8

 約束していた日、玉井が事務所を訪れたのは十時ピッタリだった。その日は実験映画のポスターをプリントしたシャツに濃紺のジャケットという、これまた派手な格好だった。

 依頼された調査を終え、事務所は片付いていた。玉井がドアを開けた時、社長は眠そうな目を擦りながら、眠らないように頑張ってテレビを観ていた。新聞の上からはみ出た彼の顔は不安と当惑の色を浮かべていた。玉井に気が付いた社長は、ノソノソと起き上がって、コーヒーを一気に飲み干した。苦しそうに唸りながら飲み下すと、多少は冴えたようだった。


「玉井さん、お待ちしておりました。依頼された分の情報は十分に集められたので、報告したいと思います。さあ、座ってください」


 彼女の言葉はハッキリとしていた。しかし、玉井はまだ不安そうな目で社長を見ていた。何を警戒しているのか、ソファに座るときも恐る恐る腰を下ろしていた。

 俺はブラインドを締めて、プレイヤの電源を入れた。お茶と、調査報告書を玉井に渡した。


「虚層商店〝ウラフル〟を運営していたのは広川という無職の男です。しかし、彼はいわば小売り業者でした」


 社長は、玉井にその都度ページめくりを促しながら、大まかな報告を続けた。


「広川の扱う商品を盗んでいたのは、彼の大学時代の同級生だった真田という男です。これは広川も証言していました。真田はいまダイナミック企画でADをしています。画像から品物となっていたのはこのメーカーの使い捨ての業務用歯ブラシでほぼ間違いないでしょう。ウラフルの更新記録から歯ブラシの入手時期も大体判明しました。この期間に、真田は〝ミステリアドヴェンチャ突撃隊〟の撮影で、美浜福子は〝特報モーニング〟の出演で同じ時間帯に同じテレビ局にいました。ここはこのメーカーの歯ブラシを使っていることもわかっています」


 報告書を読む玉井の口は半ば開いたままだった。彼は、仕事の速さに驚いているようだった。


「したがって真田が盗んでいたとみて間違いないでしょう」


 言い終えると同時に、社長が両手で膝を叩いた。しかし玉井の手元の報告書は一ページ余っていた。単純に疑問に思ったのか、彼は最後の一ページを開いた。そのページに目を通した彼の顔色が青ざめていくのがわかった。

 社長が片肘を膝に乗せて、前かがみになった。ずる賢い笑みを浮かべて、焦りを見せる玉井に問いかけた。


「本当に知りたかったのはこっちなんじゃありませんか?」


玉井は何も答えなかった。しかし再び不安そうな表情が彼の顔に戻っていた。それが返答の代わりになっていた。


「歯ブラシが売られたのは結構前の話です。ウラフルが開かれたのはさらに前だ。耳聡い業界の方々が今さらウラフルの存在を知ったとは思えない。当初あなた方はウラフルの存在をさほど問題視していなかった。しかし、美しいと評判のタレントやアイドルたちと瓜二つの女性たちが働いているヘルスの噂を聞きつけた。そこでフッコの歯ブラシの件を思い出して恐れ慄いたのではありませんか」


 尋ねる文章だったが、彼女はほとんど断定するような口調だった。当然玉井は微動だにせず、ただ彼女の話を聞いているだけだった。


「他の事務所は彼女と似た系統の顔をしたタレントを売り出しているが、所詮美浜福子ではなくその劣化コピーでしかない。それが彼女と寸分たがわぬ美人が活動を始めたら、トライシの牙城が崩されてしまう。あなた方はそれを恐れていたはずだ」


 しかし、と社長は玉井の肩に手をついて呼びかけた。


「玉井さんの心配は杞憂に終わりました。少なくとも美浜福子に関してはね」

「ほ、本当ですか?」


 玉井は震えた声で尋ねた。彼女は慈母のような微笑でうなずいた。


「美浜福子の遺伝子から培養された彼女のコピーは、すでに艶弁天をクビになっています。『神の悪戯』とかやたらにフッコを自然派美人だと触れ回っていますがね、玉井さんこれを見てくださいよ」


 彼女は報告書のある場所を指さした。玉井もそこに目を落とす。彼は途端に、悲喜こもごもといった表情を浮かべた。そこには、フッコに似ているが彼女よりも野暮ったい顔つきの女性の顔が写っていた。


