くだらないペット探し
1
むせ返るほどのウイスキーの匂いで目が醒めた。その匂いは息を吸うたびに立ち上ってくるようだった。服は着ていたが、胸のあたりはじっとりの濡れている。確かめようと腕を上げようとしたが、手首がきつく固定されていてできなかった。足も固定されていることに気が付いた。
どうやら椅子に座らされているようだった。体を揺すったが、拘束が緩まないどころか、椅子すらビクともしなかった。
小指に鋭い痛みが走った。幻痛かと思ったが、痛むのは残っている方、右手の小指だった。心臓が跳ね上がる。小指の先を見たかったが、拘束されて手首は自由に動かせなかった。
電灯がついた。コンクリート造りの地下室だった。壁はまだらにカビていて、うちっぱなしというほどお洒落ではない。人目を避けるためだけに設けられた部屋だろう。
目の前の小さな丸テーブルの上には、可愛らしいフォントで「ジハクリン」と書かれた紙箱が倒れていた。箱からこぼれた包装シートには三錠分の空きがあった。その隣には四分の一ほど空いた安ウイスキーの瓶も置いてあった。
「人のうわさも七十五日やけど、機密はもっと短いんやてな。それも、機密は噂と違うて苦しみに代わるらしいで」
北原が扉を開けて入ってきた。穏やかな笑みを浮かべていたが、その目には老獪な光が宿っていた。
彼は何かを丸テーブルに置いた。それはテーブルの上を転がって、ジハクリンのパッケージにぶつかって止まった。それは入力ニードルだった。ステンレス製のニードルの表面は輝きを失っていた。そこには乾いた血がついていた。
心臓が早鐘をつく。だが頭からは血が失せていく。肺が短い呼吸しかできなくなる。体中の震えを押さえて、どうにか言葉を継いでいく。
「アニキ、俺が間違ってました。オヤジやアニキのご恩を忘れていました。指はいくらでも詰めますから……」
「お前もまだ若いんや、最後の〝小指〟まで詰めることはあらへんよ」
彼は膝を折って、なだめるように頭を撫でた。だがその力は段々と強くなり、髪の毛を力いっぱい引っ張られ、首を曲げられた。上を向いた右耳に彼の口が近づく。
「ここでよく頭冷やし」
彼が穏やかな声で言った。失敗した子供を慰めているように聞こえるだろう。だが背筋に寒気が走った。
「また三日後な」
拘束は固く、うまく力が掛からないように工夫までされていた。いくらもがいても、金具は微動だにしない。
右手を見る。小指はまだ残っていた。血色もいい。だがこの間にも、その内側では情報の複製が行われていた。三日後までにはほぼ確実に誤写されて、その情報が牙をむくのだろう。
「殺してくれ」
叫び声はカビの生えた壁に跳ね返るだけだった。小指は右手と強く繋がって、離れようとしなかった。
◇◇◇
「この事件なんてどうでしょう?」
ソファに寝転ぶ社長に、開いた週刊誌を見せる。その頁には「ロケクルーを襲った悲劇!孤島の完全犯罪」と題された記事が掲載されていた。しかし、彼女は気にも留めない様子だった。
「絶海の無人島、六黒島に建てられた洋館で殺人事件、それも島に滞在していたロケクルー全員にアリバイがあるなんて、探偵の出番でしょう」
無視を続ける社長にめげずに続けると、彼女はようやく反応してくれた。と言っても、目だけを誌面に落としただけだった。一瞬だけ目が輝いた。しかし、すぐに落胆したようにため息をついて、視線をテレビに戻してしまった。
テレビでは美浜福子の歌うポップスが流れていた。バラエティ番組のテーマソングになったその曲は、サビの特徴的な旋律と、社長がその番組を好んでいるという関係で、俺の頭の中で独りでに流れるときがあった。
「退屈……」
彼女は小さくつぶやいた。
「だから六黒島へ行きましょうよ」
「それが退屈なのよ」
「じゃあ、真相がわかったんですか」
俺は思わず跳び上がってしまった。
「退屈な真相よ。憤慨する読者もいるでしょうね」
「教えてくださいよ」
だが彼女は決して俺の頼みには応えてくれず、ただソファに突っ伏して、退屈だと嘆き続けるばかりだった。月曜日のまだ十時を過ぎたばかり、次の週末までの五日間が思いやられた。金さえもらえるなら退屈には慣れている。しかし、八つ当たりのように退屈に対する愚痴を聞かされることは慣れていなかった。
湯気の立つカップに口をつけて、昼前の分まで飲んでおく。デスクの縁から垂れたケーブルを捕まえて、首の後ろの端子に接続する。虚層の景色が視覚に直接注ぎ込まれる。ついでに聴覚も虚層に切り替える。
「たいく……」
社長の怒りの叫びが寸断される。
虚層で特別することもなかった。いつも通り、今朝の報道に目を通すだけ。いつもと違うのは、コーヒーが飲めず、手元に電紙がないことくらい。目の前に広がる虚層は離散的な光景で、口の中に残る芳醇なインスタントコーヒーの感覚が非現実的だった。
東亜経済新聞虚層版では、EUの商務相が来日し、全経会の会長や情産連の代表と会談した旨を伝える記事が注目を集めていた。二日目の昨夕、電子化運動指令の亜欧共通規格開発の推進に関して両者が一定水準の合意をしたことを長々と述べていた。その大半が、合意に至るまでに行われた複雑怪奇な交渉についての解説に割かれていた。
地球規模で狡猾な交渉戦が行われている一方で、第六次桐吉抗争が幕を開けたようだという関係者の証言ベースの記事が関西近辺で閲覧数を伸ばしていた。前回の抗争終結から半年を待たずして、吉田組の組員である長谷川勇(26)が組事務所付近の路上で射殺された。
桐山組の組員がすでに出頭しているが、それですべてが丸く収まるわけではないのが、彼らの社会のしきたりだ。むしろ官憲からの追及を排除して、両者が抗争に集中するためのデコイでしかない。
第五次抗争で逮捕された組長に代わって桐山組の実権を握るのは、代行の江口という男だった。桐山組がトップの不在の中で地盤を立て直し、今回では抗争を仕掛ける側に回ったことが、これから起こる熾烈な流血沙汰を予言しているようだった。
ドスドス、という振動が足元だけではなく、椅子を通じて腰にも伝わってきた。生電接続を切って、全ての感覚を実層に向ける。ドアの向こうから、誰かが階段を昇ってくる足音が聞こえていた。音からして、上ってくるのは三人。その内の一人が立てる地を揺らすかのような力強い足音は感情的に乱れているように聞こえた。
先ほどまで退屈に苦しんでソファで倒れていた社長は、頭を上げて、足音のする方に向けていた。まるで、主人の足音に気が付いた玄関の忠犬のようだった。
「ゲストは三高ィッチマンのお二人です」「高校の学祭の時のコンビ名だよ。そんな名前じゃ間が肝……」
生電接続を切って耳に入ってきたテレビの音が唐突に途切れた。社長が手早くテレビの電源を切り、ソファでかしこまって座っていた。俺は立ち上がって、五人分のお茶の用意を始めた。
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