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 それは一人の男だった。体は膨らんでいたが、たるんではおらず重力にあらがう余裕があるようだった。彼の体は脂肪ではなく筋肉を備えているのだ。半袖のアロハシャツから出た二の腕には、縦に並んだいくつもの筋が膨らんでいた。まるでギリシャの神殿に設置された柱のような見た目のそれは、後から筋肉を移植された証拠だった。

 男は左手にもう一本の棒を持っていた。彼はそれ右手に持ち替えると、やり投げの要領で右腕を振り下ろした。空を切ってこちらに向かってきたのは、金属バットだった。軌道はまっすぐ俺の方を向いていた。転がるようにして隣の木の裏に移る。その瞬間に地面が揺れるような衝撃を感じた。さっきいた方を見ると、金属バットが木の幹を貫いていた。ひしゃげて広がったバットの先端は、ちょうど俺の頭があった辺りで静止していた。


 ここまで肝が冷えたのは久しぶりだった。背後の男への恐怖というよりも、金属バットの危険性を改めて目の当たりにしたからだろう。

 タタタッ、という小気味のいい銃声がすぐそばで聞こえた。視界の端では女が片手で拳銃を構えているのが見えた。男がうめき声を上げたのが聞こえたが、ボールが当たった時のような軽いものだった。


「フーコ、自分何やってるかわかってるのか?」


 街中に聞こえそうな怒鳴り声を上げる男の胸辺りには、きちんと三つの銃創があった。だんだんと広がっていくシャツの血のシミをものともせず、彼は屈んで地面の砂利をひとつかみ取った。ピッチャーのように振りかぶったのを見て、再び頭を引っ込めた。犬の入ったケージを全身で抱えて、攻撃に備えた。

空を切り裂く音は、同時に複数聞こえた。背中越しに、木が何度か揺すられ、体のすぐそばを何かが通り過ぎた。

 彼女はすぐに片手を木から出して、男に向かって引き金を引いた。再び、連続した三つの銃声が鳴る。敷き詰められた砂利の上に、重いものが倒れる音がした。

 かごの中の犬を思い出して、中を覗いた。人懐っこい顔をこちらに近づけてくる。先ほどの銃撃戦の間、一度も吠えなかったのが不思議でならないくらい、元気そうな様子だった。


「急いで」


 苛立った女の声と共に、腕が引っ張られた。立ち上がって、さらに敷地の奥へ向かう。北原の依頼は、犬を傷一つつけずに取り戻すことだ。俺はペットキャリーを抱えて先を急いだ。背後では騒ぎが起こり始めているが、まだ遠かった。

 屋敷の裏手には、くりぬいた石垣に金属製の扉が嵌っていた。


「待て」


 裏口の扉に手を掛けたと同時に、聞き覚えのある声がした。女が片手で俺の背中を押した。銃声がして、振動が背中に伝わってくる。俺は振り返ることなく、門をくぐった。目の前の道路に、一台の無人タクシーが停車していた。

近づくと、彼女の顔を認識したタクシーがドアを開けた。乗って、と言って彼女が俺の背中を押した。後部座席の右側まで彼女に押し込まれる。彼女が隣に座る。

タクシーはドアを閉めて、走り出した。行き先は同じ町内の吉田組組長の自宅に設定されていた。

振り返って誰も追ってきていないことを確かめてから、俺は口を開いた。


「浦ノ島という力士を知っているか?」


俺が相撲取りを選んだのは、先ほどの護衛がそう見えたからだろう。


「報道で何度か。それが何?」

「彼は学生時代、レスリング畑で名をあげたんだが、高校卒業と同時に親方からスカウトされて相撲部屋に入ったんだ。インハイで優勝経験もあるほど強靭な肉体が、土俵の上でも通用するのは当然だった。デビュー直後の場所から番付が上の力士からも星をいくつも奪っていったんだ。実力はあった。だがどうしても、大関昇進はできなかったんだ。なんでだと思う?」

「さあ。膝の怪我を引きずっていたとか?」


 俺の問いに答えてはいたが、彼女の視線は反対車線の車通りを茫然と追っていた。あからさまに興味のないことを伝えてきているが、俺は彼女の態度を無視して話し始めた。


「いや、結構な頻度で髷を掴んで反則負けになってしまったんだよ。学生時代のレスリングでは問題なかったからね」

「おじさん、何が言いたいの?」

「レスリングも相撲も、使う筋肉は共通しているものが多い。だからこそ、レスリングで活躍していた浦ノ島は、力士としても活躍できたんだ。決して、それに驕って彼が相撲の細かなルールをおろそかにしていたわけではないだろう。ただ、レスリングで培った肉体を流用したことで、結果的にレスリング時代の癖が土俵の上でも残ってしまったのだろう」


