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報杉並バオサムティン


 俺は屋台の小銭受けに、丸くなった硬貨をピッタリ置いた。屋台番の老婆はそれをじっくりと検めてから、無言で新聞を一部叩きつけるように台に置いた。毎日のように彼女から新聞を買っているのだが、愛想の悪さは一向に変わらない。以前、ガムを噛みながら、店先に並んだライターを買いもしないのにベタベタと触るアジア人の男にも、彼女は変らぬ態度で接客をしていた。客によって態度を変えないのは、ある意味で商売人の鑑だろう。

 街が眠りから覚めようとしている時間帯で、旧国道は仕事場へ向かう人々の往来で混雑していた。不満げな老婆がやっている屋台にも別の客が近づいて来るのが見えたので、俺はその前を離れた。

新聞を小脇に挟みながら向かったのは、崩れかけたビルの前。ちょうど腰くらいまで残っている壁に腰掛けて、わら半紙よりもさらに質の悪い紙を、破かないように丁寧に開いた。


 左右両面にびっしりと記されているのは、一見すれば漢字に見える表意文字だった。ほとんどの文字が漢字でも使われるパーツで構成されているが、その文字自体が国に認められているものは少ないだろう。なぜならば、そこに並べられた文字は、防蝕壁によって隔絶された旧東京の人々が自分たちの都合で好き勝手に変えていったものだからだ。目の前の文字が、ずっとその形を保っていくという保証は望み薄だった。その時の使い勝手が悪ければ、辺をそがれたり、別の文字と統合されたりするのだろう。新聞の上の文字は、指で擦ればすぐに消えてしまいそうだった。湖上の霧のような文字にはぴったりだろう。

記事の内容を見れば、下地のわら半紙のほうが、ずっと価値があるように思えてくる。まだ持ちこたえている高層集合住宅から見える西側の夕空を見て決められた天気予報は、気候変動が騒がれ始めて久しい今日では通用しない。あとは部隊杉並の日雇労働者募集と、いかがわしい店のいかがわしい宣伝くらいだった。幻覚剤の広告は「寸利制法」を主張していたが、東京特許許可局がない中でその言葉は意味を失っていた。娼館は広告で今晩出勤予定の娼婦の名簿を載せていた。


 スキャンダルを裁く法すらないこの街は一見すれば平和そのものだった。もともと小さな街の日刊新聞だ。些末な記事しか集まらないのは仕方がない。だが、些末な記事にこそ見えない変化を映しやすいものだと、俺は信じている。

 下らない記事ばかりの中で、唯一目を引いたのは蘇明盟が瓦解したという記事だった。それによれば、華幇独立を先導した初期の幹部はほとんどが死んだそうだ。幹部の内、華幇からの襲撃で死んだのは一人だけ、それ以外の七人は全員が病死とのことだった。病死した幹部は油蝕症に罹っていたわけではない、というのは蘇明盟の事情に通じる人物の証言だったが、信用できそうだった。旧東京で油蝕症になれば、復興府がすっ飛んできてすぐにわかる。別の関係者が幹部の死因を「付染性旦白」と推測していたが、言った本人も首をかしげているようだった。

 以降は房中術の秘儀に失敗して腹上死だなんだと、誇張に誇張を重ねて注目を集めようとしていたが、それを除いても十分に注目に値すべき記事だった。ここでの死因は他殺か油蝕症の二つに一つと決まっている。


 俺は畳んだ新聞をズボンの後ろに差して立ち上がった。元来た道を戻っていると、先ほどの老婆がまた別の客に対して、無言で新聞を叩きつけるように渡していた。屋台の上のラジオからは、耳に懐かしいメロディーが流れているような気がした。しかしありあわせの部品を組み合わせて作った電子楽器のチープな音色が奏でる伴奏と、メリハリのある歌声がもとの曲の特徴をほとんど隠して、ハイテンポでノリのいいポンチャックに仕上げていた。

 道行く人々が話す言葉の中には、しばらく聞かないうちに新しい単語が混じっているようだった。ら抜き言葉を指摘する者が不在の中で使い古されていくうちに、彼らの言葉は文字と同様に素早い変化を遂げていく。彼らはニホンゴと呼んでいるようだが、京都で安楽椅子に座っている国語審議会のお歴々が聞けば真っ青になることだろう。


「ちょっと、そこのお兄さん」


 塀の外のアナウンサーのように、非常に流暢な日本語で呼ぶ声がした。道の脇、食事や雑貨を売る屋台が並ぶ中で、易者の男が座っていた。茶人帽をかぶった彼の背後には手の平の絵が無数に並べられた屏風が立てられていた。

