15

体が投げ出されたような感覚。

 何も見えなかった。それどころか、聞こえもしなければ、座っていた椅子の感覚もない。俺の思考だけが虚空に在るような気分だった。気持ち悪いが、船酔いできるような平衡感覚もなかった。

まるで魂の浮遊。

 ふと頭に浮かんだ言葉だが、当たらずも遠からじと言ったところだろう。今の瞬間、俺の生身の感覚は遮断されている。代わりに脳に送られているのは、生電端子から送られてくる電子の信号だ。しかし、現実の感覚の遮断の方が速く、何も感じない瞬間が生じていた。


 突然、俺は地面に叩きつけられた。だが体は直立していた。周りは明るかった。ある程度の触覚もあった。

 気がつけば俺は道路の群衆に相対していた。自分の胴を見下ろす。警察の制服を着ていた。両脇には同じような格好をしたパトマトンが、雑踏警備に勤しんでいた。

目の前を小柄な人影が通り過ぎる。スーツを着た社長が、あとは頼むといった風に、片手を挙げて去っていく。その手には葉書大の電紙が握られていた。明け方に買ったCDから出力した三次元時空コードだろう。俺は事務所にいながら生電接続によって、ミライト医工神戸本社ビルの雑踏警備をするパトマトンに《憑依》したのだ。

 一方で生身の体の感覚も多少はあった。先ほど、虚層に潜る前に口にした山椒の刺激がまだ残っていた。それは社長から渡されたもので、外箱のパッケージは明け方の漢方薬屋で見たものだった。中身は大きめの砂粒ほどの丸薬だった。


「邪念を捨てて、かつ誰にも悟られずに企みごとを果たすために。不正接続をする前の験担ぎみたいなものよ。飲みたければ飲みなさい」


 そう言って社長は丸薬を三粒口に含んだ。俺も彼女に倣って三粒、口に放り込んだ。タブレットのようなものだろうと、思いっきり噛み砕くと、口の中にピリリとした辛さが広がった。水を飲んだが未だに痛かった。後から社長に、普通は味わわずに飲み下すものだと教えられた。

 パトマトンの目の前の群衆は、大企業の家宅捜索という異例の事態を嗅ぎつけてやって来た記者だろう。カメラや録音機をもってこちらに迫っていた。彼らの視線はパトマトンのさらに後ろに向けられていた。


「警務局が手配していた人物が、ミライト医工に出入りしていたという通報を受けて今に至ります。ミライト側が手配の事実を認知していたかどうかは、現在の所不明です……」


 背後から、事務的に言う声が聞こえた。声を張り上げることは慣れているのか、ひっきりなしに質問を浴びせる記者たちの前でも、その声はよく通っていた。

 そのさらに後ろには、首を直角に曲げても視界に収まりきらない高層ビルがそびえていた。くすみのない外壁を見る限り、まだ新しいビルのようだが、平面的で威圧的なデザインには、古さを感じた。そのビルに向かって、軍服とも警察の制服ともつかない服を着た役人たちがぞろぞろと入っていた。警務局によるミライトの捜索の現場だ。

 俺は右手に記憶に新しい感触があることに気づいた。見れば、そこには木製に見える小さな仏像が握られていた。

 パトマトンは、緊急時に上からの支持を扇ぐのではなく、状況に応じた自立的な行動をとって、国民の安全を守ることが求められる。そのため、各機には警察の情報庫に対する巡査級の閲覧権限が付与されている。俺はその権限を使って、現在の家宅捜索の状況を確認した。


 俺の頭が、情報の氾濫に震えた。生電端子に、乗り移ったパトマトンの眼前に広がる景色と、捜索の状況が別々の景色として送られてきた。生身では味わえない感覚に、思わず気分を悪くした。

急ぎ事務所の端末を操作して、パトマトンの閲覧する虚層の情報を、眼前の景色に重ねて見せるようにする。現実の景色が見えにくいものの、どうにか生身の頭で理解できるようになった。

 俺の目的は、ミライトの管理システムにニセの死亡診断書を見せて、システム上で佐伯の架空の妹が死亡した事実をでっち上げることだ。

 俺は指令が下ったようなふりをして、その場を離れた。記者や野次馬を現場に立ち入らせないことだけを考えているパトマトンはおろか、周辺の警務局の人間も俺を気にしていなかった。振り返るとパトマトンの列では、すでに別のパトマトンが俺の抜けたところを埋めていた。俺はそのままミライトのビルに入り込んだ。

