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依頼人が帰って、テーブルを片付けようとしたところで社長に止められた。
「そんなことはしないで、仕事をしなさい」
強い口調で言われたが、彼女の目はむしろ輝いていた。彼女はテレビの前ではなく、自身のデスクに座っていた。俺は重ねたコップをテーブルに戻して、自分のデスクについた。首の後ろの端子にケーブルを挿し込み、玉井の言った虚層商店に向かった。
何も知らずに虚層を彷徨っているだけでは到達できないが、入るのに認証は必要なかった。見つけるのは困難だが、知っていれば誰でも入れる設計は、興味のある客をより多く取り込むことを重視してのことだろう。
価格は使用者の人気に比例していた。それだけでなく、使った人間が同じでも、昨シーズンのデザインのブランド財布よりも、弁当屋で弁当について来る割りばしの方が高い値がついている。ここでは、物の一般的な市場価値ではなく、そこに内包される物語のほうが重要視される不思議な世界だった。
ここは単にラインナップを掲載しているだけで、購入はできそうもなかった。設計を考えれば、購入にだけ秘密の合言葉の類が必要だとは考えられなかった。虚層商店に掲示された説明を読んでみると、親切にも取引が行われている電子社交場への入り口が設けてあった。
俺は架空の利用者を電子的に呼び出して、その社交場へ向かわせた。俺はその〝カカシ〟が見ている景色を遠目から観察する算段だ。
電子社交場では、電子通信により不特定多数の人間とリアルタイムでコミュニケーションが取れた。生電接続で入れば、視覚は虚層に設けられた社交場を捉える。まるで架空のホールに実際に立っているかのように交流が可能だった。
ウラフルの取引が行われていたのは匿名性の高い社交場で、名前や他の利用者に映る姿は各個人で自由に決めることができた。そこでは、多くが頭と目だけの特徴があまりない姿を選んでいた。まるでダルマの集会所だった。ダルマたちの会話は、文字情報に頼っていた。
加えて、利用者の電脳の情報ややり取りの記録が、社交場の管理区画にすら残らないようであった。恐らく、堂々と開設すればどこかしらの官憲からの追及は免れないだろう。容量の食わない文字が使われているのは、ここを開設しているのが個人で、社交場が〝狭い〟からだろう。ここで抑揚や感情を含めた会話をリアルタイムでしようとすれば、社交場の許容量をすぐに超えてしまうのだ。
その中で、会話する利用者が途絶えない〝社交界の人気者〟がいた。人気者もダルマ姿だったが、社交場で唯一の黄緑色のダルマだった。社交場での呼び名は「ムノリ」、多くの利用者がソイツと話して、すぐに社交場を後にする。そして、一つの会話が終わると、間を置かずして新たに別のダルマがムノリに話しかける。こいつが、盗品を売っているのは間違いなかった。
「なら、社交場の改変も難しくはなさそうね」
ウラフルの取引方法を報告すると、社長が言った。たしかに個人が運営している区画なら、電脳保安も大したものではなく、管理区画への不正接続も用意だろう。どうやらダルマばかりなのは、匿名性ではなく、社交場のシステムとしての制約によるもののようだった。社交場の使い勝手の悪さも、保安の手薄さを示唆していた。
俺は生電接続し直す時間を惜しんで、デスクに座ったままだった。上司への報告の態度としてはありえないが、彼女もそれを容認している様子だった。それどころか、彼女は俺の報告をうわの空で聞いているように見えた。
「ムノリという黄緑色の虚貌をした……」
俺が話している途中で、視界の端に何かを受信したというメッセージが浮かび上がった。送り主は社長から、送られてきたのは虚装構造の設計文の一部だった。
「ムノリが使っている電脳の情報が得られたらまた報告するように」
