20.母の言いつけ


「遙兄ぃ起きて、遅刻するよ!」


 カーテンから漏れた朝日が部屋を照らしている。

 僕はアラームを聞き逃して眠っていた。

 とっくに家を出なきゃいけない時間だが、身体が重くて起きられない。ずっと部屋で横になって過ごしたせいで関節が固まっているようだ。


「お熱あるの? 学校お休みする?」


 凛が布団の上でトランポリンしながら訊いてくる。

 体調を気遣うなら普通に起こしてくれ。


「バスが来ちゃうよ。凛、一人で乗ろうか?」


「待て、今起きるよ」


 のそのそと布団から這いだし、顔を洗いに行く。

 鏡に映った顔は驚くほど窶れていた。

 そういえば梨香さんと別れてからなにも食べていない。

 日曜は丸一日部屋に引きこもってぼんやりと過ごしていた。

 電話してもみたが繋がることはなく、生徒会のグループに返信したのは夜遅くになってからで、そのときになっても彼女の既読はついていなかった。


 きっと僕の責任だろう。

 はやく学校に行って、誤解をとかなくては。


 身支度をおえて外に出ると、週末の雨が嘘のような快晴が広がっていた。


「梨香ちゃんに会ったら映画のお礼を言ってね。あと、壁紙も転送してもらってね?」


「ああ……、わかったよ」



 バスを見送り、足早に通学路を歩く。

 校舎に入ると真っ先に梨香さんの教室を訪ねてみたが、彼女の姿はなかった。

 僕の異変はすぐに三人衆に気付かれ、休み時間になると机を取り囲まれていた。


「お~~い、生きているか?」と五条が僕の前で手をかざし、「まるでゾンビだな」と佐野が嗤っている隣で「会長は欠席のようだぞ?」と富岡が僕に報告する。


 梨香さんが欠席?

 それを知った瞬間、僕の胸がずきりと痛んだ。


「あっ。やっぱり会長さんとなにかあったんだろう? どおりで朝一に教室へ向かったわけだ」


 ずいっと三人が顔を寄せきて、僕は仰け反る。

 心当たりどころか、僕が原因だ。


 声を出せずに俯いているとチャイムの音がなり、家庭科の先生が教室にやって来た。


「また来るからな。これが終わったら昼休みだから食いながら話そうぜ?」


 号令と同時に抜き打ちのテストが行われて教室がどよめいた。

 出題範囲が僕の得意分野だったので回答できたけど、今の状態ではろくに考えることもできない。運が悪ければ白紙のまま提出することになっただろう。



 

