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 地下鉄新町通り駅周辺は歓楽街が形成されており、夜になると「蝶の都」福原らしく蝶が舞い始める。一介のサラリーマンから、大企業の重役たちまでが、蝶が羽ばたくたびに舞う鱗粉を求めて、夜ごとに新町通りへ足を運ぶ。京阪神でなされる企業間取引は必ずここを経由して成立するとも言われていた。

 雑居ビルの半地下に店を構えるクラブ、チューリップで僕は川端さんと酒を酌み交わしていた。僕たちの間には、ラメに覆われたビキニを着た真里瑠が座っていた。彼女は目が大きく、鼻筋の通った顔立ちをしていた。彼女のようなエスニックな容貌が、川端さんの好みだったそれは彼の監修した成人向け仮想体験作品を見ればすぐにわかる。


「失敗しない人生は存在しないが、やり直しがきかない人生もまた存在しない。違うか?」


 川端さんはそう言うと、真里瑠嬢の肩を抱き寄せた。川端さんの強引な振る舞いに、彼女は驚いたように嬌声を上げる。彼女が動いたことで、彼女のつけている香水の芳香が僕の方に放たれる。酒で胸を悪くした身には毒のような、酷く甘ったるい香りだった。

 客としてこのテーブルに座っているのは僕と川端さんの二人きり。彼は僕がこれから転職するマージョンの創業者にして社長である。マージョンの採用担当に聞いた話だと、ミライトでくすぶっていた僕に目をつけてくれたのも川端さんだそうだ。

 僕たちの座るテーブルの両隣には、一人ずつマージョンの警護が、邪魔をしないように静かに待機していた。二人とも、黒い背広を着ていたが、その上からでもわかるくらいにたくましい筋肉を持っていた。古代ギリシアの彫刻に血を通わせたような風貌からして、その筋肉は実用性を完全に無視し、美容目的だけで移植されたものだろう。恐らく二人とも、マージョン所属の俳優上がりなのだ。

筋骨隆々とした姿はそれだけで威圧の効果を表す、という考えも一理ある。だが、威圧が効くのは素人だけだ。その道のプロからしたら、護衛は二人とも生肉の貼り付いたカカシだ。


 川端さんの顔にはいやらしい笑みが張り付いていた。彼の右手を見れば、真里瑠の露わになった脇腹を貪るように撫でていた。そのまま上へと滑らせそうな勢いだった。彼女も、先ほどまでの驚きようはどこへ行ったのか、甘えるように川端さんの肩に頭を預けていた。

 彼は単にそのスケベな行為に笑っているわけではない。その行為を僕に見せていることに笑いが止まらないのだろう。まるで、群れの中のボス猿のような行為を見せられて僕は反吐が出そうだった。

新しい組織に入るということはそういうことだ。古参の人間が上下関係をはっきりと示す必要がある。これからマージョンにお世話になるのだからと、僕は歯を食いしばって、愛想笑いを浮かべた。


「あら、妬いてらっしゃるの?可愛らしい」


 僕についた江梨子がクスクスと笑い声をあげた。彼女は派手さこそないが、顔立ちは十分整っている、大和撫子のような人だった。その落ち着いた雰囲気に合わせて、落ち着いた紺の水着を着ていた。何より香水の匂いがキツすぎないのがよかった。酒を飲むならこのくらいで十分だ。

 江梨子の言葉を聞いた川端さんは、真里瑠に何かを耳打ちした。彼の口元は、息がかかるくらいまで、彼女の耳元に近づけていた。右手は彼女の脇腹から肋に移動していた。彼女の肌は、むらなく、きれいに日焼けしていた。どこも同じ小麦色、つまり、どこにも刺青が入っていない。


 真里瑠嬢が川端さんと目を合わせている隙に、僕は彼女の顔を観察した。特にパーツとパーツの切れ目を注意深く。

 きれいだった。どのパーツもきれいにつながっていた。顔立ちの美しさもさることながら、その造形の自然な仕上がりは見事なものだった。真里瑠の顔は天然か、相当金をかけて造成されたのだろう。

 美容整形は急速に進歩し続けているが、天然に近い仕上がりに極限まで近づけようとすれば、当然ながら莫大な金がいる。喜多川歌麿と緒方洪庵は別人なのだ。

 斜向かいのテーブルは、二人の中年オヤジが客だった。嬢にすり寄っていた片方の男の、赤ら顔が青白く照らされていた。まるでオヤジのそばに、嬢の胸ではなく、平面テレビの画面があるみたいだった。


 百軒広告なんかに行けば即日、刺青を入れてもらえる。こういう類の店で働いている場合、肩や胸に入れれば、毎月相当な広告収入が手に入るだろう。

酔った中年の客に迫られている嬢は、離れた席からでも不自然な顔立ちをしているのがわかった。生得的な顔立ちと、大枚をはたいた末に手に入れた顔立ちの間にある、とても深い不気味の谷の底に彼女はいた。

別に不思議なことではない。歌麿にだって、天才外科医の才能はなかったはずだ。外科手術と芸術のセンスを兼ね備える者は本当にごくまれで、そういう医師免許持ちの芸術家に手術を頼むには相当な金がかかる。

