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 出した時と変わっていない《かさ》の茶碗をシンクで逆さまにした。一切口をつけていないとわかっていても、あのオバさんに出したお茶の残りを飲むのは憚られた。


「若頭といったら実務上のトップよ。抗争が始まった朝にそんな人がこんな犬小屋に来るなんてねえ」


 食器を洗っている最中に、後ろで社長が虚層に浸りながらおもむろに呟いた。


「そんなに犬が重要なんですかね」

「まあ『家族の一員』なんでしょう。あの人にとっては」


 社長はわざと組長夫人の方の言葉を引用した。俺はそのことを無視した。皿洗いの時の会話は口寂しくなければそれでよかった。


「家族というよりも、ただのペットでしたけどね」

「そうよね。新しく家族になるなら、二人の中にお互いの意思が存在しないと」

「姐さんにもそんな人がいたんですか」

「籍は入れなかったわ。自慢じゃないけど、いい二人だったと思う」


 流しでの作業のついでに、ブラインドの隙間から外を覗き見た。雲が空を覆っているが、そこそこ明るい、中途半端な天気だった。


「残りの人生を共に歩めるとしても、相手は所詮他人なのよ」


 振り返ると、社長は懐かしそうに遠くを見つめていた。

 六度目の抗争が始まったばかりということもあり、虚層には桐吉抗争関連の報道が集まっていた。しかし、そのほとんどは市民への被害を憂いていたり、抗争が始まるまで暴力団を野放しにしていた官憲を批判するといった、紋切り型のものばかりだった。


 組長は上に立つだけで、実権はその下の若頭が握っているというのは、多くの組織と同様だが、吉田組は他よりも分担が進んでいるようであった。度重なる抗争を耐えてきた吉田組の指揮を執っているのは若頭の北原だという。

 混乱の最中で組長の吉田邦夫は構成員の精神的支柱となるだけで、口を出すことはない。組長がその手腕を発揮するのは抗争の末期からである。彼は自分の組が有利な条件で抗争を終結させることを得意としていた。組長は相手との交渉や、中立的な他の組織への根回しなど、もっぱら抗争の裏側で活躍しているとのことだった。

 判で押したような記事で食傷気味になる中で、限られた記事だけが組の内情まで詳らかにしていた。それらの記事を最後まで読めば、同じ人物が執筆したものだと気づくだろう。フリーライターの朝井篤は神戸近辺の暴力団事情に通じたフリーライターとのことだった。


 もっとも、彼の記事が掲載されているのはどれも実話系のカストリばかりだった。ただただ耳目を集めるために、デタラメなことを書いている可能性もあった。しかし、彼の書く記事にそこまで下世話な内容があるわけではなく、組長夫人の姿を見れば、旦那の吉田邦夫が裏での立ち回りに長けていることも想像がついた。

 街はずれの純喫茶「江粍」は、見るからに闇の情報屋が暇をつぶしていそうな店構えだった。その一番奥の席に、フチなしの薄い紺が入った眼鏡をかけた男が座っていた。髪はワックスで後ろに上げてあり、唯一残された口髭は野暮ったく見えるように整えてあった。


 フリーランスということもあり、朝井は市井からの情報提供を歓迎していた。だが彼がいつも日中を過ごしている江粍でだけとのことだった。

 もしかしたら彼が対面でのコンタクトに拘るのも、裏社会に精通したジャーナリスト像のプロデュースなのかもしれない。だとしたら若干詰めが甘い感も否めない。珈琲を一口飲む仕草がすでに、彼の生真面目さ――病的なものではなく責任感から来る、頼りがいのある方の――をバラしていた。


「怖がらせてしまったら失礼。こういう世界では、格好から勝負が始まるものでね」


 俺は黙って彼の前に座った。彼はそれまでしたためていたメモ帳を閉じて、シワも汚れもない表紙を出してポケットにしまった。


「六度も抗争をやる目的は、一体何なんだい?」


 第五次桐吉抗争終結に際して彼が執筆した記事では、近畿最大級を誇る関西義鵬会が桐山組と吉田組の仲裁を行ったと説明されていた。関西義鵬会の総裁として君臨する小松猛志は桐山組組長の義理の叔父、吉田組組長の義理の弟という立場である。そして抗争終結に当たって、度々抗争勃発の原因となっていた桐山組と吉田組の収入源の重複問題も是正してあるはずだった。


「載せてもらってる雑誌は碌でもないものばかりだが、これでも文章で食べているんです」


 彼は穏やかな笑顔を浮かべながら、突然押しかけてきた俺を落ち着かせるようにゆっくりと言った。


「まだ掴めてないならかまわない。だが記事として発表できない文章なら、それはもう産廃ではないのかい?」


 兵庫県内でヤクザ同士の抗争が起こったとき、その情報を事前に得ているのだろう、朝井はすぐに渦中の組織の立場や目的を詳解する記事を上げていた。しかし今日、第六次桐吉抗争が始まったというのに、彼は優雅に珈琲を飲んでいた。


「情報が価値をなくすのは大衆の記憶に残ってしまった時に限るんですよ」

「ここで知られていなければ、ここで高く扱ってくれるのか?」


 俺は尋ねながら、人差し指を小さく回した。彼は顔を曇らせながら胸の前で腕を組んだ。


「ええ、リカードも言ってます」

「旧東京の汚染区域を仕切っているのはどこか知っているかい?」

「東京復興府でしょう」

「名目上はね。だが彼らが気にしているのは油蝕症患者の発生だけだ。防蝕壁の内側で実権を握っているのは、現地のマフィア組織だよ」


 朝井は胸の前の腕をほどいて、組んだ両手をテーブルの上に置いた。俺に話の続きを促しているようだった。


「西部はアジア人が多い。少し前まで旧渋谷区全域は華幇が仕切っていた。だが若い成員の間で頭角を現していた薬物売買担当の田智裕が中心となって蘇明盟を立てて、華幇と対立しているんだ」


 店員がちょうどいいタイミングで珈琲を運んできた。俺は黙ってミルクと砂糖を入れていると、朝井が両の掌を上に向けて話し出した。


「昨年白寿を迎えたが小松猛志総裁はまだピンピンしています。未成年の愛人だけで三人抱えているという話です。ヤクザは仁義の世界、つまり――」


 彼は顔を赤らめながら、両の拳を何度か回して小さく突き出した。それがブルースリーの真似だと理解するのにしばらくかかった。


「――カンフーのロジックが支配しています。一般論から言って、いくらマメドロの江口とはいえ、小松総裁の目が黒いうちに長幼の序を破るなんてことはありえないんですよ」


 俺は混ぜ物で味の鈍くなった珈琲を一気に飲み干してから、席を立った。


「一つ教えて欲しいんだが――」


 俺は去り際に振り返って尋ねた。


「――総裁の小松は目立ちたがり屋かね?」


 朝井は本当に可笑しそうに顔をほころばせた。一通り笑い終えると、彼は口を開いた。


「当たり前ですよ。でなければ、あんな派手な家には住めません」


 俺は急ぎレジへ向かった。小銭を投げつけるように支払い、レシートが印字されている間に喫茶店から外に出た。風に吹きつけられたのか、雲同士の間にできた隙間は大分広がっているようだった。

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