◇◇◇


 昼前のスナック〈黄昏〉には、客はおろかママすらいなかった。彼女の遠くまで届く関西弁がない店内は、静かを通り越して寂しかった。


「思ったより早かったんですね」


 カウンターの向こうの日向が言う。


「事務所の仕事で偶然わかったんだ」


 彼女は目を丸くする。俺は謝礼の焼酎を入れたグラスを傾ける。空いた腹にアルコールが流し込まれ、カッと熱くなる。軽い酔いで恐れを忘れた俺は、覚悟を決めて口を開いた。


「一つ謝らなければならないことがあるんだ」

「なに?」


 彼女は俺に微笑みかける。


「仕事で偶然とはいえ、君の過去も知ってしまった」

「構やしないわ。すぐに純粋な過去になるんだから」


 彼女はあっけらかんとした様子でそう言った。まるで本当に自分のすぐ先の未来を知っていて、それについて自分の中できちんと整理を終えたかのような振る舞いだった。


「それで、フッコちゃんはいま?」

「とある大学生と同棲しています。大学と並行して制作会社のバイトもしていて、ある程度は収入もあるそうです。彼の人間性に特段危険視するべき要素はありません。つつましいけど幸せそうに暮らしています」


俺が報告を終えると同時に、彼女が食器の片づけを終えた。


「フッコ、スズキの幼魚の呼び名ですね」


 彼女がゆっくり頷いた。仕事を終えた彼女は俺の前に腰を下ろして、安らかな表情で店の奥を見つめていた。彼女の頬に一筋の涙が伝う。

 バイオマトンを工業的に大量生産する場合、ごく稀に寿命の短い個体が生産されることがある。大手の場合、出荷以前に〝不良品〟として弾かれるが、闇で作った場合はその限りでない。彼女はそうして出荷され、社会性を植え付けられた人形だった。

 彼女はハッとなり、手の甲で頬を拭った。その行為が多数のソロバンを弾いた末のものであるとは、分かってはいたが信じられはしなかった。ここまで精度の高い社会性モデルが民生品への搭載を許可されているとは思えなかった。


「一杯貰ってもかまわないかしら?」


 彼女が尋ねる。俺は空のグラスに焼酎を注いだ。はあ、と一口飲んだ彼女はとてもおいしそうに息を吐いた。それから勝ち誇ったように俺を見た。俺はどうしても、素直に笑うことができなかった。やめてよ、と彼女は困ったように笑い声を上げた。


「幸せな境遇が目の前に広がっているわけじゃないの。ただ無意味に繰り広げられる現実に対して、人が勝手に幸不幸を決めるだけなのよ」


 はは、と俺は乾いた笑い声を漏らすしかできなかった。


「それに、もういつ死んでもいいよ。人が何かから逃れようとするのは、今の生活を諦めきれないからだと、私は思うの。死ぬのが怖いのもその理屈じゃないかしら。残された家族や友人を悲しませたり困らせたくないから、死ねないのよ。でも私は死ねる」


 俺には彼女の告白は重大なものに聞こえた。しかし当の彼女はケロリとしていた。彼女の目に迷いや恐れはなかった。それに重大な決心をした風にも見えなかった。彼女にとっては週末のパーティへの出席くらいのものでしかないみたいだった。

 何と言えばいいかわからなかった。引き留めるのは俺のエゴでしかないと思った。彼女と俺とでは根本的な考え方が違うような気がしたからだ。彼女を説得するのは、日本語の文章に英文法の添削をするようなものだ。

 もちろん、と彼女は続けた。


「痛いのや苦しいのは嫌よ。でも、私が死んでも誰も困らないもの」

「しかし、お店は?」


 私が尋ねるのを予想していたかのように、彼女は迷わず首を横に振った。


「きちんと伝えてあるわ。それにママは強い人よ。私一人が欠けたってお店は続けられるわよ」


 でもね、と彼女は俺の目をまっすぐに見て続けた。


「だからってヤケを起こさないでね、バーナードさん。あなたは自分に課した義務を果たせないでいることに悩んでいるでしょう」

「よくわかったね」

「前に仰っていたわよね、自分は弱いって。それは違う、あなたは強い人よ。きっと義務は果たせるわ。だからってヤケを起こしちゃだめよ」


 彼女は俺に念を押して言った。それから彼女はおかしそうに笑い声を上げた。酔いが回っているのだろうか、彼女は頬を赤らめていた。


「こんな私が言うのもおかしいわよね」


 彼女はグラスを空にして、立ち上がった。そして、ふわふわとした足取りで店の奥へ歩いていった。そのまま彼女が去ってしまうような気がした。


「待ってくれ」


 俺は意を決して彼女の背中に呼びかけた。日向は立ち止まって、ゆっくりと振り返った。


「君の生まれた場所を教えて欲しい」

「それがあなたの忘れ物につながるのね」


 彼女は唇を噛みしめて下を向いた。


「でもごめんなさい、あなたの助けにはなれそうもない」

「そうか、ボトル一本だけだったね」

「違うの。私が覚えていることは少ないの。だから申し訳ないけれど……」


 彼女は伝票の裏に絵を描いた。そこには、鉄格子の小さな隙間から見える工場と思われる建物が描かれていた。どこにでもありそうな、工業団地の風景だった。

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