 キビキビとした足取りでエントランスを進む警務局員に混じって、俺も先へ進む。ビルのセキュリティゲートはすべて口を開けていた。広いエントランスでは、捜索に向かう局員が揃えて立てる足音だけが響いていた。


 受付のバイオマトンは機能を停止し、高い背広を着た社員たちは、局員に監視され、深刻な表情を浮かべてうなだれることしか許されていなかった。その中で、一人の女性社員だけが特異な雰囲気の中にいた。小柄で少しふくよかな彼女は、柔和で人当たりの良い印象を受けた。メディアで見てくれを売る人々のような美貌は持ち合わせていないが、その人柄によって社員からの人気も高いことだろう。

 その女性が目立っていたのは、安泰と思われていた自信の会社が突然の家宅捜索を受けたこの状況であったさえ、その人柄の良さを表に見せていたことである。目を他の社員に移せば、悲しみに暮れていたり、奥歯を噛みしめていたりと、誰もが一様にこの状況を歓迎していないのがわかる。その中で唯一彼女だけが、そんな様子をおくびにも出さず、平気な様子を保っていたのだ。体は震えておらず、目が泳いでいるわけでもない。やせ我慢ではなく、本当に平気なのだろう。

 平穏な雰囲気でむしろ目立つ彼女を横目に、俺は階段へ向かった。だがこの状況での彼女はむしろ不穏にも見え、俺の心に引っかかった。


 まっすぐ階段の方へ足を進めながら、視界の端に寄せた警察の捜査状況に目を移した。捜索はミライト警備の入る一階と、人事部の入る二十四階で行われていた。五分前に、本社ビル内に残っていた社員をエントランスに集め終えたという報告が上がっている。更にその五分前には、ビル内の扉を全て開錠させたことが報告されていた。

忌引きの申請は社内のどの電脳でもできるということだ。適当なオフィスに入って、電脳を操作すればいい。だが、USB端子のある装置はどこにでもあるわけではない。

 局員はエレベーターで移動するため、階段は静寂の音がする。俺は誰もいない階段を、脇目を振らずに駆け上がった。苦痛の感覚は遮断してあるため、速いペースを保って段を踏み上がり続けられる。

 このビルの地上に近いフロアは、来客用の応接室や会議室が占有していた。普通のオフィスが入るのは五階から上だった。

 五階で廊下に出て、一番近くにあった部屋に入る。窓際に据えられた広いデスクに見渡された空間にいくつものデスクが整列していた。窓際のデスクの上には、墨痕鮮やかに書かれた標語が額縁に収められていた。この光景に見覚えがあるのは、よくある日本のオフィスだからだろう。


 部屋に並ぶデスクの上には、書類やペン、カレンダーとともに電脳装置が置かれていた。しかし、このオフィスにある装置にはこの時代らしくUSB端子がない。しかし、職種によってはUSB端子が世界を席巻していた時代のデータを扱うことも珍しくはない。このオフィスにUSB変換器があってもおかしくはなかった。

 俺は並べられたデスクの間を通って、その上を見ていく。変換器らしいものを置いているデスクはなかなか見つからなかった。


 突然、部屋にラッパの音色が流れ始めた。驚いてオフィスを回る足を止める。音が聞こえてくる方に目をやると、梁に設置されたスピーカーが見えた。隣に掛けられた時計は九時ちょうどを指していた。

 一度、威勢のいいラッパが鳴りやむと、一定のリズムを刻む太鼓に合わせて、バスの男声の歌声が始まった。重厚な歌声は、テンポはゆっくりだが、穏やかではない、むしろ士気が鼓舞されるような勇ましい音色を奏でていた。世界中の人々が平等に平穏な生活を送るために、どれだけミライト医工が寄与しているかを誇るような内容の歌詞だった。

無人のフロアを伝わって、同様の旋律が少し遅れて微かに聞こえてくる。フロア全体、もしくはビル全体のスピーカーから流れているのだろう。

 無関係な俺でさえ、この歌を聞いていると急かされるような気になる。止めていた足を再び動かして、デスクを見て回った。だが、すべてのデスクを見ても、この部屋には変換器がないようだった。


 俺は廊下に出た。スピーカーはまだ歌を流し続けていた。四方から壁を越えて聞こえてくる歌は、俺の耳に届く頃には、音色がくぐもって、余計に勇ましく聞こえた。俺はその歌を聴きながら、廊下を進む羽目になった。

 廊下にはミライトのポスターが貼ってあった。若い女性タレントが握った片手で、もう一方の手の平を軽く打ちながら、頭の上に灯った電球が食事を囲む若い夫婦と二人の子供の団欒を照らしているというデザインのものだった。

