6

「勤、そろそろ寝なさい。明日は遠足でしょ」


 妻は居間のテーブルの前で跳び回る息子に困り果てていた。

 隣町の水族館へ行くだけなのに、勤ははしゃいで布団へ行こうとしなかった。

生まれてから、住まいから病院や幼稚園まで、ほとんどの時間を会社が整備した《タウン》で過ごしてきた息子にとって、遠足で《タウン》の外へ行くのは、宇宙旅行みたいなものだろう。家にはキッチンで皿を洗う音と、勤のはしゃぐ声が響いていた。

俺は目の前を走っていた勤を抱きかかえて、膝の上に乗せた。


「明日はどこ行くんだ?」

「えーとねえ、水族園」


 膝の上でも、勤は興奮を抑えきれずに暴れていた。水族館でしょ、と後ろで妻の麻樹が呆れて言った。


「魚がいっぱい見れるんだろうね。何が一番見たい?」

「あのね、シーラカンス」

「見れると良いな」


 息子が明日行く水族館にシーラカンスはいないはずだったが、目をキラキラと輝かせていたので、俺は答えを濁した。


「しかしなあ、早く寝ないと明日眠くてシーラカンスもよく見れないぞ」

「じゃあ布団行く」


 意外にも素直に返事をした勤を連れて、俺は寝室へ向かった。荷物を詰めたリュックサックを枕元に置いて、息子はすんなりと布団に入った。二人でおやすみを交わすと、彼はすぐに寝入った。

 寝室を出ようとして、足元に魚の図鑑が落ちているのに気が付いた。昼間、勤が読んだままにしていたのだろう。振り返ってベッドを見る。勤は穏やかな寝息を立てていた。

 仕方なく、俺は図鑑を手に本棚に向かった。図鑑をしまおうとして、気が変わり適当なページを開いてみる。最初に目に入ってきたのは、アナゴやカツオ、マダイの平面写真だった。どの写真も、古くて画質が荒かった。日本近海の魚を紹介する章だったが、今はもうほとんどいなくなっているだろう。

 いま水族館で泳いでいる魚は、生き残った種類に形質加工を施しているものだ。本物は両手で数えるほどだろう。


 もう一度振り返って、勤の寝顔を見る。明日も彼はこの穏やかな表情で眠れるか不安になった。彼はまだ、外の世界に希望を持てるのだろうか。

 廊下で給仕人形メイドマトンとすれ違った。おやすみなさいませ、と言って皿洗いを終えた彼女は奥の整備室へ入って行った。

 静かになった居間に戻ると、何台分ものパトカーのサイレンが、微かに聞こえた。都会なのでパトカーの出動自体は珍しくないが、この台数はめったになかった。


「何かしらね」


 と麻樹が言う。そうは言うものの、彼女はずっとテレビの方を向いていた。それもそのはずだろう。このマンションがある《タウン》は勤め先ミライトの警備がついている。軍隊ですら踏み込むのがやっとのはずだった。


「えー、今日はね、原宿に来ています」「違います。そんな街、もうないですから」


 テレビから聞こえてくるのは関東風の口調、関東風の冗談だった。麻樹はソファに斜めに寄りかかりながら、それを眺めていた。勤も寝て、居間には二人っきりの時間が流れていた。


「なんか飲む?」


 俺が言い終わらないうちに、キャビネットに置いたマルチクロノが鳴動しだした。この時間になるのは俺のだった。


「また仕事?」


 麻樹が残念そうな顔を浮かべる。


「そんなはずじゃなかったんだけど」


 マルチクロノのスイッチを入れると、部下の小松の顔が投影された。小松は今晩宿直だったが、疲れている様子はなく、深刻そうな顔を浮かべて俺を見つめていた。


「申し訳ありません、近藤さん。緊急の会議です」


 ミライトはバイテクといういくらでも買い手がつく分野の先端技術を蓄えている。軍や情報機関から、企業やならず者たちまで、ミライトの機密を狙って、日夜虚層から、時には実層から脅威が襲い掛かってくる。だから、私の職務上、夜に会議に呼び出されるのは珍しくはなかった。小松も理解しているはずなのに、なぜか叱られた子供のような目をして俺を見つめていた。


「わかった、すぐ行くよ」

「ありがとうございます。お車は回してあります」


急いで背広に着替える。ネクタイは車で締めるつもりで、ポケットに押し込んだ。


「行ってくるよ」


家を出る前に居間に寄ったが、麻樹は唇を尖らせてテレビの方を向いていた。

エレベーターは扉を開けて俺を待っていた。会社はマンションと同じ《タウン》にある。既にエントランスの前に、社用車が停まっていて、俺が乗り込むとすぐに発車した。信号もタイミングよく、一分とかからずに会社に到着した。俺はネクタイを締めながら車を降りる羽目になった。


