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 パトカーを現場からすぐ近くの雑居ビル「ナカヤマビルディング」まで走らせる。深夜ではあったが、まだ事務所に留まっているような気がした。どうせすぐ近くだ。勘が外れてから電話をしても遅くはない。

 ビルの三階の部屋はまだ明かりがついていた。幅の狭い階段を、体を斜めにして上る。阪本総合調査事務所の扉の向こうからは、蛍光灯とジャズのメロディー、そして女性二人の建前だけの談笑のような喋り声が漏れていた。


「最近、物忘れが多くて」「そういう時に便利なのが、マグネティックメモライザーなんです」


 事務所のなかのテレビでは、生電記憶装置の宣伝をしていた。姉はソファに肘をついて寝転がりながら、画面に目を向けていた。だが、彼女はテレビの一点を見つめ続けているだけだった。

 小さいながらも事務所の経営者としての自覚があるのか、小さい頃は片付けが部屋だった姉にしては、整理整頓された事務所だった。だが部屋は見ないうちに、様子が変わっていた。デスクが一脚増えていたのだ。


「あら、誰かと思ったら」


 首だけをこちらに曲げて、私を見上げた。事件現場から逃走した夜に、悠々とくつろいでいる姿を見て、私は呆れてしまった。


「なに呑気なこと言ってるの」


 彼女は起き上がって、テレビを消す。私は勝手に姉の向かいのソファに座った。


「この二人のことでしょ」


 テーブルの上を周回する、投影された写真をつまんで私の方に寄せた。彼女が私に見せた写真には、いかにもチンピラと言った人相の二人が映っていた。姉は自慢げに私を見ていた。


「ご名答。二人の、経保法がカバーできない範囲のネタ、何かない?」

「あるけど――」


 姉はテーブルに乗り出して、私の顔を覗き込んだ。吟味するような視線が顔中を走る。


「――タダでは渡せないよ。私もビジネスパーソンだからね」


 こういう話の場合、兄弟のよしみが彼女に通じないことを忘れていた。無条件でもらえると思い、意気揚々と現場を離れたのが恥ずかしかった。


「わかってるよ。そっちは何が欲しいの?」

「アンタとしては、今回の事件に関してミライトを捜査する口実が欲しいわけでしょ」


 私は頷く。それを見て、姉は大きな獲物を前にした獣のような、鋭い笑みを浮かべた。


「つまり、県警はミライトの社屋に踏み込むわけだ」

「お姉ちゃんのくれる情報次第ではね」

「今日は何もいらないわ。だけど、ミライトの社屋を家宅捜索する日時と連れて行くパトマトンの品番を事前に私に教えて」


 姉は私の目をまっすぐ見つめた。先ほどまでの油断しきったものとも、狡猾なものとも違う、真剣な仕事人のものだった。


「何をするつもりなの?」

「それは言えない」


 姉は私から目を逸らし、ソファに倒れ込む。フッと短い笑い声を漏らす。今度は私がテーブルに身を乗り出して、姉を睨む。


「捜査の邪魔はさせない」

「じゃあ、一体余分に持っていきなさいよ」

「身内のためにそんなことはできない」

「民間人のお姉ちゃんに頼ってるのは、誰なのよ」


 私はソファに戻り、腰を下ろした。しばらく腕を組み、唇をかみしめた。姉の提案は、可能だった。だがそれで、捜査を進めたとして、正義に値するのだろうか。


「自分が損をしないで、目的を果たそうなんて都合のいい話、現実にあるわけないじゃない。あなたが少し手を汚して捜査に踏み込まなければ、殺人犯は野に放たれたままなのよ。でも私にちょっと協力してくれれば、ミライトの家宅捜索はできるし、殺人犯の逮捕に一歩近づく。さらにいま驕り高ぶっている大企業の締め付けまで期待できるわ。たった一個石を失うだけで、どれだけ肥えた鳥が落ちてくるのかしらね」


 姉は腰を曲げて、膝に腕を乗せた姿勢で言った。その言葉は、私をなだめるように、穏やかで優しい声だった。

 もし駄目でも、私が警察をやめればいい話だ。信念を貫く意志のある部下は育っているだろう。

私が口を開こうとした瞬間、姉は立ち上がった。


「よし、決まりね」


 そう言いながら、棚から一冊のファイルを持ってきた。


「二人は藍上夏貴と陶山直実――」


 姉がファイルを私に渡しながら続ける。一頁目には、二人の正面からの顔写真が載っていた。


「――その筋では阿吽とかΑΩとかAtoZとかいうあだ名がつくくらいには有名なコンビよ。今は企業傭兵だけど、前の戦争では白兵戦でブイブイ言わせてたとか何とか」

「どっちが坊主でどっちがオールバックなの?」

「そんなの関係ないわよ」

「知らないの?」

「知らない。阿吽の二人はしょっちゅう姿を変えてるし。いつも二人で過ごしてるからどっちがどっちでも変わらないわよ」

「まさかネタはこれだけじゃないよね」

「まさか。今回の事件は、場所も手法も企業抗争としては異例中の異例よ。恐らくミライトの方も、殺害までは命令していない。あの二人は狂犬なのよ。それは戦争の時からわからなかった。二人とも腕は確かだったから、色々な任務を与えられていたけど、ほとんどの現場でやりすぎていたのよ」

「戦争犯罪人なの?」

「そう。だから軍は二人を追っているんだけど、企業が匿っているから今日まで逃げおおせることができたのよ」


 ミライト医工を家宅捜索するには十分すぎるネタだった。これならば経保も手出しはできないに違いない。


「このファイル、借りていいかな?」

「構わないけど、荷物になるだけよ。軍に行って、阿吽の二人が居ましたって言えば一発よ」


 私は言われるまま、デスクにファイルを置いた。彼女はもう、寝転んでテレビを観ていた。用事は済んだ。戻ってやることはたくさんあった。

 私は立ち上がって、姉に礼を言う。帰ろうとして、忘れていた二脚目のデスクが目に入る。


「事務員、雇ったんだ。結構繁盛してるんだね」

「事務員じゃないのよ、ジムよ。J、I、M。まあ、繁盛しているのは本当だけどね」

「でも、よく人を雇う気になったね」

「『社長』という響きの甘美さといったらないのよ。それはもう他の苦労をスッキリ忘れさせてくれるほどよ」


 まるでスイーツの感想を言うような口ぶりだった。姉も大人になったと思っていたが、無邪気なところは変わっていないようだった。

 ビルを出るころには、空は白んでいた。私はパトカーを署に向けて走らせた。

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