10

 鮮やかな緑色の下地に、真っ赤なストライプが入った、悪趣味な色彩のコートを着たご婦人は暗い店内なのにもかかわらず、巨大なサングラスを掛けていた。真緑のルージュはゾンビを想起させて気味が悪かった。肉の折り重なった女の身体は、重力にのみ隷従した肉体のように思えた。


「うちのマリーちゃんと同じ景色が見たかったの」


 緑唇の女が、フランス訛りの英語でそう言うと、サングラスに手を掛けた。俺は思わず顔をそむける。


「いい選択でしたね」


 彼女に付き合っていたスーツの若い男は、震えた声で言った。横目で見ると、彼の顔には判で押したような笑顔が貼り付いていた。少女の血液専門のセールスマンも、さすがに受容の埒外だったらしく、女の見ていない隙にウイスキーのストレートをあおっていた。

 海沿いに店を構える、下品なバーだった。店は店員も含めて外国人ばかり。下品に飲みたい日本人は、ここで注文できるほど英語はうまくないし、英語ができる日本人はもっとマシな飲み屋に行く。


「こんなところで会うとは思わなかったわ、ピノック」


 喧騒に混じって、声が近づいて来る。声の主はほんのり酔っているようだった。


「久しぶりね。隣、空いてる?」


 声の主は俺の隣に座った。振り向くと、そこには古い友人が座っていた。拳銃に添えていた右手を、自然なそぶりで戻す。


「ケイトじゃないか、分裂以来か?」


 そう言って、ケイトの分のギムレットを頼む。彼女は今では外国人だが、生まれ故郷は同じだ。


「そうね。話は聞いているわ。ご家族のこと、何て言ったらいいか……」

「気にしないでくれ」


 まだ俺はそう言うしかなかった。


「脱獄したとは聞いていたから、てっきり旧東京にいるものかと。まさか合法的に会えるなんて信じられないわ」

「君こそ、こんなところで何をしているんだい?」

「貿易会社の通訳よ」


 彼女は何か続けたが、テレビの前の一群の雄叫びでかき消された。テレビでは戦争犯罪者同士のコロッセオをやっていた。大概の場合、有機的か無機的な改造を施して、身体を兵器のようにしていた。見ている者はどこかしらに、昔あった国や今ある国のシンボルを彫っていた。テレビで負けた側の党章の刺青を首筋に入れた一団は、別の一団に今にも飛び掛かりそうだった。


「それで、ジム、あなたは何を?」

「探偵の助手、だったかな」

「『だった』?今は違うの?」

「ああ、ちょうど飛び出してきたところさ。方針の違いでね」

「どこで働いていたの?関興、仁科?」

「そんな大きい所じゃないさ」

「じゃあ阪本?」

「よく知っているね」

「あそこは有名だもの」


 彼女はギムレットを一口飲んでから続けた。


「もともとあそこの社長はどっかの電脳企業に雇われていたの。業務は企業抗争の電脳戦、裏の花形ね。だけど二年くらい前に自分で辞めて、縁もゆかりもないこの街に単身乗り込んで、事務所を始めたの。それが今では、沢山の従業員を抱え込んだ大手とも肩を並べる電脳調査会社の社長だもの。相当な女傑よ。ジム、知らなかったの?」

「ああ。この前までずっと旧東京にいたし、それに彼女もいきなり俺を雇ったからね」


 私の勘は当たってたのね、と彼女は嬉しそうにギムレットに口をつける。


「でもあの人はどうして会社を辞めたんだ?」

「さあ、それは誰も知らないわ。円満退社であれ、揉めて辞めたのであれ、彼女が優秀だということは間違いないわ。大企業で電脳戦をして、辞めた後も一本独鈷ながら電脳探偵として名を上げている女傑よ。彼女はこの社会でハッカーとして生きる方法に長けている。何があったのか詳しくは知らないけど、たぶん彼女の方に分があるんじゃないの」

「君までそう言うのか」


 酔って少し頭を冷やした今、あまり腹は立たなかった。むしろ、ケイトの言う通りのような気もしていた。


「時々思うのだけど、私たちはもう老いぼれじゃないかしら。歳や肉体じゃないの、考え方が戦前から変わっていなくて、今の時代のこの社会に向いていないと思うのよ。先の大戦で勝ったのはどちらかの陣営ではなくて、企業なのよ。ずっと政府の下で働いてきた私たちは、まずこの現実を受け入れていないのよ」


 ケイトは自嘲気味に笑った。彼女はカウンターを背もたれにして、テレビの方を向いた。片方の選手が惨たらしい姿になっていた。勝負はついたようなものだったが、意外にもまだ試合は続いていた。

 どちらかの選手の側に立って応援している客は、寄せ集めた服を着ていた。どこかの企業に属している者はいないようだった。別にこの国でガイジンが働きにくいというわけではない。ケイトのように通訳として働くことも、外国企業の日本支社で働くこともできる。日本人と直接かかわらなければ、日本語だってマストではない。だが彼らがどこかの企業に雇われないのは、まだ自身が国や党に仕えているという意識があるからだろう。

 優勢な方についた客が、相手を口汚く罵った。たった一言だったが、それを発端にテレビの前では殴り合いが始まっていた。もう乱闘の音しか聞こえなかった。


「店を変えようか?」


 俺はケイトの耳元で提案する。彼女は何か言って首を横に振った。彼女はまだテレビの方を見ていた。

 俺は彼女の目が懐かしんでいるようなことに気が付いた。彼女はテレビではなく、テレビの前の彼らを見ているようだった。

 ケイトは思い出したように、急に口を開いた。


「あの時はいいパパだったのに、変ったわね。まるで――」


 一度、思案するように目を横に向けてから続けた。


「――ハードボイルド」

「皆目見当違いだ。俺はそこまで強くない」

「まだ二人のこと……」


 酒場の喧騒で聞こえなかったふりをして、俺はテレビを見つめた。だが沈黙はむしろ肯定の返事と同じだった。


「たらればで変わるようなことじゃないわ」

「運命論者かい?」

「ちょっと違うわ。計算高いし、一度で諦めるような相手じゃなかったわ。決断したらそれを運命にしてしまうような人だったのよ。できたとしたら、繰り下げることくらいよ」

「週末に釣りへ行こうと約束していたんだ」


 沈黙に気づいて隣を見ると、彼女は空のグラスに目を落としていた。

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