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 営業準備――入念な盗聴対策と簡単な事務所の掃除が済んだのは十時数分前だった。マルチクロノが午前十時を刻んだと同時に、入り口に〝OPEN〟のプレートを掛けた。九時始業は既に形骸化していたが、事務所の営業開始が十時であるとアナウンスしているため、それまでにお客を迎えられるようにはしていた。

 しかし、相変わらず十時の営業開始を独断で決定したはずの阪本社長が十時前に出勤してくることは滅多になかった。だから今朝は珍しい日だった。

 プレートを掛け終えて、中に戻ろうとしたところで、階段を上る足音に気づいた。下を覗くとそれが社長だとわかった。


「勘ですか?」


 俺は開口一番、社長にそう尋ねた。


「勘よ」


 眠たそうに目を細めながら、彼女はそう答えた。寝起きでモゴモゴとした声だったが、どこか嬉しそうだった。

社長の勘は過去二回全て当たっていた。だから俺は急いで応接セットのテーブルを片付け始めた。社長はと言えば、テーブルに散らばったあれこれを急いで片付ける俺を尻目に、応接ソファに腰を下ろしてテレビを観ていた。画面の向こうのスタジオは、誰かが言ったジョークで笑い声が沸いていた。しかし、社長はまだ完全に起きていないのか、珍しく笑い声を上げていなかった。

 テーブルに置きっぱなしにしていた食器を洗い終えた頃に、ようやく社長が声を出して笑うようになった。そして、事務所に来客があったのはそのすぐ後だった。


「手塚畜技研、人事部採用担当の寺内です」


 と客の男は名乗った。背広の社章も、TとAが二つずつ配された手塚畜技研のものだった。

 寺内が背広から名刺入れを取り出した。内側には一枚の写真が入っているのが見えた。スーツを着た若い二人と、和装をした幼い少女が映った家族写真だった。慣れない和装に戸惑いながらも笑う小さな女の子と写真で目が合ったのは、恐らく俺の気のせいだろう。

彼が差し出した名刺には、手塚の社章がすかしで入っていた。手塚畜技研は食肉培養において日本トップクラスのメーカーだった。世界的に見ても競争力がある。そんな大企業の社員がうちに依頼するとは意外だった。


「依頼は、お宅の会社からということですね?」


 社長が尋ねる。


「はい。依頼したいのは我が社の中途入社希望者についてです」

「身辺調査ですか?」


 俺は男に聞いた。否定される希望を込めての質問だった。身辺調査はあまりに簡単な仕事だった。その分報酬も少ない。事務所のことを考えても、もっと面倒な依頼がほしかった。


「いえ、その辺の調べはうちで済んでます」


 寺内は鼻息を荒げて否定した。会社を見くびられてあまりいい気持ちがしなかったのだろう。


「対象者の今の勤め先は?」

「ミライトです」


 寺内の答えを聞いた社長は、腕を組んでソファの背もたれに倒れ込んだ。あー、と社長は困ったような声をしばらく上げていた。どうやら依頼の内容に心当たりがあるらしかった。


「退職代行ですね?」

「そうなんです。阪本さんなら引き受けていただけると思いまして」


 俺は耳を疑った。が、寺内も神妙は顔を浮かべて首を縦に振っていた。

俺はがっかりした。ひと月以上ぶりで、俺にとっては初めての仕事は想像以上に楽すぎる仕事だった。やる気がどんどんなくなっていくのを感じる。

 自分で退職届を出す勇気も出ない弱虫に代わって退職手続きを済ますなんて仕事に、俺はやりがいを見いだせなかった。それも、退職代行の依頼も代行してもらうようなヤツの仕事だ。子供の遣いよりも簡単で、退屈に決まっている。早く話を終わらせて新聞を読みに戻りたかった。

 社長は相当な額を闇医者に積んで、俺の生電端子を新しくしていた。デスクには俺専用の電脳装置が与えられていた。容量も速度も相当なものだ。最新の端子を埋めた社員と、上等な電脳が揃っている事務所で、ただ退職届を依頼人の上司に渡しに行くとは想像していなかった。

