17.遙輝の好きなこと
「凛!」
慌てて駆け寄り、凛を抱き起こしつつ、ぶつかった人を見上げて僕は謝った。
「すみません、お怪我はありませんか?」
相手は糸のように細い目をした、僕と同じ歳ぐらいの男子だった。
彼は手にしていた袋を覗き、商品に傷みがないか確認していた。楽器屋のロゴが入っているから機材だろう。もし壊れていたら弁償しなければならない。
「中身は大丈夫でしょうか?」
「あぁ、はい。たぶん平気です」
「よかった。本当にごめんなさい。ほら、凛も謝りなさい」
「いいって。それじゃ」
二人で頭を下げるとその人はエスカレーターで一階へ下りていく。
幸い凛にも怪我はない。
僕は安堵の息を吐きながら服についた汚れを払う。凛はしゅんとしているが、なにかの拍子に走り出すのは子どもの習性なので簡単には治らなかった。
「まったくもう、気をつけなきゃダメじゃないか!」
「はい、お兄ぃ。……ワンちゃんを見に行ってもいい?」
「お前、本当に反省してんのか?」
「ごめんなさい根岸くん、私がちゃんと手を握っていなかったからだわ」
「梨香さんのせいじゃありませんよ。凛のやつ、けっこう力が強いですから」
凛の手を強く握ると、あろうことかペットショップへと引きずられてしまう。
「まったく、すぐに帰るって約束しただろう?」
「いいじゃない。バスの時間もまだあるし、少し見ていきましょう?」
梨香さんの言葉に僕は戸惑ってしまう。
一緒に説得してくれると思ったのだが、なぜかしきりに背後を気にしながら店に入ろうとしている。
奇妙な様子にどうしたのかと訊くと、さっきぶつかった男子が知り合いなのだという。
「梨香さんの友人だったんですか?」
「うん。相手は気付いていなかったけど、たぶん神崎くん」
「神崎さん、ですか? 聞き覚えのない名前だし、学校で見かけたこともないんですが?」
「当たり前よ。私の中学の同級生で、別の高校に進学したんだもん……」
「え、まさか――」
僕は慌てて口をつぐむ。
彼女の表情を見ればそれ以上なにも言わなくてもわかった。
さっきの男子、礼節を欠かない範囲のくだけた受け答えで、服装や立ち振舞いもじつに堂々としたものだった。
きっとたくさんの異性とも交流できるスペックの持ち主なんだろう。だから梨香さんとも付き合うことができ、彼女が秘密にしていた趣味も知れたのだ。
「我儘を言ってごめんなさい。エントランスに行くのが見えたから、帰る時間を少し遅らせてもらえないかしら?」
手を組む梨香さんに僕は頷き、ペットショップで時間を潰すことにしたのだった。
「見て見て、このワンちゃん可愛い! バロンにそっくりだよ!」
凛が柴犬の子どもがいるガラスケースにへばりついた。
と、僕らのもとへ店員さんがやって来て、子犬を撫でてみないかと訊いてきた。
周りを見れば他のお客さんも動物と触れ合っている。ガラスケースが開けられ、凛が子犬の額を撫でる。人慣れしているのか犬に嫌がる様子はなかった。
「ねぇ、この子を連れて帰ろうよ! お兄ぃだってワンちゃんを飼いたいんでしょ?」
「え、そうなの? ペットとか好きなの?」
梨香さんが意外そうに僕を見つめる。
よく考えたら趣味の話題になったとき、動物(ペット)のことを答えていなかった。
「どうしてあのときに教えてくれなかったの? 恥ずかしい趣味なんかじゃないのに」
「ほしがったのは昔の話ですから。ほら、誰でも小さい頃はペットを飼いたがるものでしょう。結局僕もねだるだけねだって、お世話のこととか考えていませんでした」
「そうかな? 根岸くんなら得意な気がするんだけど」
「そんなことありませんよ。それに、値段のこともありますし……」
僕は犬の値札を見た。
生体費用十三万円。獣医師によるメディカルチェック、初回ワクチン摂取等の経費込で二十三万四千円……
そうした頭金だけじゃなく、餌代やトイレ代といった費用が年間で四、五十万はかかり、病気になれば治療費も要る。
そう考えるととほうもない責任が伴うことを痛感させられる。きっとあのときに貰った‘誕生日プレゼント’を使ったとしても、一緒には暮らせなかっただろう。
「あ、あっちにもワンちゃんがいる。なんだか大きいね?」
「凛ちゃん、近づいちゃダメよ」
二人の話し声で、僕は我に返った。
少し離れたところにある檻には成犬がいるが、どうやら元野犬で、お店で保護して譲渡先を探しているらしい。
たしかに他の犬よりも目つきが鋭いし、人が近付くと唸って威嚇していた。
僕はというと、檻にいる犬と目を合わせたまま動けなくなっていた。
体格といい毛色といい、初めて触れ合った犬に似ていた。
大昔に立ち寄った譲渡会で出会った、あの犬に。
犬が僕を見つめたまま寝そべった。
急所(おなか)を見せているから警戒はされていないようだ。
そんなデレデレな態度をされると僕もついその気になってしまい、この犬と過ごせたら毎日がどんなふうに変わるのかと夢想してしまう。寄り添える相棒がいると、何気ない日々の変化も楽しくなるのだろうかと――
そのとき、僕は反射的に振り返った。
もちろん背後には誰もいない。他のお客さんが動物たちと戯れているだけ。どこにでもあるペットショップの風景が広がっているだけで、あの人の姿はどこにもなかった。
よかったと、僕は胸を撫で下ろし、唇を引き結んで犬から目を反らした。
