つまらない退職代行
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勤め先のミライト医工が一棟丸々借り上げた十二階建てのマンションの四階に住んでいるため、出勤するときは混雑を避けて階段を使っていた。出勤で一番体力を使う場面だったが、わざわざ待ってエレベーターに乗るよりも早くエントランスに辿りつけた。
だが今日はエレベーターを使った。すでにエレベーターのラッシュは過ぎており、一階からノンストップで僕の所へ来た。
「お気をつけて」
ドアマンが、平日九時にネルシャツを着て出ていく僕を、いつもの調子で見送る。朝のサラリーマン向けのはきはきとした口調が憎たらしかった。
エントランスから出て、マンションの裏側へ向かう。社宅の一階には、会社がわざわざ誘致したスーパーマーケットが入っていた。
近くには別の店もあるし、何なら、スーパーの入り口は細い道に面していた。社宅の住人しか入らないような店なので、ほとんどが出払ったこの時間は閑古鳥が鳴いていた。
店の隅にあるパンコーナーでソーセージドッグとコッペパンを籠に入れる。それからオリジナルブランドのよくわからない缶コーヒーも一本入れて、レジに向かった。
生体人形の店員が無表情で籠の中の商品のバーコードを読み取っていく。いってらっしゃいませ、と社宅の住人向けの午前中の挨拶を掛けられる。単なる機械の声だとわかっていたが、目の前の店員に怒りを覚えてしまう。
支払いは、左腕にはめたマルチクロノ。マンションのエントランスをくぐるときも、マルチクロノで認証を受ける。エレベーターにマルチクロノをかざせば、それだけで一階から四階まで運んでくれるが、エレベーターには乗らず、僕は中庭に出た。
中庭には、鬼ごっこが可能なくらいの公園が設けてある。エントランスの先にあるため、住民専用の公園だが、子供のいない僕にはこれまで縁のない場所だった。だがここ一週間は、ずっどこの公園のベンチで遅めの朝食をとっていた。独りで食べるなら、部屋よりも青空の方が気分がよかった。今まで公園を使ってこなかったことが悔やまれる。
ソーセージドッグのビニールを開けて、口に運ぶ。しっかりと噛んで味わって食べる。一口食べるたびにコーヒーを飲み、青空の下で余韻を楽しむ。頭上には、ミライトの旗がたなびいていた。こうやって意識的にゆっくり食べていても、ソーセージドッグ一本はすぐに食べ終わってしまう。
忙しい朝は、食事の時間が短い方がいい。長年続けてきたサラリーマン生活で、朝はソーセージドッグ一本で腹が満たされるようになってしまった。会社があるときは楽だったが、時間が有り余っているときは辛い。コッペパンを余計に買うことを発明したのは一昨日だった。
コッペパンを開けて、一口より小さいサイズにちぎる。目の前の地面にパンの欠片を放り投げる。しばらくすると、僕の投げたパンに鳩が集まってくる。
朝の空いた時間は、こうして鳩の食事を眺めて潰していた。
鳩はパンの欠片に群がっていた。集団からあぶれた一匹が、何とかパンを手に入れようとして、群れの周りを回っては、中に入れないか試していた。だが、他の鳩も群れの中心に入ろうと必死で、そいつは外を回るしかできなかった。
僕はあぶれた一匹に向けてパンの欠片を投げてやる。だがすぐに集団が移動して、またそいつは群れの外に追いやられしまった。そいつは豆鉄砲を食らったような顔を浮かべたあと、何もない地面をついばむふりを始めて、もう群れに入ろうというそぶりを見せなかった。
「最近、毎朝いらっしゃいますね」
突然横から声を掛けられて、僕は危うくパンを落としてしまうところだった。震える首で横を向くが、視界には誰もいなかった。もっと後ろに首を回すが、それでも誰も見つからなかった。驚きと恐怖で心臓はバクバクいっていた。
「もっと下ですよ」
同じ声がする。視線を下げてみると、ベンチの隣の席に、一匹の鳩が乗っていた。鳩はパンに目もくれず、まっすぐ僕の方を向いていた。
「驚かせてしまい、すみません」
ベンチの上の鳩のくちばしの動きと、聞こえてくる声は連動していた。
「アンタが喋っているんですか?」
「はい、その通りです」
鳩が何かをついばむような動作をする。どうやらこれが人でいう、首を縦に振る動作らしかった。
「不躾ながら、何かお悩みを抱えているようなので、お声がけをいたしました」
「鳩に悩み事なんか相談しませんよ」
「この公園はミライト医工の社員とその家族しか使えません。なのにあなたは五日連続でこの時間にここで過ごしています。見たところあなたは健康そうです。だとしたら会社で何かあったのでしょう」
図星だった。
「この社会では、出る杭は打たれるのが定めなのです。それは一個人ではどうにも抗えない摂理なのです。しかし、出てしまっただけで何も悪いことをしていないのですから、打たれるということは、到底受け入れられないでしょう」
そう言う鳩の目は、他の鳩とは変わらず理性を微塵も感じられなかったが、僕は不思議とその目に見いってしまっていた。
「あなたを打って土に埋めようとしている人たちを、あなたは見返したいんじゃありませんか?」
急に風が通り過ぎる。足元でパンをついばんでいた鳩の群れが驚いて一斉に飛び去った。羽音と、旗のたなびく音が公園に響く。僕は我に返って、ベンチの上の鳩を見てみる。僕に向かって首を傾げる鳩に、知性の欠片も感じられなかった。
「わかったような口きかないでくださいよ。あんた、鳩なんだから」
「いえいえ私、鳩ではございません」
「その見た目で雀だとでも?」
その鳩は首を回して自身の胸のあたりをついばんでから、不思議そうに首をひねった。
「失礼、名刺の用意はないのですが、《手塚畜技研》TATAの採用担当、寺内洋一と申します。今は生電接続でこの鳩を操作してあなたとお話ししています」
風はすでにやんでいて、今ではミライトの旗がだらしなく垂れていた。
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