12

 ケイトと別れてから、旧市街の事務所までの道を、千鳥足で歩く酔っぱらいを避けながら歩いていた。

地下鉄は深夜も走っている。タクシーに乗る金に困っているわけではない。事実、空車を掲げたタクシーとは幾度もすれ違った。仕事に戻るなら、ゆっくりしている時間はないこともわかっていた。

酒はいい塩梅に残っていた。心配事は霧散したが、考え事は頭に留めておける。だが、いくら考えても、社長への謝罪の言葉はまとまらなかった。

そもそも、俺が独りで夜の街を歩けているのは、社長が拾ってくれたからだ。彼女がいなければ今頃、死体が形を留めていたかもわからない。それに、今夜の仕事も俺がわざわざ危険を冒して遂行するようなものではなかった。諦めても、せいぜい売り上げが減るだけだ。


 老いぼれ、というケイトの言葉がこだまする。

 突然、周りが明るくなった。俺はコンビニの前を歩いていることに気が付いた。ネオンが光を放ち続けていても、コンビニの白い灯りは、夜の街に存在感があった。

事務所はもうすぐそこだった。まだ、どう謝ればいいのか、わかりかねていた。足は自然とコンビニに向かっていた。

客は誰もいなかった。レジにはバイオマトンが一体立っているだけだった。ホットスナックは売り切れていたが、油の匂いは残っていた。


「安房国、偽名……」「千葉県、ラジオネームな。もう廃藩置県されてるから。あと偽名は昔の呼び方ともちょっと違うから」


 誰に聞かせるでもなく、店内のスピーカーからはラジオが流れていた。

 棚から缶コーヒーを取り出して、レジに向かう。距離センサが俺を探知したのか、レジのバイオマトンが目を覚ます。ご丁寧に、「クールビズで失礼します」のポスターが中空に投影されていた。

 レジに缶を置き、袖をまくって手首を出す。何かの触感が足りない気がして手首を見ると、マルチクロノが嵌っていなかった。心臓が少しだけ跳び上がる。バーではケイトに払ってもらったから気が付かなかったが、マルチクロノをどこかに置いてきたらしい。

 肘から下を、もう片方の手で探ってみるが、袖の布地が直接肌に触れるだけだった。心臓はそのまま早鐘を叩き始める。

 震える手でポケットを探るが、いつかのお釣りでもらった十円玉以下の小銭が一つかみ。祈りながら、小銭をそのままバイオマトンに手渡す。


「四十二円、足りません」


 バイオマトンは穏やかな声で、平坦に言った。


「細かいことを言うとね、場所的に下総国なんだけど、下総国って完全に千葉県ではないんだよね。茨城とかも入るし。安房国は完全に千葉だから仕方なく」


 ラジオでは、まだメールの本題に入っていなかった。

 俺は藁をもつかむ思いで、もう一度ポケットの中身を確かめた。紙の手触りがしたと思ったら、社長の名刺だった。

ジャケットの裏ポケットに手を突っ込んでいるところに、別の客がレジに詰め寄る。怒鳴られると思い身構えると、その客は何も言わず、店員に小銭を渡した。


「今度は間に合ったわね」


 聞き覚えのある女性の声。客の顔を見ると、それは社長の阪本さんだった。俺は口を開きかけ、言葉に詰まる。


「ちょうどいただきましたので、商品とレシートです」


店員は空気も読まず、俺たちの方に差し出してくる。


「ありがとうございます」


店員にとも、社長にともとれるような言葉。目は空のホットスナック用ショーケースを向いていた。酒が残った頭でも、これではないとはっきりわかった。

社長は軽く頷くと、踵を返して出口に向かった。彼女はドアの前で立ち止まると、大きく息を吐いた。漏れ出た笑い声か、小さなため息か、俺には聞き分けられなかった。


「事前に辞表を出すのも、一つの辞め方よ」


前を向いたままそう言うと、社長は店から出た。ドア横のセンサが反応して、電子音のチャイムが店内に響く。駐車場には、福井ナンバーのレンタカーが停まっていた。

俺は缶コーヒーを受け取って、店を出る。社長は運転席に座ったまま、エンジンもかけていなかった。俺はその車の助手席に乗り込む。


「マナーは自分に都合の良いものを選びなさい」


 ハンドルを握り、前を向いたまま社長は言う。


「これが〝常識〟ですよ」

「じゃあ、会社のために働いてもらうわよ」


彼女は俺の方を向いた。彼女の顔には、安堵の色が薄く浮かんでいた。そして彼女は黙って車を発進させた。行き先は尋ねなかった。まさか彼女に殺されるわけではない。

夜の街を走るレンタカーの社内は、静寂で満たされていた。


「さっきとは矛盾するようだけど、私があなたを雇ったのは、事務所を経営するうえで、あなたの軍隊で培ってきた考え方がほしかったからなの」


 走る車内で彼女はふいに口を開いた。。車は俺が先ほど歩いた道を逆に辿っていた。結局、考えもまとまらなかったのだから、あの時間は無駄でしかなかった。


「私はずっと企業に属していた。二年前まではヴィスダグループの社員だったのよ。高校も企業が技術系社員を育成するために運営しているところだった。大戦中、書類上は軍の電脳戦部隊に所属していたけど、事実上それも企業の私兵だったわ。だから企業流の考え方、企業流の物の見方が私の身に沁みついちゃっているの。自慢じゃないけど、サラリーマンとして安泰な出世街道を進むにはそれでよかったわ。だけどこうやって一本独鈷でやっていくには、それだけじゃ心もとないことに気づいた。だから私はあなたを社員に引き入れたの」


 口を開こうとしたが、何と返せばいいかわからなかった。

 社長の期待通りの人材である自信は、俺にはなかった。車はそのまま道を走って行く。蝶の都が放つ光線は、白んだ空の前でも薄れることなく空を貫いていた。

 車内には再び沈黙が訪れる。

 駅の近くに車を停める。降車して、駅前の飲み屋街から一本入った人気のない通りを歩いていく。明け方、一晩中飲み歩いたサラリーマンは、始発を待って居酒屋に留まっている。どこかから、ギターの弾き語りが聞こえていた。

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