エピローグ

1

 鼻の先を掠めるほどすぐそばに、肥えた尻が揺れている。暗くて急な階段を、先生はおぼつかない足取りで昇っていた。何かあってはことなので、僕は先生のすぐ後ろをついていた。しかし、きつい階段を他人のペースに合わせて昇らされるのは、さらにきついものがある。


「なんでこのビルはエレベーターがねえんだよ」


 江戸の訛りの残り香も感じる、ぶっきらぼうな口調で先生が言った。僕は切れ切れの息で、曖昧に返事をすることしかできなかった。


「今日は晴れるんじゃねえのかよ、膝が痛くてしょうがないよ」


 先生はそのままの調子で続けた。彼が僕の返事を聞いているかは怪しかった。階段で歩調は明らかに鈍っているが、先生の口から文句が湧き出てくる勢いは高まっているようだった。

 三階まで上ると、薄暗い廊下に一つの扉があった。汚れでさらに濁ったような曇りガラスに「阪本総合調査社」の文字が浮かんでいた。ドアノブには〝OPEN〟のプレートが掛かっていた。木の板を素人が彫ったような代物で、その歪んだ文字や柔らかい彩色は興信所よりも定年退職をした老夫婦が営むペンションで輝きそうだった。


「ここだ、ここだ」


 と言う先生の声が、寂しい廊下に響いた。

 僕はノックをしてから、返事を待たずに扉を開けた。廊下よりも寂しげな事務所にテレビだけが稼働していた。テレビの前のソファに寝そべっていた女は、比較的小柄で事務所の主にしては若い方だった。一目で事務所の主だとわかったのは、彼女の子供っぽい顔立ちに反して、そのいでたちに不思議な貫録を感じたからだ。

 その女は阪本紅未、虚層での不正操作を中心にやましい悩み事を解決してくれる、フリーランスの便利屋だった。


「あら先生、お久しぶり」


 僕たちに気づいた女は、まるで近所の知り合いかのように先生に挨拶した。彼女は三つともデザインが違う資料棚の並んだ事務所に僕らを入れ、とうにブームが過ぎたジャズとペットボトルから移した緑茶で迎え入れた。


「それで、くすのきの党の花崎先生がウチに何の用ですか?」


 女は挨拶もそこそこに、組んだ足に両手を乗せて尋ねた。いやね、と言いながら先生が右手を僕に向けて開閉させた。僕は鞄の中の封筒を、先生に差し出した。


「こいつを捕まえてほしくてさあ」


 先生が向かいに座る女に向かって封筒を放り投げた。彼女は平然と封筒を受け取り、中から三つ折りになった紙を取り出した。そこに書いてある内容を見た女は、驚いたように目を丸くした。


「こんなにわかっているなら、警察では駄目なんですか?」

「だから俺がここに来ているんだよ」


 先生は、内容をわきまえることなく、いつも通りのダミ声を響かせた。しかし、先生はそれ以上口に出さなかった。その様子を察した彼女は、訳知り顔でゆっくりと頷いた。

 先の内閣で経保相を務めていた先生は、一昨年の総選挙で下野した今でも政財両界を繋ぐパイプ役として屈指の太さを誇っている。むしろ野党議員としてのほうが、財界からの要望を政治に反映させるには適当なようにも見えていた。


「確かに、機密を横流しして利益を得ようなんて、彼女は悪いヤツです。でも、一つ気になることがあるんですよ」


 そう言いながら彼女は先生の顔を覗き込んだ。先生はそんな無礼を気にすることなく、質問に興味を示して眉を上げた。


「どうして彼女を捕まえる必要があるんです?それも秘密裡に私立探偵を雇ってまで」

「どういうことだね?」

「いやね、彼女はご親切に国内企業に米欧の軍事機密を売ってくれているんでしょう。それは十二分なまでの企業の優遇政策を推進するあなた方と利害が一致するはずですよね」

「君はこの女を勘違いしているよ。言うなれば、彼女は情報の行商人だ。それに――」


 先生は体を乗り出して、声を落とした。


「――そろそろ在庫が切れるようなんだよ」


 それを聞いて理解したのか、彼女は苦笑いを浮かべて、もう一度資料に目を落とした。

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