 だだ、彼女は客のあしらい方は心得ていた。客のオヤジは酔った勢いで、嬢に抱き着こうとしていたが、何度試しても嬢がさりげなくかわしていた。

 江梨子は僕のグラスが空になったことに気づいて、何も言わず水割りを作ってくれた。出来上がった水割りに口をつけると、店内が少し騒がしくなった。最初はそれを無視して飲み続けた。おいしい、と彼女が尋ねた。

 始めに動いたのは、川端さんの護衛だった。僕たちの両隣のテーブルに陣取っていた二人が異変を察して同時に立ち上がった。川端さんに近い方が、ベルトに差した拳銃に手をかけていた。それからすぐに店の奥で女性の悲鳴が上がって、僕のグラスを傾ける手が止まった。


「川端義生はおるか?」


 そう言って無遠慮に入ってきたのは派手な花柄のワイシャツを着た二人組の男だった。僕たちは店のいちばん奥のテーブルに座っていた。客の頭が重なってよく見えなかったが、押し入ってきた一人は薄く色の入った眼鏡を掛け、髪を後ろに撫でつけており、もう片方はその舎弟なのか頭を丸めていたように見えた。

 僕は二人が胸につけている代紋を見て、血の気が引いていく。

 二人とも周囲を警戒しつつ、テーブルを一つ一つ周って川端さんを探しているようだった。隙を見て護衛の一人が拳銃を引き抜いた。

 突然、店に銃声が響いた。真里瑠が怯えた声を上げた。僕はゆっくりと顔を上げて声のした方を見ると、先ほどの護衛がソファを乗り越えて、こちらのテーブルに倒れてこんでいた。

 遅れて硝煙の匂いが届いた。銃声に怯えて客やホステスは一斉に頭を下げていた。その向こうに二人組が立っているのが見えた。坊主頭の舎弟の方が、こちらに銃口から煙の上がった小ぶりの拳銃を向けていた。客の中年オヤジの顔を見分していた眼鏡の方も銃声に気づいてこちらの方を向いた。


「そんなん、どこの島荒らしてる思うとるんじゃ?」


 眼鏡がドスの効いた声で怒鳴る。店ではこの二人以外押し黙っていた。二人組がグラスやボトルもお構いなしに革靴でテーブルに乗り上げる。シャンパングラスが踏みつけられて割れても、文句を言う店員はいない。二人はテーブルもソファも、客のオヤジもお構いなしに踏み越えて、僕たちにまっすぐ近づいてきた。

 突然、僕の後ろで銃声が鳴る。再び店中で悲鳴が上がる。僕も咄嗟に頭を下げた。パリンと言う音が、前の方でした。


「ああ――」


 残念そうな眼鏡の声。


「――スーツがビチャビチャじゃあ」


恐る恐る顔を上げて、二人組の方を見る。眼鏡の方のスーツが濡れていたのが見えた。彼にかかったのは血ではない、透明な液体だった。片手には割れたシャンパンのボトルが握られていた。

舎弟の拳銃が火を噴いた。僕の後頭部で、何かが風を切り、背後でドサッという音がした。振り返ることはできなかった。酒のすっかり抜けた僕の体は、恐怖で震えていた。


「島やと?情報の海に島なんかあらへん。ただバイナリな混沌があるのみや」


 この状況でも川端さんは酔いが覚めていないのか、鷹揚な口ぶりだった。


「なにわや抜かしとるんじゃ」

「なに猿のように小さな縄張りに縋ってんねん。虚層には国境すらあらへんやろ。ええかげん体から離れや」


 川端さんの言葉に、眼鏡が乾いた笑い声を漏らした。


「ええこと思い出させてもろうたわ。そがいなこともあったのう」


 眼鏡の方が言い終わらないうちに、真里瑠が驚いたような、困惑したような声を上げた。見れば、彼女は何かから逃げるように、体をくねらせていた。彼女の動きはどこか妙だった。違和感は彼女の左腕にあった。左腕は彼女の体の揺れから完全に独立して動いていた。左手がテーブルに伸びたかと思うと、肩をストレッチして延ばすように右側に曲げた。左腕だけ見れば素早く、迷いのない動きだったが、あやつり糸に引っ張られたようなぎこちのない動きだった。


「い、いやぁ……」


 彼女は今にも泣きそうになっていた。突然彼女の左腕は勢いよく振り戻され、川端さんの方へ伸びた。手を叩いたような、パンという音がしたと思ったら、川端さんの胸にアイスピックが突き刺さっていた。川端さんは驚いたように胸から生えたアイスピックを一瞥すると、そのまま力なく背もたれに倒れ掛かった。

 江梨子は、ソファから力なく崩れ落ちた。空いた席に眼鏡が座ると、彼は馴れ馴れしく僕の肩に腕を回した。彼の腕を取り払う気力すら残っていなかった。


「小木佳之さんじゃの。そんなん、何しよったかわかっとんのか?」


 まるで子供の悪戯を咎めるような口調だった。僕の頬をつつこうとする勢いだった。

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