18.お前の命令なんて、きかない
慌てて抱き起こそうとすると凛は元気に跳ね起き「びっくりした」と、ひょうきんな声を出す。驚いて転んだだけで接触はしていないようだ。
ほっと胸を撫で下ろすも、すりむいた膝からは血が出ており、梨香さんがハンカチをあてている。車は僕らの横を既に走り去っていた。
「凛、走るなって言っただろう!」
「根岸くん、怒らないであげて! 私がちゃんと直せなかったせいなんだから!」
梨香さんの震えた声になにも言えなくなってしまう。
凛も珍しく反省している様子だったので怒ることはできず、僕は梨香さんに傘を持ってもらい、凛をおんぶして歩き出すのだった。
「ごめんね、お兄ぃ」と凛に言われ、僕も怒ったことを謝った。後ろで傘をさす梨香さんが「家に着いたらお母さんに謝らせて?」と申し出てきたが、僕らは同時に首を振った。
「梨香さんに非はありません」
「そうそう。梨香ちゃんは悪くないよ」
しばらくして僕の家が見えてくるがガレージは空だ。
まだ帰ってきていないようだと、僕はゆっくりと息を吐いた。
「あと数時間は帰ってこないかもしれません。待っていたら雨がますます強まりますし、今のうちに帰った方が安全です。家まで送りますから」
「これぐらい平気よ。あ、でも傘は借りたいかも。いいかな?」
「傘だね? それなら凛がとっておきのやつを持ってきてあげる!」
「こらっ、カルルピのじゃなくて普通のでいいんだからな!」
凛が元気に家に駆け込む様子に、僕らは密かに安堵の息をもらした。
「梨香さん、今日はありがとう。おかげで素敵な一日になりました」
「うん……。ごめんね。凛ちゃんを見守る為に来たのに、我儘を言って怪我までさせちゃった」
「梨香さんのせいじゃありません。それに、凛だって今日はとても楽しんでいましたし」
「ううん。私の方が楽しませてもらったわ。趣味を語り合える一日なんて初めてだもの」
僕だって女子と過ごす休日なんて初めてだった。
凛だけでなく、僕だって梨香さんと過ごせて楽しかったのだ。
「あっ、そうだ。根岸くんに返さなきゃいけないものがあるの」
梨香さんが鞄からお洒落な手提げ袋を取り出す。
そこには僕が貸したハンカチが入っていた。
「なかなか返せなくてごめんなさい。念入りに洗おうとしたら色が落ちちゃって、お詫びに新しいのを用意したんだけど、気に入ってもらえるかな?」
袋の底には新品のハンカチがあった。
四つ折りの状態で梱包され、外箱には高級店を思わせるロゴが入っている。デザインといい品質といい、僕の安物とは雲泥の差だろう。
「僕の為に、わざわざ買ったんですか?」
僕は、拳を握りしめていた。
「これ……、いくらしたんですか?」
「ええっと、少し高かったけど根岸くんに喜んでもらえるなら‘お小遣い’を奮発してもいいかなぁ、なんて……」
はにかみながらハンカチを入れ直す梨香さん。
それを前にして、耳元であの人の声がした。
――ダメよ、遥輝!
――こんなことを使っていいの?
――もっと大切な使い道があるでしょう! と。
そうだ。正しことに使わなきゃ。
こんなことにお小遣いを使うなんて、間違っているはずだ……!
「いや、そんなわけない……!」
「え、根岸くん? どうかした?」
「いえ、なんでもないですよ。ありがとうございます……」
僕は笑った。
これが悪いことのわけがない。
だって、そうだろう。だって。だって……梨香さんが僕にくれたんだ。それが間違っているわけないじゃないか!
――ダメよ遥輝、そんなことにお金を使っちゃ!
背後から実母(はは)の声がすると同時に、背中に燃えるような痛みが走る。
うるさいあんたはもう死んでいるんだ!
もっと好きな人に嬉しいって、ありがとうって言いたいんだ!
だから、邪魔しないでくれ!
「ごめんね根岸くん。もしかして、気に入らなかったかな……?」
「そ、そんなことありませんよ!」
「ごめんね、私、センスなくて。男の子が喜ぶプレゼントとか、わからなくて……」
「違うんです梨香さん……!」
声を落とす彼女を前に、僕は慌てた。
必死に否定するもこんな引きつった顔では信じてもらえないだろう。
「あっ、ママが帰ってきた!」
凛が指差すと黒いSUV(ハリアー)が車庫の前で停まっていた。
僕は歯ぎしりしてしまう。
なんてことだ。
こんなタイミングで帰ってこられるなんて最悪だ。
「お母さんに謝らなきゃ。凛ちゃんに怪我をさせたのは私の責任だもん」
「いいんです梨香さん、あの人とは、会わなくていいんです!」
「なによそれ? 私はそんな無責任なことできな――」
運転席に座る人物を見て、梨香さんは凍りついていた。
当然だろう。まさか学校の外で大嫌いなあの人に会うなんて想像できなかっただろう。
「どうして、ですか?」
車庫から出てきたのはスーツ姿のやつれた顔の女性だった。
「ただいま、凛、遙輝くん。それから……こんにちは、九条会長」
梨香さんの姿をまじまじと見つめるその女性は旭丘高校の理事長、山村真奈美。山村凛の母にして、僕の父の再婚相手だ。
義母は凛の怪我に気付くと下品な笑みを鎮め、僕と梨香さんを交互に見つめた。
「遙輝くん、家に入りなさい。九条さんも来てもらえるかしら?」
その声は、とても冷徹なものだった。
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