「ねぇ、根岸くん。大丈夫?」
梨香さんが不安げな顔で僕を覗き込んだ。
「え、なにがですか?」
「なにがって……。ボーっとしていたから」
「すみません、ちょっといろいろ考え事をしていて……」
「遥兄ぃ、もしかしてお腹でも痛いの?」
「いや、なんでもないよ」
僕は笑みを浮かべようとしたが、どうしても顔が引きつってしまう。
ああ。もう。笑わなきゃ。せっかく二人が楽しんでいるのに、場の空気を壊しちゃダメじゃないか。
「凛、もう疲れたな~~。はやくお家に帰ろう?」
凛が僕の腕を掴んだ。
もういいのかと訊くも早ってカルルピのビデオを見たいという。梨香さんも「もうすぐ次のバスが来るはずだわ」と腕時計を見ていた。
僕らはペットショップをでて、一階のエントランスに向かう。モールの外には鈍色の雲が漂っており、吹き荒れる湿った風に頬を撫でられた。
ちょうど一台のバスがロータリーにやってきたので、僕らは最後尾に座った。
車窓に映る町並みは午前中の晴天が嘘のように黒く澱んでいる。
窓ガラスに反射する僕の眼差しも、同じような色を宿していた。もともと帰る予定だったとはいえ、あそこで僕が奇妙な行動を取ったばかりに二人に余計な気遣いをさせてしまったのだから。
不意に僕の肩に凛がぶつかる。
眠っているようだ。
疲れちゃったのかなと、梨香さんが頭を撫でていると、僕はあることに気付いた。
「あれ? 凛のペンダントがなくなっている。家を出るときにはしていたのに……」
起こして訊いてみると、凛は自分のポケットからペンダントを取り出した。
どうやら紐とチャームを繋ぐ部分が壊れてしまったようだ。
「自分で直そうとしたけどできなくて、それでここにいれていたの」
「あら、これくらいなら直せるわ。私にかしてみて」
梨香さんは似たような玩具を持っているので修理のコツがわかるらしい。
道具を使うことなく、指先の力だけで元通りにしてしまった。
「ほら、もう大丈夫よ。なくさないようにね?」
ところが凛はいらないと首を振り、こんなことを言うのだった。
「凜が持っていたら壊しちゃうから、梨香ちゃんにあげる」
僕らは驚いた。そのペンダントは凛の検定に合格しなければ当たらないはずだろうと。
「梨香ちゃんなら、大切にしてくれるでしょう?」
真っ直ぐな目を向ける凛に、梨香さんは見開いていた目を細め、そっと微笑み返した。
「ありがとう。でも、このペンダントは梨香ちゃんが持っているべきだわ。私は、凜ちゃんがくれようとしたその気持ちだけで嬉しいから」
そして両手を凛の手に添えて、その小さな手にペンダントを握らせるのだった。
「そのかわり、いつまでも凛ちゃんとお友だちでいたいな」
「もちろん、もう親友だもん!」
凛に抱きつかれ、照れ笑いを浮かべる梨香さん。
しかし、これは景品を手に入れる千載一遇のチャンスだったはず。
僕は凛に聞こえないよう、本当にいいのかと訊いてみた。
「私は満足よ。大切なものをプレゼントしてくれるなんて、凜ちゃんが私を好きになってくれた証拠だもん。その気持ちだけで、私は満足よ」
それが梨香さんの本心であることに疑いようがなかった。
なにかを悟ったような清々しい笑顔には収集に取り憑かれた悪霊のような面影は一つもなかったからだ。
梨香さんはペンダントを手に取り、それを凛の首にかける。そして「凛ちゃんが一番似合うわ」と愛でるようにその頭を撫でるのだった。
その姿はまるで本当の姉妹のよう僕には思えたが、凛は違ったようだ。
凛は僕らを交互に見上げて、こんなことを言うのだった。
「なんだか遥兄ぃと梨香ちゃんってパパとママみたいだね」
「「えっ?」」と、僕らの声がハモる。
「そう、かしら?」
「だっていつも楽しそうにお話ししているし、ご飯を分けたりもしているもん」
「す、すみません梨香さん、凛が失礼なことを言っちゃって……!」
「え? 凛、悪いこと言ったの?」
きょとんとする凛だが、たしかにそんなふうに見えてもおかしくないのかもしれない。
「もしかして、遥兄ぃは梨香ちゃんのこと嫌いなの?」
「おバカ、そういうことを訊くもんじゃない!」
「じゃあ、梨香ちゃんはどうなの?」
「え……。私?」
「遥兄ぃのこと、嫌いなの? 好きなの?」
「あの、梨香さん! 気にしなくていいですからねっ!」
そこでバスが停車する。僕らが下りるバス停に到着したのだ。
「ほら降りるぞ凛!」
凛の手を引いて下車すると同時に雨が降り始め、僕は急いで折りたたみ傘を取り出す。
三人で入るのは狭かったが雨風が弱かったので凌げそうだった。
「夫婦みたいだなんて、驚いたね? でも嬉しかったかも……」
不意に耳元で梨香さんに囁かれる。
同じ傘のなかなので、自然と密着してしまっているのだ。
「う、嬉しいだなんて、冗談ですよね?」
「本当よ。もしかして根岸くんは嫌だった?」
「それは、もちろん――」
と、そのとき予想外のことがおこった。
凛のペンダントが壊れ、貝殻のチャームが落ちたのだ。
「うわ、梨香ちゃんが直してくれたのに!」
「あ、待って、凛ちゃん!」
僕の手を振りほどき、凛が地面を転がる真珠を追って駆け出した瞬間、脇道から一台の自動車が現われ、けたたましいクラクションの音が響いた。
「凛っ!」
「凛ちゃん!」
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