7
「魚の名前で、人名みたいなものってありますか?」
女性で、と俺は付け加えた。社長は隣で車のハンドルを握っていた。彼女は目を前に向けながら、ブツブツと魚の名前を呟いては、独り首を横に振るという動作を何度か繰り返して考え込んでいるようだった。
「魚介類じゃなくて、魚類で?」
しばらく考え込んでいた社長は苦し紛れにそう尋ねた。俺がうなずくと、彼女は、えー、と俺を非難するような声を出した。再び彼女は押し黙った。人差し指はハンドルをトントンと叩き続けており、記憶をひっくり返しているようだった。
昨日のうちに、美浜福子の歯ブラシの購入者について大方のことは調べることができた。歯ブラシの届け先を見つけることができたのだ。匿名配送サービスの運営会社は、電脳や通信に相当気を配っていたが、下請けの配送会社の方はそこまでではなかった。そこの配送車の運行履歴を不正閲覧し、日時や大きさから、歯ブラシが「艶弁天」というグレーな接客業を営む店に直接届けられたことが分かった。不正閲覧だけといえばそれまでだが、情報の価値から言えば、半日分の給料は優に稼げたという自信はあった。
「アユかな。まあシイラもいなくもなさそうだけど」
「アユもニックネームっぽくないですか」
「運転してるから忙しいのよ」
社長は不服そうに口をとがらせて言った。
前の車が道を折れて、さらに前を走っていた車の背面がフロントガラスに映る。
「あ、スズキ」
突然、社長が言った。前の車をあらためて見てみたが、外車だった。
「苗字だけどスズキは普通の名前じゃない?」
「それもありですね」
と俺は膝を打った。社長は明らかに機嫌がよくなった。ハンドルを握る手は、リズムをとっており、体はそのリズムに乗るようにかすかに揺れていた。いまにも口笛を吹きそうになったところで、車はコインパーキングに入った。
駅前の歓楽街に近く、隣には派手に装飾された自家用車が停められていた。ヒトの発情に季節は関係ない。それだけでなく昼夜も関係ないようだった。多くの人が昼間勤めに出ているため、夜間ほど人通りが激しいわけではないが、すでに客を入れている店も少なくなかった。猥雑な看板が天日のもとで並べられ、それはそれで異様な光景だった。
世間の潮流に逆らって昼間からこの街で金を落とすような人間は、特殊な事情を抱えていることが多い。そんな中で、背広を着た男女が並んで歩いている様は、とても目立っていた。そんなことを気にもせず、社長は目を皿にして周囲を眺めていた。
店の住所はわかっていた。しかしこの界隈は、こぢんまりとした建物が肩を寄せ合って建ち並んでおり、気を緩めていると見逃しかねなかった。目に優しくない色使いの看板が所狭しと敷き詰められて、まるで知育絵本のようだった。
俺は背の高さを生かして上の方の看板まで目を配っていたが、日本語の飾り文字とイラストを見分けるのが難しかった。
「あ、ここだ」
と社長が俺の袖を引っ張る。彼女が指す方に目をやると、しだれた丸文字で「艶弁天」と書かれた看板が掛かっていた。その下には「有名人多数在籍」と小さく、しかし目立つ色で書かれていた。
「あの人たち、見つけられますかね」
「慣れてる者にとっては簡単な探し物よ」
彼女はなんの躊躇もなくビルに入った。入口に座っていた若い男が、訝し気に俺たちを見たが、すぐに目を伏せた。
入ってすぐに、うちの事務所にあるような、狭くて急な階段を昇らされた。壁には店の在籍者のプロフィールや求人の貼紙が乱雑に貼ってあった。
店は二階にあった。受付の青年が俺たち二人に気づいて目を丸くした。それからすぐに困惑した表情になって顔を伏せた。カウンターの上を見ているような姿勢だが、上に向けられた黒目が、俺たちを視界の端でしっかりと捉えていることを物語っていた。その姿勢は、俺たちがカウンターのすぐ傍に立っても崩されなかった。
チン、と耳障りな鈴の音が鳴る。しびれを切らした社長が、カウンターに置かれた銀色の呼び鈴を鳴らしていた。驚いて、青年が肩を跳び上がらせる。
「今日は客じゃないのよ。私たちこういう者なんだけど――」
と言って社長は名刺をカウンターに置いた。そこには貿易会社の名前が印字されていた。受付の青年はその紙を一瞬だけ見て、再び俺たちに目を向けた。
「――このお店のサービスについて詳しく聞きたいんだけど、店長さんいるかしら?」
はあと、青年が呟いて肩をすくめた。埒が明かないと判断したのか、社長は肘をついてカウンターに身を乗り出した。
「〝
と青年の耳元でささやいた。彼はそれまでだらしなく曲げていた背筋を急に延ばした。
「こちらへ」
と彼は俺たちを奥へ案内した。店の従業員は、白いシャツに蝶ネクタイと、形だけは高級そうにしていたが、身に着けているものはどれもテラテラの安物で、胡散臭さが際立っているだけだった。
通された部屋は、くたびれた茶色のソファが申し訳程度に置かれた小さな事務所だった。四十がらみの男が部屋の隅に置かれた折り畳みデスクで端末と格闘していた。青年がこの男に近寄って何事か耳打ちする。男がこちらを振り向いて、隈だらけの顔で満面の笑みを浮かべた。彼の肩越しから、端末に貼ってあるメモが顔をのぞかせた。紙の上には、大きくはっきりとした十桁足らずの英数字が赤いペンで書かれていた。
青年が出ていくと、男が揉み手して立ち上がった。
「いやいやいやいや、よくぞお越しくださいました。当店をお選びいただくとはお目が高い。さすが貿易会社の敏腕サラリーマン」
彼は慣れているのか、一息で慇懃な言葉を並べ、俺たちをもてはやした。