 同じポスターが廊下に並べて貼られていた。いくら進んでも一定間隔で並ぶポスターという光景に変化はなかった。


 未来を照らす明かりを灯す

 笑顔を守るこの仕事

 ああ、ミライト、ミライト医工


 サビに入り、同じ歌詞が幾度も繰り返されていた。単純なメロディーを奏でるラッパの音は、無視しようとしても耳に入り込んでくる。慣れない人形に《憑依》した疲れが出てきたのだろうかと思った。

 しばらくして、廊下に別の扉を見つけた。振り返って見ると、先ほどいたオフィスからそこまで遠いわけではなかった。扉を開けると、また似たようなオフィスが広がっていた。一番近くのデスクには、書類の他にいくつもの恐竜の人形が整然と並べられていた。

 再びオフィス中のデスクを見て回る。三列目の真ん中で、俺は目的の物を見つけた。大きく息を吐いて、呼吸を止めていたことに気づく。いつの間にかスピーカーも静まっていた。


 電脳の電源をつけて、その間に小さな仏像の頭部を外す。露わになったUSB端子を、変換器の口に挿し込む。

 目の前の電脳はミライトのシステムにログインしていない。システム上の行動に制限は課せられていたが、この電脳はシステムに接続はしていた。ログインフォームはシステムに狭い口を開いている。そこにパスワードを装って、ニセの死亡診断書を貼り付けた。

 システムが入力されたパスワードを検めて、誤りを見つけて跳ね返す。「正しいパスワードを入力してください」という文字が表示された。しかし、システムと接触した死亡診断書は、そのまま俺の命令通りの場所を目指して移動を始めていた。

 これで俺の任務は終わりだ。事務所の端末から、社長にその旨のメッセージを送った。


『藍上夏貴、陶山直実の容疑者二名は逃走の証言あり』


 眼の端に、警察の報告が追加される。無視しようとしたが、報告にある文字列に反射的に目を奪われた。「藍上夏貴」と「陶山直実」。記憶にある名前だった。この国に来る前の記憶だが、忘れることはありえない。「ΑΩ」という呼び名が使われることが多かったこの二人は、俺の家族を、妻と息子を殺したのだ。

 俺は、《憑依》したパトマトンの権限で、警察の情報庫へ接続した。雑踏警備のために駆り出された県警の間で、ΑΩの逃走の情報が共有されるということは、県警も二人を追っているはずだ。


 予想は当たっていた。昨日起きたばかりの事件でΑΩが関わっていた。旧市街のクラブで起きた銃殺事件だ。現場で記録された二人の顔は随分と変わっていた。頭ごと取り替えたのかもしれない。だがその手法、片方が拳銃で攻撃をして、もう片方が攻撃をかわすという分担は当時と変わっていなかった。

 二人の腕は本物だ。ミライトにとっては、商品開発に比肩するほどの競争の切り札となりえる。一度、家宅捜索を受けて、株価が暴落しようと、簡単にΑΩを手放すとは考えにくかった。とすれば、逃走は偽りで、本当はミライトが匿っているのではないか。

 いったん情報庫から離れ、現在の状況を確かめる。


新たな情報が追加されていた。ミライトから提出された監視カメラ映像。そこには、廊下でミライト警備の警備員を射殺したのち、窓を突き破って逃走するΑΩが映っていた。備考には映像に加工された痕跡は見受けられないこと、この映像の前にミライトの本部長級社員一人と、警備員二人を射殺していると記載されている。

 ミライトはバイテク企業だ。警察の目を欺けるほどの映像加工技術を有するとは思えない。それにもし警察に逃走したと信じこませるなら、こんな小手先のトリックを使うはずはない。つまりΑΩは本当に逃走したのだろう。

 二人が今日まで自由の身だったのは、大企業に守られていたからだろう。ミライトから逃走した今、ΑΩを守るのはΑΩの二人しかいない。

 そんな危険を冒して、ΑΩは何のためにミライトから脱走したのだろうか。

ふと我に返り、新しい報告に気づく。五階に設置された端末が、ミライトの社内のシステムに接続したとのこと。なぜここをすぐに離れなかったのか。俺は唇を噛みしめた。


 突然、ドアが乱暴に開けられる。振り向くと、ドアの前で一人が拳銃をこちらに向けていた。渠はドアよりも大柄で、相当な筋肉をつけているのか、肩幅もあった。警務局の制服ではなく背広を着ていた。そして銃を構えているところを見ると、警察の人間だろう。

 その顔を見て、警部補の阪本遼だと知る。顔も名前も記憶にない。このパトマトンに記憶されている顔なのだろう。

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