたいだったけど、どうしたのかしら?」
「嶋崎についてまだ問題があるのかもしれません。明日、もう一度話しをきいてみましょう」
「なんだか、一筋縄ではいかなそうねこのまま無事に解決できるかな?」
「もちろんです。梨香さんもいますし、きっと大丈夫ですよ……」
だが翌日、僕らの不安は的中することになるのだった。
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