2

 ドアが勢いよく開かれたのは、五つ分のコップをお盆に載せ終えた頃だった。乱雑に押された扉は勢い余って壁にぶつかり、音を立てた。ドアの向こうには泣きはらして目を赤くしたご婦人が立っていた。その後ろにはいかめしい顔を浮かべた男が二人いた。

 和装をした彼女は、タンブラーのような体形の還暦前後の女性だった。厚い化粧はメリハリのある色遣いで、それが余計に彼女をヒステリックに見せていた。

 二人の男はどちらも、カタギの目つきはしていなかった。二十を過ぎたばかりであろう若い男は趣味の悪い縦縞模様の背広のポケットを重そうに膨らませていた。まだ幼さの残る目で、こちらを目一杯睨みつけくる彼は、客というよりも餌を横取りされまいと威嚇してくる野性の猿のようだった。その一方で、もう片方の男は悠然と周囲を見回していた。四十前後であろう男にしては少々年寄りくさいが、品の良い紺のスリーピースを着ていた。


 そんな二人の男を従えた女は困った様子を見せていたが、困り果ててはいなかった。まるで我々が助け舟を出すのが当然といった風に、憮然とした態度で事務所を眺めていた。挨拶もせずズカズカと事務所に入り、テレビの前で突然崩れ落ちた。

俺は突然のことに驚き、ご婦人に駆け寄ろうと一歩踏み出した。すぐさま、鋭い感触を肌に覚えて顔を上げると、若い方の男が俺の方をまっすぐに睨んでいた。それから彼はご婦人の傍で膝をついて、彼女をなだめていた。

 しかし、若い男の慰めの甲斐はなく、ご婦人は重いものをこすり合わせたような耳障りな泣き声を事務所に響かせ始めた。

 それまで事務所の外で様子を見ていた、年上の方の男が中に入ってドアを閉めた。そして、俺の方を向いて目で会釈をした。マフィアならではの鋭い視線ではあったが、こちらへの敬意もこもっていた。


「女将さん、落ち着いて。これでは依頼できませんよ」


 年上の男が低く穏やかな声で、嗚咽を漏らすご婦人をなだめ出した。それは、多少のことで血が上らなそうだが、必要なら暴力も辞さない、そんな雰囲気の籠った声だった。

 若い男に支えられて、ご婦人はしゃくりあげながらもソファに座った。俺は黙って人数分のコップをテーブルに並べた。

 耳障りなガイジンの音楽に眉をひそめながら、彼女はゆっくりと目の前のコップを持ち上げた。彼女は飲む前に手の上でコップを回しながら、その縁をじっくり観察していた。心外に思いながらコップを検める様子を見ていると、ふいに視線を上げた彼女と目が合った。しかし、彼女はムスッとした視線を送って、再びコップの縁を見始めた。


 美しい川の模様が描かれた和服の膝の隣には、粉埃で白くなった若い男のスーツの膝が並んでいた。

 本来なら水を向けるべきなのだろうが、俺は黙って女が口を開くのを待っていた。涙に魔力が籠っていると信じているヤツは反吐が出るほど嫌いだった。視界の奥には、醜い厚化粧でも隠し切れないほど業深い権力欲が渦巻いていた。この女は、純粋に人の上に立つことに恍惚を感じるのだ。こうやって涙を流せば、誰もが自分のために張型に変貌してくれると思っているのだ。俺はそうやって誰かのディルドやオナホとなるのも嫌いだった。


「マルが、私のマルが……」


 ようやくご婦人が口を開いたかと思ったが、すぐに袖に顔を埋めて泣き出してしまった。いわゆる魔女と同年代くらいにしては、幼すぎる話し方だった。

 若い方は、自分よりも幾周りも年上の女性が感情的に泣いている様を前に、目を白黒とさせていた。一方で年上の男は、ソファに深く座ってご婦人を根気強くなだめていた。年上の方の振る舞いは、ご婦人のお望みのものだろう。自らの行為がご婦人の我儘に付き合わされているだけだと、彼が気づいていないはずはなかった。だが甘んじて張型として振る舞うのを受け入れているのは、それが自分の義務だと捉えているからなのだろう。彼にはそのようなかたくなさも感じられた。


