28.梨香さんの言葉
「待たせてごめんね」と、ぎゅっと腕をからめられ、ドキッと胸が高鳴ってしまう。
いや、耳を赤くしている場合じゃないぞと、僕は彼女の腕を振りほどいた。
「おい! てめぇら、待ちやがれ!」
と、桑原に怒鳴られる。
恥を雪ごうとしているのか凄まじい気迫で駆け上がってきた。
ところがその場に泉が現れたことで態度が一変する。もうすぐ開演だと叱られるなり桑原が腰を引き、全身から漲らせていた怒りの炎を呆気なくしずめたのだ。
「悪ぃ。コイツらに絡まれてよ……」
「いいからさっさと会場に来て! 失敗したら予算を減らされるのよ!」
「そうだった、こんなことしている場合じゃねぇ! でも聞いてくれ泉、面白い話があるんだ!」
「は?」
「九条のやつ、女児アニメなんか見ているだってよ!」
その一言で泉がかすかに顔を引きつらせたのを、僕は見逃さなかった。
「……それがどうかしたの?」
「高校生にもなってそんなのが趣味なんて可笑しいだろ! カルテットなんとかだっけ? あんな下らねぇものを楽しんでいる奴の気がしれねぇぜ!」
「なによーっ、見てもいないくせに侮辱しないで!」
「見なくたってあんなの子ども騙しだってわかるだろ! 適当に色違いのキャラを出して、同じ事を繰り返しているだけなんだろうからなっ!」
その瞬間、数多の銀線が宙を舞うや一斉に桑原の首へ殺到した。
気管を潰されて顔が蒼白くなり、その光景に驚いた梨香さんが悲鳴を上げて僕に抱きついてきた。
「もう時間がないの、さっさと行くわよ!」
いつの間にか泉がベースを抱えている。
きっとキャラクターを侮辱したことが逆鱗に触れたのだろう。弦を操っていたときの顔はダイエルについて語っていたときのような末恐ろしいものだった。
「今の、なんだったの? 泉さんはどこから楽器を出したの……?」
「さ、さぁ、そういう宝具なんでしょうか?」
床を引きずられる桑原に神崎たちがおろおろと続く。
この一部始終を目撃していた生徒たちも教室へ戻っていき、廊下は嵐の後のような静けさに包まれる。その場に立ち尽くしているのは僕らだけだった。
「い、急ぎましょうか? 演奏が終わったら閉会ですし……」
僕は茶道部の部室にお邪魔させてもらった。
「どうぞ、お入り下さい」と、部室に着くと梨香さんが扉を引いてくれた。
茶道部は普通の教室を半分に仕切り、片方を物置や練習用の部室として、残りを本格的な茶室に改築して使っていた。その内装には驚かされる。たたき以外は畳張りで、四畳半の小間の中央は炉畳となっているのだ。
梨香さんに促されて床の間の前で正座した。
お辞儀の仕方や座り方など、茶室での彼女の所作は見惚れるほどに優美だった。
茶筅を動かす際にわずかに前屈みになっているのだが、頬にかかった横髪が揺れるのが妙に気になってしまう。
だんだんと土壁に匂いに混じって上品な抹茶の香りが漂い始めた。
差し出された茶碗を手に取り、口をつける前に回す。
これぐらいの心得はあるつもりだったが「逆よ」と指摘され慌てて逆回転。中身がこぼれそうになった。
お茶の味は絶品だった。
最初に食べたお菓子の甘さがまろやかな舌触りと渋味を引き立てている。
けっこうなお点前でと、彼女と同じように腰を曲げるが客人はそういうお辞儀をしないらしい。茶道って難しいよ。
「足は平気? 痺れていたら楽にしてね?」
梨香さんが腰を浮かし、僕の隣に座りなおした。
彼女の着物と、彼女自身の匂いに鼻腔をくすぐられ、かすかに汗ばんだ横顔を見ているとなぜか僕の身体もだんだんと熱くなる。しかし茶室ではこういう座り方をしないはずだが、いいのだろうか。
「ごめんね。暴走モードにならないように気をつけるって約束したのに。でも、好きな人のことを傷つけられるなんて耐えられなかったの」
「そう言ってくれるのは、嬉しいですけど……」
「もしかして根岸くん、私と一緒にいるのがいやなの?」
「そんなわけないじゃないですか!」
