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 そうこうしているうちに、最初の会議は幕を閉じた。本部長到着します、と誰かが言って、人事部は一斉に会議室を出ていった。


「あの時は助かったよ」


 俺は会議室を出ようとしていた新田を呼び止めた。彼女なら、俺の疑問に答えてくれると期待していた。


「いいの、同期のよしみよ。それにどうせ言わなきゃならないことだったんだから、先に済ませたかったし」


 彼女はあっけらかんとしていた。本部長の頭に血が上ったあのタイミングで発言するのは、相当な勇気が必要なはずだった。あの時の本部長なら、ミスした社員を即座にクビにすることだって厭わないだろう。だが、肝が据わっているのか、考えていないのか、そういう時でも臆せず仕事をこなすのが彼女の驚異だった。

 新田が行政担当次長という、どれだけうちの悪事が明らかでも、良心の呵責なく情報秘匿権を盾に官憲の追及を突っぱねる、ハードな役職にこの年齢で就いたのも納得できた。


「しかし、なんで小木・佐伯研の設置を人事部が許可したんだ。カウンセリング課の報告では、二人とも研究活動に関する外部からの干渉を毛嫌いする性分なんだろ。ああいうのをうまくコントロールできる人材を置くんじゃなかったのか」


 新田はしばらく答えずに、周囲を気にした。それからゆっくりと口を開いた。


「在神の人事部は内規通りそうするつもりだったんだけど、『本当に優秀な者にやりたいようにやらせろ』と並木本部長からお達しがあったみたいよ。私も聞いただけなんだけどね」


 彼女の話を聞いて、自然とため息が出てきた。本部長は会社の流れを無視して無理を通すことが多かった。どうにか下の方で影響が出ないようにしてきたが、それもとうとう限界が来たみたいだ。

 新田が黙って俺の背中を叩いた。ありがとう、と礼を言うと彼女は片手を挙げて会議室を後にした。


「今回の一件で、我々保安部の知りえぬところで、他にも我が社の社員が転職準備を進行している可能性が出てきた。今回の件の事態収束に加えて、転職の取締まりの強化もしなければならない」


 保安部に向かい、ミーティングを開いた。管理職のほとんどは《タウン》に住んでおり、すでに集まっていた。

部長室は区切られているとはいえ、この一大事に大慌てする保安部の喧騒は聞こえていた。


「小木・佐伯研の一件で懲罰の対象になったのは何人?」


 小松に尋ねる。


「小木含め七名です」

「小木同様、一匹狼タイプという報告が上がっているのは」

「ええ――」


 小松は少し考え込むように天井を向いて黙った。生電端子越しに電脳を操作しているのだろう。


「――主席研究員の佐伯と研究員の菊川です。二人とも停職の最中です」

「わかった。その二人を重点的に監視しろ。こちらが出向いて保護するような事態は避けるんだ。何だったら残りの期間を停職から軟禁に引き上げても構わない」

「わかりました」


 彼は威勢のいい返事をして、また天井を見つめ始めた。


「電警課は小木と並行してこの二人の虚層履歴も調べろ」


 一通りの指示が終わり、部員が自分の仕事に取り掛かり出した。しばらくは私がいなくても、仕事は進むだろう。この間に済ませたいことがあり、マルチクロノで警備の竹山を呼び出す。


「藍上と陶山は?」


「二人は《二十四階》に呼ばれています」

「本部長にも用がある。私がそこに行こう」


 保安部を出てエレベーターに向かう。保安部は今回の一件で、天地がひっくり返ったかのような騒ぎだった。廊下を歩いてそれを実感する。

 保安部としてすべきことは山積している。だが、愛社精神に目が眩んで、遮二無二動いていても危険だ。下手に責任を被りすぎてしまう恐れがある。職務を果たしていればいいというわけではない。今後も自分や部下が出世街道を外れないように、他の部署や重役の顔を覗っていくことも、こういう企業では重要だ。