俺の報告を遮って社長が命令した。虚層にファイルを開いて設計文を一瞥する。ムノリらが使っている社交場で、利用者の情報が記録されないとはいえ、利用している最中には、電脳の識別符号などが社交場の管理区画に送られてくる。そうでなければ、虚層の中で利用者を見失い、社交場と利用者の電脳の間の通信は維持できない。社長が設計したのは、利用中に送られてくる端末の情報を記録する構造だった。
俺の返事も聞かずに、彼女は目を瞑って背もたれに寄りかかった。虚層での作業に没頭しているようなのだが、傍から見れば、眠っているようにしか見えなかった。俺は思わずため息をついてしまった。その時だけ、彼女の眉がピクリと動いたように見えた。
◇◇◇
「お客さん、ご出身は?」
「ニューヨーク、東海岸にあった街だよ」
「知ってるわよ」
カウンターの向こうの彼女は俺の肩を軽く叩いた。旧市街の、事務所とは駅を挟んで反対側にある〈黄昏〉はカウンター席だけの小ぢんまりとしたスナックだった。客は俺の他に二人いたが、薄暗い店内で彼らの気配は薄れていた。
俺についたのはお世辞にも若くはない女だった。派手な彩りの厚めの化粧が、彼女を余計に年上に見せたのかもしれない。だが老女というほど老けてはいない。というよりも、顔立ちは整っている方だった。若い頃は随分とモテていたに違いない。いまでも、薄暗い店内で彼女のいる周りだけ明るく見える気がした。
「それにしては日本語を使いこなしてらっしゃるのね」
冗談もうまいし、と彼女は付け加えた。酒が回っているせいか、つい顔がほころんでしまう。旧東京では本式の日本語が流暢なことも、不審がられる要因だった。
「日本語はどこで?」
「仕事の関係で、この辺りの言葉は覚えさせられたんだ」
「さすがね。ところで、お代わりは?」
俺が言葉を濁したことを察したのか、彼女はこの話題を終わらせた。気が付くとグラスは空になっていた。
「それじゃあ、さっきと同じのを」
小さな店で、メニューも小規模だった。凝ったカクテルなんかはない。不味い酒と悪い酔いを恐れて、ウイスキーのロックばかりを頼んでいた。
背中を向けてグラスに酒を注ぐ彼女のうなじのあたりに、刺青が入っているのが目に入った。
奥から三人の笑い声が重なって聞こえてきた。カウンターの奥の方の席では、先客の二人が店のママと盛り上がっているようだった。
俺は彼女の首元に目を凝らした。彼女の黒い髪が紛らわしかったが、そこには円環とそれを囲う八本の放射状の線が彫られていた。ロックを作り終えた彼女がこちらを向き、俺と目が合う。彼女は照れたように笑い、俺も曖昧に笑みを浮かべた。
彼女が持ってきたグラスには、琥珀色の液体から澄んだ氷が顔を出していた。氷の表面には溶けだした水が伝っていて、うねうねと筋模様を描きながらアルコールと混じり合っていた。
「ヒュウガって名前なの」
先に口を開いたのは彼女だった。言葉の意味を理解しかねて、俺はグラスを口元に運ぶ手を止めた。それを見た彼女は、もう一度〝ヒュウガ〟と口に出しながら、指で中空に「日」と「向」の二文字を書いた。彼女の名前が「日向(ひゅうが)」であることを、そこで初めて知った。
「そういえば、名前を聞いていなかったね」
俺は急いで取り繕う。
「だから、お日様の刺青なのよ」
彼女の説明に頷きながら、ウイスキーを一口飲む。いつも通りの量産品の味だった。感動するほどおいしくはないが、とりあえず飲める味で、後からつけたような煙たさは目が醒めるくらい強烈だった。
「幻滅した?」
そう尋ねた彼女は眉尻を下げて俺を見つめていた。俺が口を閉じていたのは閉口したからではない、うまい言葉が見つからなかったからだった。
「いや。自分の正義感をひとに適用するほど僕は傲慢じゃないよ」
「謙虚なのね」
「弱いだけさ」
俺は自分を嘲って笑った。それを見ていた日向はもっと悲しそうな顔を浮かべていた。
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