彼の前のテーブルでは、一匹の文鳥が止まり木の上でじっと人通りを眺めている。その揃った毛並みの白さは、とても自然的に生まれたものとは思えない端正なものだった。文鳥と同様に色白で、貴族のようななだらかなうりざね顔の占い師の周辺だけが、口々に発されるニホンゴと踊りをあおるようなポンチャックが混じった道路の喧騒から切り離されているようだった。


「どうですか、黙って座ればピタリと当たる、この……」

「俺が困っているように見えるのか?」


 彼が自慢げに手の平で自分の胸を叩いたところで、俺は彼の言葉を遮った。彼はやれやれというふうに肩をすくめた。


「困り果てた人が塀を越えるんですよ」

「だがその鳥頭に頼るほど切羽詰まってはいない」

「純真な分だけ、宣託を受け取りやすいとも考えられます」

「ご宣託を覚えておけるほどの脳が、その文鳥に備わっているとは思えないね」

「そんなことはありません。ここでご覧に入れましょう」


 占い師は試すような顔つきで俺を見た。命令を受けた文鳥が、目を覚ましたかのように体を震わせた。鳥はしばらく目の前の箱を眺めてから、箱に詰まったおみくじの一つをついばんで持ち上げた。そして、まるで俺におみくじを渡すかのように、くちばしを前に突き出して、再び静止した。その様子を見守っていた男が、促すように手を広げた。

 俺は文鳥がくわえているおみくじを二本の指でつまんだ。初めてのことで、どのくらいの力を掛ければいいのかわからず、思わず指先が震えてしまう。文鳥はそんなことも気にせずに、滑らかにくちばしを開いた。

 封をはがして折りたたまれたおみくじの紙を広げた。「中下」と大きく書かれた文字が最初に目に入った。そんなことはどうでもよかった。更に広げていくと待ち人と方位の欄だけ、それぞれ今夜、真西と手書きの文字で記されていた。

 そうだ、と言いながら占い師が両手を打ち合わせた。


「言い忘れていた。凶方位はコーポ榎本ですよ」

「あそこには鍼灸院があるだけじゃないか」

「亡くなった蘇明盟の幹部連中は自らの頭を撃ちぬく三日前に行っていたらしいですよ」


 俺はおみくじの紙から目を離して占い師の方を見た。目が合うと、彼はしたり顔を浮かべた。


「そんなことを言ったら、そいつらは死ぬまで蘇明盟の本部に足しげく通っていただろうし、水も常飲していただろうさ」


 そう言いながら、俺は足早に占い師のところを去った。思わず持ってきたおみくじは、道すがらでポケットに押し込んだ。

 彼が上品で物静かな雰囲気をまとった占い師となるとは夢にも思わず、不覚にも笑いそうになってしまった。俺が戻るのとほとんど同じ時期に旧東京へ移り住んだ彼は当初、漂白した歯がさらに眩しく見えるほど肌を焼き、目をギラつかせていた。若くして札幌近辺でコンサルタントとして成功を収めた彼は、さらなる成功を目論み会社を辞めて旧東京にやってきたのだった。

 しかしその目論見ははずれ、流暢な日本語で横柄な態度をとる彼に街の人々は見向きもしなかった。名目上の公用語は日本語だが、旧東京で流暢な日本語を使う者は周囲から怪しまれてしまう。彼が俺に親しみを覚えたのは、この街で流暢な日本語を喋れる唯一の人間だったからだろう。

 あの頃の彼には、塀の外で成功を収めた名誉白人という、この街では邪魔になるだけの自負があった。それが今では怪しげな術を操る占い師として、街の人々から一定の信頼を得られるまでになっていた。


――娑婆でまともに生きていけないヤツが最後に逃げるところだ。行くだけなら簡単さ。


 そう言ったのは、俺を東京まで運んでくれた、ジェフ・バンクスという男だった。この街は外の社会から切り離されたもう一つの社会だった。だからこそ、外の社会を成り立たせる摂理をまともに守っている者にとっては、旧東京が遥か彼方のように思えるのだろう。

 密航の依頼を二つ返事で引き受けた彼は、戦中に軍隊で知り合った船乗りだった。情報収集艦の航海士だった彼は、終戦とともに退役し、その頃にはカツマ海運の石油タンカーの艦長になっていた。


 ジェフの言った通り、苦労したのは長い船旅の間の退屈だけだった。タンカーが目的地に到着したのは、晴れた夜のことだった。夜空を見上げると、小さな星の微かな瞬きすら見ることができた。