 ミライト医工神戸本社ビルの地下、防諜のために地下に設置された大会議室Dに俺は通された。受付用のバイオマトンが俺を席まで案内する。席次が細かく決められているということは、それだけ関係のある部署が多いということだ。

 途中で同期の新田と目が合う。彼女はご愁傷様と表情で伝えてきた。保安部に関係が深い厄介ごとが起こったということだけはわかった。

既に、結構な人数が集まっていた部屋は薄暗いままだった。机に投影された名札を見ると、人事部長及び同部カウンセリング課長、法務部長と行政担当次長など結構な顔ぶれが集められていた。うち(保安部)は私の他に、電脳警備課長の古川が出席していた。


 席に付き、机の縁の読取機にマルチクロノをかざす。社員証も兼ねているそれに反応して、机には俺の名前と役職が投影された。

 隣には、ミライト警備保障神戸支社長の竹山が座っていた。ミライト警備は、厳密には系列会社だが、ほとんど医工保安部の下に設置された課のような扱いだった。彼は柔道で鍛えた巨躯を縮めて、背もたれの間に収まっていた。何も言わず私に会釈だけすると、彼は沈痛な面持ちで明後日の方向を見つめていた。

 奥のひと際暗い席には、スリーピーススーツを来た中年の男の影が見えた。よく見ると、その頭は眠っているように垂れていて、腕も力なく椅子からこぼれていた。まるで死体だった。


「本部長入ります」


 通信担当の社員の声で、会議室にいる者が一斉に居住まいを正す。全員が、奥に据えられた死体の方を注目していた。まるで死体蘇生の儀式のようだった。

 突然、影の垂れた腕がピクリと動く。頭が持ち上がり、腕は肘掛けに置かれる。さらにこれ見よがしの咳払いをした。

 バサリと衣擦れの音が響く。人事部の社員は動き出した人影に深々と頭を下げていた。彼らが敬意を示しているのは、中年男性の風貌をしたバイオマトンだった。外観は単なる人形のはずなのに、姿勢や細かな動作からか、そのバイオマトンは居丈高な雰囲気を放っていた。

 誰かが生電接続で遠隔地からバイオマトンを操作しているのだ。自分の体のように動かせることから、憑依とも呼ばれるそれで会議に出席しているということは、本店の重役なのだろう。

 人形の前にネームプレートが投影される。人事本部長の並木さんだった。これで関係者は揃ったのだろう。急に会議室の前方が慌ただしくなった。誰かがマイクをつけて話し出す。


「夜分遅くお集まりいただき、誠にありがとうございます。早速、臨時幹部会議を始めたいと思います。今夜お集まりいただいたのは、他社による我が社の社員に対するヘッドハンティングの発生が認められたからです。ヘッドハンティングされたのは、医工の培養技術研究所主席研究員の小木佳之、転職先はマージョンを予定していました。小木は昨夜退社を計画していましたが、マージョン側と会食中にミライト警備の方でしました。これに関して、保安部の近藤部長、お願いします」

「保安部長の近藤です」


 俺は急いで立ち上がり、挨拶する。保安部が何かヘマをしたということはわかった。新田の表情も理解できた。だがまだ、司会者の言ったこと以外は状況がわからなかった。警備が社員の保護を実行したとも始めて聞かされた。

 遅れて、手元の電紙に資料が届く。俺はそれを読み上げた。


「保安部は小木が転職する意向を示していることを把握したのは昨夜です。これに関して、事前に把握できなかった原因については目下調査中です。昨夜の時点で、マージョン側と接触しており、今夜にも小木が退社する恐れが強かったため、保安部及びミライト警備保障で彼の保護に乗り出しました。両者が会食する場所が警備の手薄なレストランであり、マージョン側が用意していたボディガードも素人同然だったことから、小木の保護には警備員二名のみを派遣いたしました。もちろん、当初は小木の保護を穏便に済ませる計画でありましたが、現場で我が社の社員の生命に関わる不測の事態が発生したためにマージョンのボディガード二名を殺害、またマージョンの社員一名が騒動に巻き込まれて死亡という結果を引き起こしてしまいました。小木に関しましては、無事に保護したと報告があがっております。」