声を荒げてしまうと「あ、怒った」と梨香さんが意地の悪い笑みを浮かべていた。気持ちを見透かされている気がして僕は恥ずかしくなってしまう。
「ねぇ。根岸くんって、わがままを言えないんでしょ?」
いきなりそんなことを訊かれて、僕は困惑した。
「自分の本心を言ったり、好きなことを優先すると怒られるからかもしれないから? 謙虚なのはいいことだけど、自分の気持ちまで置き去りにすると大切なものを失っちゃうよ?」
彼女の言葉に、絶壁のように聳えていた価値観に亀裂が生じた気がした。
いきなりペットを飼うのは無理でも、譲渡会を通じて動物と触れ合う機会は増やせられるだろう。
美音のようにミリメシを食べ、三人衆のように部活そっちのけで私欲の為に活動する姿を羨ましいと思ったこともある。
だけど、それは無理なんだ。
なにかを得る為に必要な代償(おかね)のことを考えると、触れてはいけないような気がしてしまう。それでも近づこうとすれば、必ず実母が現れ、もっと可能性に満ちた使い道があるのだと叩かれるのだ。
「そんなことない。機会(チャンス)だって大切よ。根岸くんだって自分の好きなことを優先していいはずよ。きっと正しいことに使えると思うわ」
「そう、でしょうか?」
教え込まれた価値観が揺らぎかけたとたん、背後に気配を感じた。
実母だ。
縊死体のように床の間に浮いている。
もちろん梨香さんには見えていない。僕が道を踏み外しかけたときに、叱られた記憶をもとに生まれた幻影にすぎないのだから。
「どうしたの根岸くん?」
実母に背中を叩かれ、僕は身体を震わせてしまう。
しっかりしろ!
梨香さんが背中を押してくれているのに怯えてどうする? ああもう、お願いだから来ないでくれ!
これ以上、あんたの価値観を押しつけられたらまた好きな人を傷つけてしまうじゃないか!
僕の願いとは裏腹に、実母があの言葉を囁こうとする。
今まで何度も、いやというほど、事あるごとに聞かされたあの言葉を――
「私は、もっと自分に正直な根岸くんのほうが好きよ?」
僕ははっとする。耳元でしたのは、梨香さんの声だった。
「根岸くんだって、正直な私が好きだって言ってくれたでしょ?」
「そう、でしたね……」
実母が傍にいるのに、梨香さんの声だけがすとんと胸に落ちてくる。
「私、優しい根岸くんのことも好きだけど、もっとわがままな姿も見てみたいな」
「僕が、わがままを言ってもいいんですか?」
気持ちを否定されないことが初めてで、大袈裟なことに僕は未知の世界に飛び込んだような感覚に陥っていた。
「だって、好きな人の辛そうな姿なんて見たくないもん……」
とんと、梨香さんが肩に寄りかかる。
彼女の温もりを感じていると、奥底に蟠っていた歪な記憶(おしえ)と入れ替わるように、彼女の気持ちが心に満ちていくような気がした。
「あ、ごめん! 私ってば、またいやなことしちゃったのかな?」
「違うんです、こんなこと言われたの初めてで……」
今まで僕の心をせき止めていた価値観(おしえ)が消え失せると、激情のあまり涙がどっと溢れてきた。鼻を啜りながらとめどなく溢れる涙をぬぐう。
嗚咽を抑えようと必死に唇を噛み締めると、彼女が茶室の隅に置いてあった鞄からハンカチを取り出し、それで僕の顔を拭いてくれる。よく見るとそれは映画の後で僕にプレゼントしようとしたものだった。
「勝手に使ってごめんね? 今日、ハンカチを持ってくるの忘れちゃってこれしかなかったの。また新しいのを用意するね?」
僕は首を振るい、彼女の手を握った。
「根岸くん?」
「いいんです……。僕、これがいいです」
「え、本当にいいの?」
「はい。これが欲しいんです」
ハンカチを受け取り「大切にします」と、僕は微笑んだ。
茶室にいたはずの母の幻影は、いつの間にか跡形もなく消えていたのだった。
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