29.財布にあったもの


 軽音部の演奏が幽かに聞こえてくる。

 ほとんどの生徒が体育館でライブに興じていることだろう。

 僕らはなにを喋るわけでもなく、ただ茶室で寄り添って座っているだけだったけれど、とても幸せな時間だった。


 そろそろ建学祭も終わりだ。

 今日まで本当に長い道のりだった。

 いろいろなトラブルもあったけど、そのおかげでこうして二人きりでいられるような気がする。



「そろそろ閉会だね。みんなが戻ってくるまでに後片付けなくちゃ」


 立ち上がろうとする梨香さんを、僕は思わず引き止めてしまう。どうしたのかと訊かれ、僕は咄嗟に足が痺れて立てないと嘘をつく。本当はこの時間が惜しかっただけなんだけど。


「だから、もう少しこのままでいさせてもらえませんか?」


「え~~、しょうがないなぁ」


 梨香さんが腰を下ろした。

 どうやら嘘だとわかっているらしい。僕の肩に寄りかかるなり「わがままだね」と囁いたのだ。


「ダメでしょうか?」


「ううん。じつは、私もまだこうしていたかったの……」


 恥じらいながら言われ胸が爆発しそうになる。

 梨香は頬を真っ赤に染めている。きっと僕も同じ顔をしていることだろう。


 こういうときって、ハグ、してもいいのかな? 考えている間に気持ちが抑えられなくなり、彼女の肩に腕を回して抱き寄せようとした瞬間、スピーカーから校内放送がかかった。

 生徒会長は至急体育館へ来るようにというお達しに、僕らははっとなる。



「そうだ、閉会の挨拶をするから急いで着替えなくちゃ、根岸くんも手伝って!」


「手伝うって、着替えをですか?」


「着物を脱ぐからこの帯を持ってて! ちゃんと窓の方を見ててよね!」


 部室から制服を持ってくるなり帯持ちをやらされる。

 僕の背後で梨香さんが体を回し、やがて帯が床に落ちると着物を脱ぐ音がいやに気になってしまう。余計なことを考えまいと頭を振り、ゆっくりと帯を巻き取るもそこに残っていた彼女の温もりに心がざわついてしまう。


「後片付けお願いしてもいい? 部室に流しがあるから食器を浸けておいてほしいの」


「わかりました」と、振り返れば彼女はスカートを履いてる最中で、すらりとした生足が見えてしまった。


「ちょっと、まだ終わってないんだから覗かないでよっ!」


「す、すみません! うわっ!」


 顔面に足袋がヒットする。

 着替えを見ぬように窓際で縮こまっていると、僕の背中に襦袢やら髪を縛っていたリボンなどが次々に投げられる。

 なんだい。僕は物掛けじゃないんだぞ。ってうか、レンタル品をそんな風に扱っていいんですか?