 エレベーターを待っている間に、俺がしなければいけないことを整理した。小木の転職準備を放置したのは、保安部に否がある。だが小木たち一匹狼を暴走させたのは、人事部の怠慢だ。どうにかすれば、人事部にもこの責任を負ってもらえるだろう。うまくやって、俺や妻と息子、部下たちの家族の生活を守らねばならなかった。社内での部署の立場を維持するのが俺のような管理職の役目だ。


 ベルが鳴り、エレベーターの扉が開く。乗り込んだエレベーターは一階で停まり、竹山を乗せた。

 竹山の横にいると、どうしても彼の潰れた耳が目に入る。会社の共済が適応される安いプランを勧めてみたが、ずっと彼は耳をそのままにしていた。彼は長年の柔道で潰れた耳を勲章のように思っているらしい。

 彼はエレベーターの中でも、口を半開きにしたまま、箱の外のどこか遠くを見つめていた。誰がどう見ても、彼は憔悴しきっていた。少し先の未来のことも不安になっていてもおかしくはない。

 二十四階で俺たちはエレベーターを降りた。無人の廊下が照らされていた。窓からは神戸の街が見えた。遠くのビル群では、眩い投影広告が競うようにうごめいていた。俺の目に映る広告は遠すぎて像をつくらず、色とりどりの毛玉のようにしか見えなかった。まるで、俺の頭の中を見せられているかのようだった。


 突然、何かが破裂したような音が廊下に届いた。この階でなっているようだった。隣を歩いていた竹山が、反射的に身構えたのを見て、それが銃声だと気が付いた。すぐ先の、人事部長室の扉が開く。出てきたのは藍上と陶山の二人だった。二人の目つきにはどこも変なところはなかった。だが、二人の服にはベッタリと血がついていた。そのコントラストが底知れぬ不気味さを演出していた。

 二人が俺たちに気づく。一人が拳銃を握っていたのが見えた。だが、俺は二人のありえないほど平穏な視線に捕らわれて、微塵も体を動かすことがかなわなかった。拳銃を持ち上げるのがゆっくりと見える。


 何かがとてつもない力で俺の体に衝突した。俺は思わず廊下で倒れ込んだ。遅れて耳をつんざくような銃声がしたことに気づいた。

 衝撃で息ができなかった。混乱していたのか、目の前で何が起きているのかもわからなかった。ただ重かった。闇雲に体をバタつかせるが、思うように動かなかった。だがうまい方法は思いつかなかった。

 どれくらい経っただろうか。


「近藤さん……」


 遠くで呼びかけられて、我に返る。俺は廊下に仰向けで倒れていた。ゆっくりと首を上げる。俺の上には竹山がうつぶせになって乗っかっていた。そして俺がいるのは血の海だった。真っ赤な血が体じゅうについていた。

俺は死ぬのだ。家族にはきちんと挨拶できていなかったが、もう間に合わないだろう。


「近藤さんっ」


 体を揺さぶられて、俺は叫び声をあげていることに気が付いた。目の前では新田が両肩を掴んで俺の名前を呼んでいた。

血は竹山の体から流れていた。二人が廊下に出てから聞こえてきた銃声は一発。竹山は俺を庇って撃たれたらしい。どうやら俺は怪我をしていないようだ。自身の無事を知っても、体は震え、鼓動は速いペースを保っていた。

目の前に藍上と陶山はいない。窓を見てみると、ガラスが割られて、ひと一人通れるほどの穴ができていた。


「本部長たちは?」


 新田が下を向いて唇を噛んだ。そして神妙な顔を浮かべて首を横に振った。


「まあ、もっけの幸いと言いますか、これで小木の一件は並木本部長になすりつけられますな」


 新田は励ますように俺の肩を叩いた。彼女の目は、銃を向けてきた藍上と陶山のそれと同じだった。

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