脂を東京湾で食い止める大堤防をよじ登る際、国境警備隊の類に咎められることすらなかった。しかし、堤防の下の脂面には、腸を外に伸ばした若い女が仰向けで浮かんでいた。彼女の濁った瞳の上では、大きな星たちが星座の概形を辛うじて描いていた。まるでメトロポリスに建ち並ぶ摩天楼が、眩い投影広告で星々を消し去ってしまった夜空のようだった。


 旧東京に住む人々が防蝕壁や大堤防を〝テンジンズパス〟と呼んでいるのは、それからすぐのことだった。それが〝小道パス〟を意味していたと知ったのは、東京を出てからのことだった。


 目抜き通りがうら寂しくなったころ、道を一本入るとすぐに「スカヴァティ《極楽》」に着く。まだ塀の内側も法律が支配していた時代、この辺りはターミナル駅にほど近い歓楽街だった。スカヴァティはそのころ連れ込み宿だった。旧東京の古い歓楽街の例に漏れず、突貫工事で造られたビルで構築されていたこの辺りも、今ではビルが崩れた瓦礫で酷い有様だった。目的のホテルだけは当時のまま残っていた。単に運がよかっただけだろう。

 この街で密会が行われるとしたら、この手の建物が指定されることが多かった。建物内の監視網はそのまま警備に流用できるからだ。


 俺はホテルの監視カメラの映像を掠め取って、端末に映し出した。ホテルの電脳保安システムは当然、時代遅れのものだった。四世代あとの同系のシステムは官公庁の末端でも現役だが、世代を経たのは開発元が欠陥や弱点の修正を諦めたからだ。しかし、悪事を企む側は諦めてはいない。むしろ保安システムの修正や改良がなされなくなったからこそ、その欠陥についての研究は進められてきた。今では数えきれないほどのシステムの破り方が見つかっている。

 ホテルには多数のアジア人がいた。入口付近には目立たないように見張りが数人ずつ立っていた。フロント裏の監視室では、三人が監視カメラの映像に目を光らせていた。各階の廊下でも巡回警備が歩き回っていた。


 ベトナム系が多いのは、部隊杉並の縄張りという土地柄を考えてのものだろうか。よれよれの服を着て必死に溶け込もうとしているようだったが、隙や無駄のない身のこなしは訓練されなければなしえない。部屋からはフランス語かフランス訛りの英語しか聞こえてこなかった。

 旧杉並区で字国語ベトナムアルファベットしか使えない者たちがポツポツと現れているという噂を聞いたのは十日ほど前だった。あの占い師と同様に、防蝕壁の外の言葉を正しく使っている人間は、この街では不審がられる。

 ホテルに集まった彼らは、目の前や監視カメラが捉えた景色を見るばかりで、ホテルの管理システムに虚層から侵入されたことに気づいてもいなかった。どうしても昔の住民が残していった機器に頼らざるを得ない関係で、旧東京の電脳周りの規格は戦前のものも多かった。外で最先端の技術に触れた者が、街の人々を不正接続などできない前時代人と思い込むのも無理はないだろう。彼らは同じようにヨーロッパで習った流暢なベトナム語を、鼻を高くして使っていたことだろう。


 状況からして、ほぼ確実に当たりだと見ていいだろう。俺は先ほどのばした男からくすねたジタンに火をつけた。煙草を咥えながら、ポケットをまさぐると、今朝のおみくじの他に、阪本さんの名刺が入っていたことに気が付いた。名刺だけをポケットに戻して、おみくじを広げた。改めて見てみると、ホテル〈スカヴァティ〉を〝真西〟と表現するのは浅はかなユーモアだった。もしここがポタラカや竜宮城であれば、あの男はどう表現しただろうか。考える間もなく、端末の画面に動きがあった。

 入口を映したカメラが、ホテル前に停車した一台のサバーバンを捉えた。薄雲がかかり淡くなった陽光で銀色のエンブレムが光っていた。どうやって走ってきたのかわからないほど幅広の車から、二人の屈強な男が降りた。二人とも漆黒の背広の前を開け放っていたが、全身を覆う筋肉が邪魔なわけではないだろう。警戒するように辺りを見回してから、二人は目配せをした。片方が後部座席のドアを開ける。


 開かれたドアから降りてきたのは、細身の人物だった。脂にまみれた土地にいても、身だしなみに気を遣っているようだった。長い黒髪は艶やかさを保っていたし、濃紺のスーツは商談の場においてふさわしいだけでなく、自身の髪の色と相性のいい絶妙な色合いを選んだようだった。旧東京に紛れるために、わざと貧相な服装を選んでいた人々の中にあって、それは一段と目立っていた。

 はっきりとした目鼻立ちがラテン系のルーツを物語っていた。彼女こそ、俺をここまで追いやり、俺がここまで追いかけてきた、その人だった。

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