 彼女は急に覚悟を決めたように起き上がると、さっきよりもずっと前のめりになって、向かいに座る寺内に尋ねた。


「手塚はいくらまで出せるんですか?」

「言い値で構いません」

「それじゃあ――」


 そう言って彼女は相当な額を提示した。軽く俺の月給の十倍は超えていた。最初俺は、このつまらない依頼を断る口実として、社長が吹っ掛けているかと思った。

だが、寺内は納得したようにゆっくりと頷いた。社長もそれに驚きもせず、真剣なまなざしをしていた。

 どうやら俺は勘違いしていたようだった。


「わかりました。やりましょう」

「本当にいいんですか?」

「ええ、成功報酬でこれだけお支払いいただければ構いません」


 二人は立ち上がって、合意の握手をした。部屋の隅では、スピーカーがピアノとサックスのビバップを流していた。両者とも協力はしながらも競い合い、盛り上がりは最高潮だった。

 寺内が持ってきた依頼は、退職代行と言いつつその実態は亡命支援だった。その対象はミライト医工に研究員として勤務する佐伯芳紀という男。彼を手塚畜技研へ送り届けるのが今回の任務だが、知的人材を他社に奪われたくないミライトから転職を妨害される恐れがあった。

特にミライトは、製品に関わる機密や軍に納入する医薬品の警備をする名目で、ミライト警備保障という私兵を抱えていた。経保法で私企業の機密保護に関して十分すぎる権利が認められている影響で、佐伯の転職に際してミライト側が武力をもって阻止する可能性も十分にあった。

 ミライトから手塚まで佐伯を《無事》に送り届けることが、今回の依頼だった。


「ジム、これから忙しくなるわよ。明日からちゃんと九時五時を守りなさいね」


 依頼人を見送ってから、社長が言った。その顔は、覚悟を決めた真剣なものだったが、どこかに子供が海に向かう時のような期待に胸を膨らませた様子も感じられた。

 俺は遅刻の常習が社長にばれていたことに肝を冷やしたが、どうやら彼女にこれまでのことを咎める気がないらしかった。


「わかってますよ姐さん」


 震えの残る応接セットのコップを片付けながら返事をする。西日が鋭く、ブラインドはそのままだった。

 とっくにプレイヤーは止められて、ジャズは流れていなかったが、上の青いランプは点いたままだった。内蔵の電算機は、今日のセッションの感想戦をしていた。プレイヤーの中の演奏知能は、常に最高の演奏を探求している。お互いが最高の演奏を求めて競い合うことで、電算機はいつも一度きりのセッションを行う。

それは彼女の趣味というわけではない。電子のカルテットが即興で奏でる旋律は、煙幕の役割をするのだ。

 ブラインドの向こう側で、キツいピンク色の光が通り過ぎる。光は、テーブルを横切った。


 光を追っていると、男の顔写真と目が合う。手塚畜技研の寺内が置いていった、ヘッドハンティング対象の男の資料だった。寺内はわざわざ紙の資料を持って来ていた。

 そこにいるのは、東アジア系の男で、赤子をそのまま経年劣化させたような顔は、童顔というより、小生意気な印象を受ける。ミライトにはよくいそうで、大して特徴的ではない。眼鏡まで、横長の長方形という別段特徴のないものを掛けていた。そんなあまりいい印象を受けない顔の男が、今回ミライトから手塚までの転職を図っている、佐伯芳紀だった。

 資料の他の項目に目を落とす。三十七歳、理学博士、独身。出身は富山県。県庁職員の父と高校教師の母の間に生まれる。国立川崎科技大を卒業後、ミライトに就職。いわゆる、一世社員というやつだ。この国の典型的な経歴だった。

時計の針が五と十二を指した。社長は夕方のワイドショーに夢中だった。明日は遅れるなよ、と気のない注意をして俺を見送った。


 陽が落ちて、街は夜の姿に変貌していた。市街地のビルの外壁は、広告で埋め尽くされていた。それだけでは飽き足らず、ビルの上空には、立体投影された広告が乱舞している。通行人の視線を集めようと、広告は鋭くて眩しい光を撒き散らす。まるで街全体が巨大な誘蛾灯のようだった。あと一時間もすれば、「蝶の街」が羽化を完了させるのだろう。

 空は、暮れゆく日と街の光が相まって、不気味な艶めかしさに染まっていた。遠い海の向こうの故郷では見たことのない色だった。それでも、黄昏時の空に威圧感を抱いてしまう。すべきことが残っているかのような感覚だけを、俺の中に産み付けて、何をしたらいいのかは、決して教えない。

 俺は錯覚して、家が恋しくなる。家族が待っている家に。そんなものが、今は存在しないことくらいわかっていた。それでも、俺は家に帰れば義務が果たせるのではないかと考えていた。

 緑色の光が、俺の目の側を掠める。遠くの商業ビルの壁面に貼り付く、光のタコが吐き出した光の墨だった。俺はまるで羽虫のように、光があふれる「蝶の街」へ向かった。

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