「それじゃ、後片付けお願い! 根岸くんも急いだほうがいいわ、そんな姿で部員が戻ってきたら怪しまれるだろうから!」


「た、たしかにそう見えますよね……」


 ここで部外者が女子の服を抱えていれば通報されても仕方ない。

 どうやらのんびりしている時間はないようだ。

 梨香さんを見送ると僕は急いで襦袢を畳み、すっかり冷めたお茶を飲み干して片付けに取りかかるのだった。



 茶室を出ててから体育館に足を運んでみたが、閉会式は既に終わっており、軽音部も撤収していた。

 送迎バスも最後の便が出発し、校内には教室の後片付けを行う生徒たちだけが残っている。

 僕も展示物等の撤去にかかり、途中から立花姉妹と副会長も加わったことでスムーズに生徒会室に運び終えることができたのだった。


 片付けもほぼ終わり、あれほど賑やかだった校舎が静まり返る様子には寂しさを覚えてしまう。

 そんな気持ちを吐露すると、なぜか立花姉妹が悪魔のような笑みを向けてくるのだった。


「な、なんでしょうか?」


「いえいえ。誰かさんが傍にいないから寂しいのかな~~っと思って」


「やはり会長がいないと少尉の士気は下がるのだな?」


「いえ、そうじゃなくて、お祭りの後の余韻的な意味で言ったんです」


「Oh、風の噂じゃドキドキな出来事があったみたいだけど、なにがあったの?」


「聞いて下さい副会長! 根岸先輩ったら会長と二人っきりでお茶を飲んでたんですよ!」


「私も飲みたかったなぁ。朝のナパームの香りよりも格別な抹茶だったろうに」



「うん? そうかお茶が飲みたいなら頑張ったご褒美に買ってきてあげるよ?」


「あ、私たちを買収するつもりですか?」



 と、財布を取り出そうとしてポケットに厚みがないことに気付く。

 全身をくまなく探したがどこにもない。どこかで落としたようだった。


「もしかして黒い縦長の財布? それなら来場者から預かって職員室に届けたわよ?」


「あ、きっとそれです!」


 副会長と一緒に職員室に行くと、僕の財布は生徒指導の先生が保管していた。

 財布を確認すると間違いなく僕のものだったが、持ち主を断定する証拠がないと渡せないという。

 よわったな。名前を記入したポイントカードなどは入っていない。このままでは警察で指紋をとらないといけないらしい。以前、持ち主を名乗って盗もうとする生徒がいたので、校則で決まっているというのだ。

 財布も無しに生活するのは無理だし、泉に渡すつもりだった‘封筒の中身’も入っているのに――


「あっ!」と、あることに思い当たって声が出る。あの‘紙’には名前も書かれているはずだと。


「あの、紙幣をいれるところに、僕の名前が書かれた紙が入っているはずです」


「なに? お前、その歳で名刺を持っているのか?」


「名刺ではないんですが、なんと言えばいいか……。とにかく、見てもらえばわかります」


 先生は僕らに背を向けて財布を開くと、僕の言った『紙』を見つけ、そこに印字された文字を読んでいる様子だった。


「なるほど……。たしかにこれは‘根岸’のものだ」


 

 先生は大きく頷くと「不用意に持ち歩くな?」と忠言しつつ財布を返してくれたのだった。

 僕は財布をしまうと一礼し、職員室を出た。

 まさか泉の為に用意していたものが役立つとは思わなかった。

 きっと先生もそんな珍しいものがでてくるなんて予想外だっただろう。

 ところが、副会長は正体に気付いていた。


「Hey。なぜ配当金の小切手なんかを持ち歩いている?」


「え、どうしてわかったんですか?」


「先生が取り出したときに受領書が窓ガラスに反射して見えたんだ」


 そう。

 僕は財布に小切手と受領書をいれていたのだ。


『××証券様 以下の銘柄コードの配当金を受領しました。根岸謙吾』


 受領書にはそんな一文が記載されている。

 口座が父さんの名義なので受取人もその名前となっているが証拠としては十分だろう。

 小切手のほうには押印もされているので、これを郵便局や銀行に持っていけば換金もできる。

 現金ではないから財布に入れても校則違反にならないし、そもそも泉からの請求額を満たせる手持ちの資産はこれしかなかったのだ。


「これも実母からの教育か?」


 僕は首肯する。

 実母の正しいお金の使い方とは資産運用のことだった。

 高校での資産形成が必修科目となってからまだ二、三年と日が浅いが、僕のように親の管理下で積み立てをしている人は他にもいるだろう。


「二割も引かれるのにあえて小切手での受領を選んだのは、適度に小遣いがほしいからか?」


「はい。もしかして先輩もやっているんですか?」


「Yes。米国人の家系なら投資が多いのが普通だ。だが、お前もやっているとは意外だ。お小遣いをこつこつと預金しているタイプにしか見えないのに」


「全額を預金するほうが危険だというのが、実母からの最初の指導だったので」


「素晴らしい教えだ。しかし、なぜ小切手を学校に持ち込んだ? 誰かに渡そうとしたのか?」



 副会長が僕を見下ろす。

 その目は剣のように鋭く、体に触れられてもいないのに凄まじい圧力を感じさせられた。

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