 授業が終わり、昼休みになった。


「おい、今日は弁当じゃないのか? 仕方ねぇな。俺たちで用意してやるよ」


 三人が購買で買ってきたおにぎりを分けてくれた。食欲はなかったけれど友だちの優しさが嬉しくて僕はご飯にかじりつく。


「ありがとうみんな。後で代金を払うよ」


「いいよべつに。たかが数百円で涙ぐむなんて大袈裟なやつ」


 そこへけたたましい足音が近づき、振り返ると上級女子の方々が僕らを取り囲んでいた。


「ちょっとネギ、また女子からのご指名よ! ほらっ、貧乏そうな食べ方してないで早く立って会いにいけ! アンタら、ネギをかりるわよ!」


 僕を連行しようとする女子たちだが、そこに三人が割り込んできた。


「コイツは具合が悪いからそっとしておいてやれよ、っていうか、誰が会いにきたんだ?」


「さぁ。名前は忘れたけど、外人の先輩よ。たしかあの人も生徒会じゃないの?」


「外人?」と、首を傾げる五条たちだが僕には副会長のことだとわかった。


 僕は三人に礼を言って廊下に出る。

 そこには憮然と腕を組む副会長の姿があった。


「すみません副会長、原稿の打ち合わせのことを忘れてました!」


「Oh。素直に謝れてよろしい。収録は今日なんだ。さっさと行って準備しておくぞ?」


 口角を上げる副会長だが、目は笑っていない。

 どうやらかなりご立腹のようで、僕を置き去りにするような速さで先を歩いていた。


「Hey、打ち合わせの前に、お前に訊きたいことがある」


 途中で副会長が立ち止まり、人気のない廊下に踵を返す靴音がいやに響いた。

 猛禽のような鋭い眼差しを前に、僕は辛うじて「なんでしょうか?」と声を絞りだす。

 眉間に皺を寄せる副会長を前に脇が汗ばんでいた。なにを尋問されるのかとひやひやしていると、彼女はため息混じりにこう言ったのだった。


「お前、デートの最後に梨香を泣かせたんだって?」


「えっ! な、なんで知ってるんですか?」


 どうやら梨香さんは僕と映画に行くことを副会長に伝えていたらしい。


「プレゼントを拒んだらしいが、お前がそんなことをする男にはどうしても思えん」


「じつは、ややこしい事情がありまして……。説明しても変に思われるかもしれませんが、でも、正直に梨香さんに伝えようと思っています」


「どんな理由か知らんが仲直りする意思があるのなら、さっさと当人に打ち明けてみろ」


「そうですね、早退して会いに行こうかな。あ、でもそれだと余計に怖がられるかも……」


「Why、なにか勘違いしていないか? 梨香なら生徒会室にいるぞ」


「え?」



 ちょうど扉の開く音がして振り返ると、梨香さんが生徒会室から顔を覗かせていた。


「二人ともそんなところでなにしているんですか? 収録の打ち合わせが始まってますよ?」


「ほらな?」


「梨香さん? 休んだんじゃなかったんですか?」


 どうやら午前中の授業を欠席しただけで昼から登校したらしい。

 部屋に入ると添削済みの原稿を渡され、各々がどのパートを喋るかの確認をすることになる。

 今日の僕は凛の迎えがあるので収録には立ち合えない。出演するのは、立花姉妹と会長、副会長の四人となるのだった。


 原稿の確認がおわると、ちょうど予鈴がなった。

 部屋の片付けは放課後の収録直前に行うことにして、この場は解散となった。


「根岸くん、土曜日はごめんね……」


 梨香さんに囁かれ、僕は話しかけられたのが嬉しくて顔を上げた。

 しかし、彼女は僕と目が合うなり笑顔を歪ませる。

 あのときの僕の顔を思い出すと、いやな記憶もよみがえって震えが止まらなくなるのだと。


「根岸くんも、本当は私の趣味をよく思っていなかったかな……?」


「そんなことありません! 僕は、ただ、怖かっただけなんです! 僕には、その……、実母さんの言いつけがあって、それを破ろうとするとおかしくなるんです……!」


 うまく説明ができずに、皆が退室した生徒会室に静寂が蟠りそうになる。

 それでも僕はお小遣いを自由に使おうとしたり、高価なものに触れるとフラッシュバックがおこると正直に打ち明けた。


「あのときも僕は嬉しかったんです! だって、好きな人からプレゼントを貰えるなんて初めてだったし……! でも、あんな素敵なものを受け取るのが、なんだか悪いことをしているような気がしてしまって! だから梨香さんは悪くありません!」


 頭を下げる僕に、彼女は虚ろな声で返事をした。


「ごめん、根岸くんの事情はわかったけど、でも、まだ心が整理できないみたい……」


 それから唇をぎゅっと結ぶと、その場に立ち尽くしたまま足元に視線を落とした。

 長い髪を垂らす彼女を前に、胃が締めつけられるような傷みに襲われる。


 本鈴がなり、午後の授業が始まろとうしている。

 他の階からは号令の声や椅子を引く音が聞こえてくるが、僕らはまだその場にいた。

 しばらくして、こっそり廊下で聞き耳を立てていた副会長が入室してきたことで、僕らはそれぞれの教室に向かうことになるのだった。


 途中、副会長と二人きりになったとき、肩を叩かれてこんなことを言われた。


「まだ夫婦喧嘩から数日だ。心の整理ができるのを待ってみろ」


 まさか副会長からも夫婦呼ばわりされるとは驚いたが、たしかにここは梨香さんが落ち着くのを待つべきかもしれない。

 僕だって彼女と離れるのは嫌だったからだ。



 放課後になり、僕はいち早く生徒会室に行って部屋の片付けにとりかかった。

 人数分のスペースを確保し、あとは見映えをよくする為に部屋を掃除しておけばいいだろう。

 途中で梨香さんと美音がやってきた。ラジオ局から早めに到着するとの連絡があり、鈴音と副会長は出迎えの為に昇降口に待機しているらしい。


「あっ、あの車じゃないですか?」


 美音が窓の外を指差すと、ちょうど一台のバンが校門をくぐり、機材をもった人たちが降りてきたところだった。


「いよいよ本番か……。これでようやく鈴音の発声練習から解放される」


「発声練習、ですか?」


「収録に備えて夜中に発声練習をしているんだ。いきなり外郎売を読み上げたときは悪霊に取り憑かれたのかと思ったぞ。声優じゃあるまいし」


「あはは、大将も大変ですね……」


「もう、笑い事じゃない! そのせいで寝不足なんだぞ!」


 シャーッと僕の袖で爪研ぎしてくる美音。そんな様子に梨香さんが吹き出していた。


「あ、会長まで笑うなんてひどい!」


「ご、ごめんなさい! 大変だったわね……!」


 梨香さんにつられて僕も笑ってしまう。

 僕へのものじゃなくても、彼女の笑顔はとても魅力的だったし、それが見られたことに僕は少し安心してもいたのだった。


 そのとき、背後から扉を叩く音が聞こえて僕らは振り返った。


「あれ? なんだか早かったですね。さっき校舎に入ったばかりなのに」


 ここは三階だし、こんなに早く到着できないはずだった。

 ふたたび扉が音をたてるが、それはノックではなく、訪問者が扉を蹴る音だった。



「……誰でしょうか?」


 すりガラス越しに写る人影は制服姿で、それも大勢並んでいる。

 ラジオ局の人たちじゃない。

 不穏な空気が立ちこめるなか、僕は重大ななにかを忘れているような気がしてきた。


「ここにいて下さい。僕が対応します」


 扉に手をかけようとした瞬間、扉が乱暴に開かれた。

 入ってきたのは軽音楽部の部員たちだった。

 彼女たちは僕を素通りして梨香さんを取り囲んでいる。

 そして、遅れて入室してきた桑原が「おい、予算のことを話しにきた!」と怒鳴り声を上げたのだった。


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