「簡単な任務だったと言っているがね、だったらなんで死人が出てるんだよ」


 本部長が声を荒げる。再び、資料が表示される。結局、どれも状況調査中だということだった。


「現在、小木研究員の保護に際して、関係者が死亡したことについて、担当の警備員に事情を聴いている最中であり、何とも申し上げられません。」

「人が街で殺されたんだ、捜査の手はここまで伸びるんじゃないのか。それなのに保安部は知らぬ存ぜぬを通すつもりなのか?」


 本部長の怒号は、バイオマトンに憑依していても相当な迫力だった。会議室は静まり返り、怒りに燃える本部長と立ち尽くした私を全員が交互に見ていた。

小木の件で、保安部が犯した失態は三つだった。小木の転職を直前まで見過ごしていたこと、衆人環視のなかで殺人を行ったこと、他社の社員を殺害したことだ。この件の直接的な原因はすべて保安部に帰結する。ここまで大ごとになってしまうと、隠せることも隠せなくなる。本部長が俺にきつく当たるのも理解できた。

 だがこの場では、何を言うことが正解なのかわからなかった。保安部として事態が悪化し会社の存続に関わるような事態は避けなければならないが、この場で下手に責任を被ると、やっと部長の席に座れた俺の身が危うくなる。

 他の社員も同じだろう。管理職になったからと言って、将来が安泰なわけではない。人事部はすぐに別の首を持ってきて、挿げ替えるだろう。現に、俺が命じれば、明日には同じくらい優秀な人材が新しく電脳警備課長として働きだす。それを恐れて資料も新しいものは送られてこない。

 困り果てていると視界の端で、誰かが立ち上がったのが見えた。新田だった。


「法務部の方で、経済保安庁にですね、警察の捜査の際に機密漏洩することのないようにですね、協力を要請してあります」

「経保の方は何て?」


 本部長の声は先ほどより落ち着いていたが、まだ苛立ちが残っていた。


「ええ、第四条を適用してですね、小木の我が社での活動と彼の保護に当たった警備員の情報については、警察に秘匿することの許可は明朝までに出るということです」

「それながいいがね。それで今回の保護任務に出動した警備員は誰なんだ?」


 竹山から資料が二人の資料が送られてくる。


「ミライト警備保障神戸支社所属のこの二人です」


 私は竹山からの資料を会議室にいる全員に公開する。資料にはサラリーマンとは思えない、チンピラのような風貌をした二人の写真が載っていた。今回、小木の保護を担当した藍上夏貴と陶山直実だった。この二人なら記憶していた。三年前、並木本部長のゴリ押しでミライト警備保障に入社してきた二人組の傭兵だ。仕事の腕はいいが協調性に欠け、会社組織では手に余る人材だった。


「名前は藍上と陶山。勤続三年。大戦中は軍務省に勤務していましたが、その際の経歴は不明です」


 資料を読み上げながら、目だけ本部長の依り代に向ける。その席に座るバイオマトンは、明らかに表情を曇らせていた。


「それから、保護対象になった研究員の小木に関して、説明願えますか?」


 警備員二人の説明を終えて、人事部に尋ねる。神戸本社の前原人事部長が立ち上がりオドオドと話し始めた。


「小木・佐伯研の活動に、重大なコンプライアンス違反と就業規則に対する逸脱が認められたため、小木に一カ月間の停職の懲戒処分を科し、現在も停職の最中でありました」


 手元の電紙に小木の資料が送られてきた。彼の名前は記憶になかった。椅子から伸びるケーブルを、俺の生電端子に挿し込んだ。保安部の情報庫に入ってみたが、小木はこれまで保安部ではノーマークだった。


「小木はどうやってマージョンと連絡していたんだ?」


 隣の古川に耳打ちする。


「電脳警備課の方で、小木の個人用電脳の解析を行っている最中です。現時点で判明しているのは、小木に関する懲罰委員会が設置されて以来、生電接続で頻繁にマージョンのサービスを利用していることです。あくまで推測にすぎませんが、マージョンは性的な対話を目的としたチャットサービスも提供しており、そこを介してマージョンと接触していたのではないでしょうか。そのような手法ですと、特にプライベートな行為ですので、保安部の方で事前の把握はできません」


 古川が俺の耳元で報告する。前原部長の説明はまだ続いていた。

 停職処分中の小木をマークしていなかったのはうかつだったが、古川の言う通りなら保安部で把握できないのも無理はない。だが、研究所の人事は、研究員が変な方向に突っ走ったりしないように、御者役を用意しているはずだ。

小木の研究室のメンバーの、心理分析結果を社内の情報庫から呼び出した。研究室の配置と並べると、おかしなところがあった。保安部が呼ばれることはもうないだろうと思い、俺は情報庫の小木・佐伯研関連の書類を漁った。だが、疑問は晴れるどころか深まるばかりだった。

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