「申し遅れました、わたくし『艶弁天』店長の笹川と申します。ええと、汎静貿易の平崎さまと……」
彼は名刺を見て、それから俺の方に問いかけるような視線を投げかけた。
「ダニエル、ダニエル・マクダニエルです。わが社の通訳なんかを担当しております」
社長が咄嗟に俺を紹介した。男が垂れた頬を精一杯持ち上げて、笑顔を浮かべた。
「ハロー、ミスターダニエル。ナイストゥ、ミー、トゥ」
と彼はカタコトの英語を口にした。
「よろしくお願いします、笹川さん」
と日本語で返すと、彼は驚きと共に非難の目で俺を見た。しかし敵意はすぐに消え、わざとらしい笑顔で俺たちに朽ちかけたソファを勧めた。
「マニラにパンパシフィックトレーディングという貿易会社がありまして、来月向こうの担当者が神戸に来て、我が社と業務提携に関する交渉をする予定なんです」
よくここまで膨らませることができるものだと感心してしまうほど、彼女は流れるように出まかせを話した。怪しい部分もあり、所々で肝を冷やしたが、突然のビジネスチャンスに周りが見えなくなっているのか、単に無学なのか、笹川と名乗った店長は、食い入るように社長の話を聞いていた。
「神戸に来る担当者の一人が、日本のトケサクの大ファンだそうでして、夕食後の休憩にこちらをと考えていまして」
「さすが世界とリアルタイムで対峙されている方々はお耳が早いですね。うちには、トケサクのメンバーが五人全員そろって在籍しております。そうですね半月前までに、ご来店になるお日取りをお伝えいただければ、スムーズにご案内できるかと思います。どうですか、伝説のオールナイトライブをアリーナではなく、当……」
にわかに部屋の外が騒がしくなった。彼のよどみない口上は、若い従業員の入室によって中断された。従業員は笹川の耳元で何かを言った。口もとと耳は手で隠され、その内容を窺い知ることはできなかった。だが笹川の形相はすぐに深刻なものに変貌した。
事務所の壁に掛けられた時計を見る。長針が六を指してからしばらく経っていた。ちょうど頼んだ時間だった。
「大変すみません、少し席を外さなければならない用ができたので、しばらくお待ちください」
彼は何度も頭を下げて言った。俺たちに向けた顔は笑っていたが、先ほどまでの興奮した満面の笑みは消えていた。店長はやって来た従業員と二人で部屋を後にし、俺と社長だけが残された。
それまで気にならなかった小ぶりなテレビの音がはっきりと聞こえるようになった。
「石川さんは桜石の新総裁に任命されたわけで、これはつまり新たな石油王に即位したと言っても過言ではないわけですよね」
「いえ、私はその管理を仰せつかったまでで……」
テレビでは、壮年の男が女性キャスターにインタビューを受けていた。いい暮らしをしているのであろう膨れた顔のなかに埋もれた目には狡猾な光が宿っていた。本人はテレビ向きに浮かべているのかもしれない笑みは、どこか嘲りが混じっているように感じた。
「言うなればみなさんが石油王なわけです」
全身が粟立ちそうになる理想論を長々と続けた後、一息置いてから男が言った。前々から温めてきた文句なのだろう、それまでの発言に比べて数段流暢だった。満足げな表情を浮かべるこの男の目には、彼とそのお仲間が見捨てた東京など映っていないようだった。彼が言う「みなさん」には、油蝕症の恐怖を知らない壁の外の人々だけが該当する代名詞なのだろう。
俺はゆっくり立ち上がって、隅の折り畳みデスクに近づく。トラブルでそれどころではないとわかってはいたが、自然と足音を忍ばせていた。
ドアは閉められたが、その向こうの混乱した音は伝わってくる。声の大きさや量から、相当な人数が渦中にいることが分かった。
「一体何人雇ったんですか?」
「八人」
意地の悪い笑みを浮かべながら社長が白状した。思い入れはなかったが、笹川という店長が気の毒に思えた。
先ほど見えた英数字の書かれたメモ用紙には、その上に「パスワード」と書かれていた。大したセキュリティへの心がけだった。尊敬の念を胸にしまい込んで、端末に触れた。驚いたことに、笹川は端末に施錠せずに俺たちの前に残していったのだ。
ひれ伏したくなる気持ちを押さえて、俺は持参した記憶装置を端末につなげた。端末の記憶の比較的上段にスタッフ名簿や履歴書の情報が保存してあった。俺はそれらの情報を一通り複写して、記憶装置に保存した。
端末の性能だけは良くて、結構な量の複写が一瞬で終わった。手早く記憶装置を端末から外してポケットにしまう。ないと思うが念のため、俺が端末を操作した記録を消しておいた。
「ここはこんなにトラブルが多いのか?」
事務所を出て、受付で右往左往する青年を社長が問いただす。追加されたトラブルに、青年のアタフタの度合いが強まる。彼の返答を待たずに社長が再び口を開いた。
「こんな店だとは思わなかったよ」
そう言い残して社長は店を後にした。俺は彼の方を一瞥もせずに、出口をくぐった。
彼女は怒った風を装って、足音を立てて階段を駆け下りた。店を出てからも早足で道を歩いた。だがスキップを始めかねない軽い歩みは、腹を立てているというよりも、喜んでいるようにしかみえなかった。お店でいいことがあったんじゃないか、と勘違いされるのは恥ずかしかった。いいことがあったのは本当だったのだが。
俺も達成感は覚えていた。依頼は八割がた済んだだろう。だが小躍りするには、ポケットの中の情報が重かった。
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