 隣に目を向けると、彼女は眉間にしわを寄せて俺を見つめていた。俺は一呼吸おいてから続けた。


「君の母国では、タクシーもボールも犯人も、キャッチするものなのかもしれないが、この国でタクシーは、犯人と同様に捕まえるものだ」


 彼女はバツが悪そうに顔をしかめた。


「ポルトガル、いやスペインか?」

「半年前、一人の将官がNCIAgencyから電脳兵器に関わる技術を盗み出した――」


 彼女は俺の質問に応じずに話を続けた。


「――その将官はその兵器を販売するために、日本に潜伏していることが判明したの。私はソイツを追って潜入捜査をしていたのよ」

「こいつもその兵器なのか」


 俺はケージの中の犬を指した。彼女は首を横に振った。


「厳密には違うけどね」

「俺に来た依頼は、この犬を無傷で届けることだぜ」

「構いやしないわよ。ワンちゃんの争奪戦になっているのは、ソイツが持ち込んだ技術によって、そのワンちゃんに吉田組の機密情報が埋め込まれているからなのよ。読み出そうとしているのは関西義鵬会の方だし、私は義鵬会と機密窃盗犯のつながりがわかったからもういいの」


 タクシーが停まった。木でできた和風の門扉の横には「吉田」の表札が掛かっていた。彼女に礼を言って降車した。

 屋敷に向かって歩き出したところで、後部座席の窓から顔を出した女が俺を呼んだ。


「そのワンちゃん、早めに尻尾を切ってあげた方がいいわよ」


 その言葉の意味を理解しかねて黙っていると、彼女は窓を閉めながら続けた。


「じゃあね、《先輩》」


 そう言い終わるころには、タクシーが走り出していた。腕の中のペットキャリーがせわしなく揺れていた。中の犬が、自分の家を認識してそわそわとしているようだった。

雲はさらに厚みを増して、今にも降り出しそうだった。街のどこかでサイレンを鳴らしたパトカーが走っていた。背後を確認したが、義鵬会からの追手はまだ来ていないようだった。俺は足早に屋敷の前に向かい、ベルに手を伸ばした。


「ワン」


 犬が嬉しそうに鳴いた。すぐに扉が開いて、和服姿の組長夫人が飛び出した。強面の屈強な男たちばかりであったが、化粧品の匂いが一段と強い空間だけ見れば、それはほほえましい光景であった。


◇◇◇


 邸内で襲撃があり、警察が向かっているということで、私たちは急いで屋敷を後にした。義鵬会との話の途中だったが、話自体が破談になったので、小松総裁の屋敷に留まる必要はなかった。警察車両と鉢合わせしないように細い道をゆっくりと走る社用車の中で、私はある人物の調査報告書を見ていた。そこにはENISAの諜報員の情報が乗っていた。隣に座る寺内さんが見せてくれたものだ。彼は採用担当とは名ばかりに、将来有望な他社の技術者だけでなく内外で活動するスパイの身の上まで調査していた。


「マサミ・キャメロン、ですか。つかみどころのない名前ですね」


 寺内さんが、頭を突き出すように頷いた。彼は、自分の生身の体を動かしていても、ときおりハトの癖を出すことがあった。ただの癖と言えばそれまでだが、それを目の当たりにすると会話の内容よりもその奇妙な動作を意識してしまう。彼がびっしりとつけている社長賞ほかの略綬はもはや目に入らない。


「だから義鵬会に潜伏していたのかな」


 彼は真面目そうに言った。

 警察は抗争を警戒して、すでに桐山組や吉田組の関係先を見張っていた。そのさなかに小松総裁の家でも襲撃があったわけだから、町内に警察が多いのも理解できるが、それにしても車は同じところをグルグルと回っているようにしか思えなかった。できれば早く帰社して次の計画を話し合いたいところだったが、これではこの町をでるまでに何時間かかるかわからなかった。

 ワイパーが動き始めた。しばらくしてから、雨粒が車の屋根を叩き始めた。


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