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「何があったんですか」


 事務所に入って開口一番、私は尋ねた。階段を駆け上ったせいで、息は切れていた。応接スペースは即席の作戦指令室と化していた。テーブルの上では、佐伯の資料やミライトの通信網、そのほか任務に関連した資料が投影されて、回っていた。社長はそれをソファに座って難しそうな顔で眺めている。

 プレイヤーがつけられて、仮想のジャズメンはセッションを奏でていた。その音色は窓をビリビリと震わすほどだったが、彼女は無視していた。


「運の悪いことに、別のミライト社員も今日、転職するつもりだったみたい」

「だからって何の佐伯の移送に何の問題が?」

「もっと運の悪いことに、転職寸前でミライトにばれて、銃撃戦がおっぱじまったのよ。ミライトの保安部は、躍起になって更なる転職を防ごうとしているわ。だから今晩は日取りとして最悪なわけ」

「なぜ引き返させたんですか。電話が来た時、まだ《タウン》ではそれほど騒ぎになっていませんでした。あの時、急ぎ佐伯の社宅に向かっていれば、今頃彼を手塚畜技研に送り届けられていたはずです。佐伯をミライトの監獄に長居させる法なんてないでしょう」

「もしバレたとしたら、その時は武装したミライトの警備員に追跡されていたのよ」

「そうなったときでも、妨害工作を講じられたはずです。それに、俺ならバレずに彼を運べました」

「私たちの仕事では、そんな事態に陥った時点で失敗なのよ」


 彼女は深く呼吸をしてから続けた。


「自分たちの地位に驕り高ぶって、向上する気はさらさらない。だから危機管理も杜撰で、私たちでも企業の情報庫に忍び込める。でも奴ら大企業には力がある。金もある。ミライト警備一つとったって、密度は県警と変わらないわ。奴らが本気を出せば私たちは敵いっこない。こんな汚い雑居ビルに事務所を構えて口に糊する小市民の命の一つや二つを抹消することくらい、大企業には造作のないことよ。大企業が行ってきた殺人があの光にどれだけ隠されているか、あなたにもわかるでしょう。でも奴らは大きくなり過ぎた。細部まで気が回らないし、油断もする。その隙を突くのは私たちフリーランスしかできないし、私たちにはそれしか大企業に対抗する術はないの」


 彼女は一息にそう言うと、しばらく床を見つめた。その間に、ブラインドから差し込んだピンクの広告光が、投影された資料を横切る。光が部屋を通り過ぎると、彼女は覚悟を決めたように俺の目を見て口を開いた。


「大企業が幅を利かせているこの社会で、フリーランスの私たちが大企業に立ち向かうにはそうやってずる賢くやっていくしかないのよ。この時代でこの稼業をやっていくには考えを改めなさい、ジム」


 ドラムは私たちのことなど気にせず、威勢よくリズムを刻んでいた。社長はコップに口をつけ、息を整えた。私は彼女が落ち着くのを待ってから口を開いた。


「社長は卑屈になりすぎている。あなたはただ諦めているだけだ。『大企業に立ち向かう』ですか?何もしなければ立ち向かえもしませんよ」

「そうね、今夜の私は何もできなかった。でも、常に前進なんて無茶よ。目標のためには、結局どこかで立ち止まったり、時には後退する必要だってある」

「社長の下ではどこへも行ける気がしません」

 俺は踵を返し、事務所の出口へ向かった。

「無茶をしてケガをしちゃいけないわ。ジム、あなたの家族はどうするの?」

 事務所を出ようとした足が止まる。だが後ろを振り向くことはできなかった。

「家族の話は、しないでください」


 言葉を絞り出して、力任せにドアを閉めた。階段で手塚畜技研の寺内とすれ違った。


「ああ、事務員さん……」


 彼の呼びかけを無視して、私は階段を駆け下りた。

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