「申し遅れましたね、こちら吉田組組長夫人の吉田朋恵、こいつは藤枝、それから私が北原です」


 さすがにしびれを切らしたのか、年上の方が言った。ご婦人は袖で涙を拭いながら、若いのはこちらを睨みつけながらそれぞれ会釈をした。

 社長はようやくといった風に、ゆっくりと脚を組んでから口を開いた。


「うちにデンモクはないんですよ」

「依頼したいことがあるんです。組長の……」


 北原が説明を始めたところで、ご婦人が突然顔を上げた。そして彼を手で制して言葉を遮った。


「うちのマルを、ブルドッグのマルを探してください。犬とはいえ、私の家族の一員なんです」

「犬捜しですか」


 俺のその言葉には、残念だという気持ちが露わになっていたらしい。ご婦人が目を剥いて俺を睨みつけた。そこには俺に対する幼い敵愾心が多分に宿っていた。幼いほど何をしてくるかはわからない。その分だけ怖いものだ。俺は口を開いたことを後悔した。


「うちのマルはそこらの駄犬とは違うんですよ」


 先ほどの涙はどこかへ引っ込んで、彼女は代わりに唾を飛ばしながらヒステリックに続けた。


「セントラルケンネルクラブの血統書があって、遺伝子もデザインした、正真正銘のブルドッグなんです」


 そう言って、ご婦人にすごまれた。目は鋭く吊り上がって、周りの厚化粧が剥がれそうだった。彼女は俺を、話の通じない野蛮人を見るような目で睨んでいた。委縮はしなかったが、彼女に対する怒りは高まった。自分の価値観が万人に伝わると勘違いしているヤツを見ても虫唾が走り出す。


「そんな優秀なワンちゃんが、どうしていなくなっちゃったんですか?」


 社長はへりくだった口調で言った。


「あなた新聞をご覧になって。今朝方、うちの若いのがマルを散歩中に、桐山のヒットマンに殺されたの」


 彼女は続けて、大きめに呟いた。


「死んでまで役立たずだったとは思わなかったわ」


 隣で静かに聞いていた北原の眉がわずかに震えたようだった。

 契約をまとめた事務所に残されたのは、一枚の写真――老人のような顔の犬と吉田組長夫人が写っている――と北原だった。下で野太いエンジン音が去っていくのを聞き届けてから、北原が口を開いた。


「先ほどの者の非礼をお詫びいたします」


 若頭の北原が表情を崩さずに頭を下げた。だがその下げ具合は深いものだった。


「どちらの?」

「若い連中は威嚇するのが仕事みたいなものなので、お許しください」


 俺の質問を無視して北原が続けた。


「生憎――」


 社長がわざと気だるそうに口を開いた。


「――マルを生きたまま連れて帰るようにという依頼を先ほど受けてしまったの」

「二枚舌にはなれませんか?」

「ピアスもタトゥも親に強く禁じられているの」

「では、条件をさらに狭める依頼なら?」

「詳しく聞かせてもらえるかしら」


 ソファにもたれかかっていた社長は、興味を持ったのか、腰を前にかがめて北原に近づいた。


「マルが傷ひとつ負わない、という条件を加えさせてもらいたい」

「ジーンリッチな闘牛犬ブルドッグじゃないの?」

「だから、と考えて頂いてかまわない。それから――」


 北原は一度眉をひそめた難しそうな顔で床を見つめてから、再び口を開いた。


「――引き渡しの期限を明後日に設定させてもらいたい」


 組長夫人の依頼には、特に期限を設けていなかった。但し、犬の寿命を考えれば十年もないだろうし、それほどあのご婦人が堪えられるとは考えにくい。しかし、二日後というのはいきなりすぎる。だが彼女はその依頼に難色を示さず、むしろ目を輝かせた。組長夫人に提示した額の五倍を提示して、若頭の北原はあっさりと承諾した。

 失礼、と口を開いて、終わりかけの交渉の場で注目を集めた。北原がしばらく訝しむような視線を俺に浴びせてから、ゆっくりと頷いた。


「北原さん、あなたもうマルがどこにいるかわかってるんじゃありませんか?」

「さあ。犬の徘徊先には見当もつきません。ただ――」


 彼が考え込むように視線を外したのはほんの一瞬だった。


「――今朝うちの者が襲撃されたのは組長宅から目と鼻の先です。あの辺りはやくざ者の家が集まっています」


 抗争の渦中にいる組の若頭だというのに、恐れた様子を見せず堂々とした足取りで北原は事務所を出ていった。だが彼に出した緑茶はきれいに飲み干されていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る