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通常通りの旧東京滞在者のための検疫手続だけで壁の外に出ることを許された。密入国について何ら咎められることはなかった。銃創の治療と検疫のための隔離期間を終えた俺は、そのまま阪本さんが興信所を営んでいる神戸へと向かった。
興信所は福原区の旧市街、戦前からある雑居ビルの三階に事務所を構えていた。看板はなく、ビルの一階に設置されたフロア案内のプレートに存在が示されている程度である。
一応、俺のデスクも用意されており、生電接続用の装置一式が与えられていた。装置類はいずれも上等なものであり、ボロボロの事務所の中でそれだけが浮いていた。
デスクの端には、社長がパチンコ屋のチラシで作ったネームスタンドも置いていた。プレートには、社長の手書きで「
「ニッポン人は、そういうカイジンが大好物なのよ」
ネームプレートを受け取って、思わず不満を顔に出してしまった俺に社長は言った。だが今のところ、心を開いてもらうような人は一人も来ていなかった。
事前に土日祝休みの九時五時と聞かされていたが、実際には聞いていた話と違っていた。一カ月の間に仕事は一つも来ず、平日の九時から十七時まで仕事という仕事は一切してこなかった。疲れないのは楽なのだが、事務所の古さも相まって、事務所の懐事情が不安になってくる。が、月末になって口座には、事前の話通りの安くない額が支払われており、安堵と共に驚いてしまった。
社員となってしばらくは、始業時間である九時よりも前に事務所に入るようにしていた。だが、早く来たところで、何もすることはなかった。それどころか、社長すら昼前にようやく事務所に来る。
俺も入社してひと月が発つ前には十時過ぎに出勤するようになっていた。今朝は早く目が覚めたため、いつもより早めの九時五十五分に事務所に着いた。社長が来ていないことは、もう当然のことのように感じていた。〝OPEN〟のドアプレートを出しておく。事務所の受付時間は午前十時からだ。何も問題はない。
デスクに座り、ケーブルを自分の生電端子に挿し込む。電脳の電源を入れると、視界が一変した。滑らかで完璧な転層だった。
いま、俺の目に映っているのは、光として可視化された電子情報だった。視線を事務所方面に移して、拡大する。事務所の周りの地中や電線沿い、そして空中までも情報が流れていくのが見える。そうして通信路に乗せられた情報は、一度中継地点に集められた後、再び別の場所に流されていく。通信によってやり取りされる情報はとめどなく、情報の流れは細い糸のように見えた。それとは別に複雑に絡まってできた情報の塊がいくつもあった。それは人間とその人が身に着けている電子装置の複合体だった。情報の塊は、ある場所に留まっていたり、道路に沿ってゆらゆらと歩いている。
人から細く湧き出した情報の流れは、いくつもの通信の糸と合流していた。電話や電信のやりとりや買い物の支払い、健康状態から歩き方まで、人々は意識するか否かを別として、常にその情報を外に流していた。
電脳が生み出した電子情報を光として可視化したこの世界は、実層(リアル)とは異なるもう一つの世界、虚層と呼ばれていた。虚層の実体は、磁石や回転の向きでしかない。それは到底ヒトの目で見ることはできない。電子情報を人が見るために、古くは平面ディスプレイで光学的に表示させる手法がメジャーだった。今では、首の後ろにつけた生電端子から直接、視覚情報として出力する方法が取られていた。これならば、人が想起しただけで電脳に入力することも容易い。
視覚を縮小していく。人々の集う大都会は自然と情報が集まって眩しく見える。その中でもひときわ光が凝縮している場所が点在している。光のダムのようになっているのは、電脳企業が蓄えた情報だった。
情報が氾濫するこの社会において、その情報の流れを整えている電脳企業は非常に重要な存在だ。人々が溢れた情報から必要な情報を短時間で取り出すためには、電脳企業の助けが不可欠だった。社会は電脳企業によって構築されていると言っても過言ではない。人々の供給に答えた電脳企業は虚層で不気味なほどに巨大化し、実層でもその影響力は計り知れないほどになっていた。
俺はもう一度、虚層の事務所周辺を拡大する。装置のコマンドで、実層と虚層にダミー情報を流す。「テスト音声は十秒間流れます。本日は晴天なり――」と録音された社長の声が耳に入る。通信路にも同様の情報が流されている。虚層ではその分だけ事務所から流れ出す光が増した。俺は目を凝らして事務所を観察する。意図しない情報の流れは今朝も確認されない。こちらの会話や通信が盗聴されていないということだ。
ドアが開いた音で顔を上げる。生電接続を切り、実層を見た。社長だった。時計を見ると、十時過ぎ。社長にしては早すぎる出勤だった。
「今日は何かあるんですか?」
ずっと事務所にいたかのような雰囲気を出して尋ねる。
「今のところないわよ」
「じゃあ、どうして社長がこんなに早くに?」
「勘よ」
社長はテレビをつけて、応接ソファに腰を下ろす。画面の向こうでコメディアンが街の一般人と絡んでいて、彼女はケラケラと笑い声をあげた。彼女は俺の遅刻に気づくことなく、テレビに夢中になっているようだった。
俺は胸を撫でおろした。
充電ラックから電紙を取り出して広げると、今朝配信された新聞が映し出される。東亜経済新聞の一面では、ベトナムの通信政策委が漢字文化保護へ大きく舵を切ったことで、ホーチミンの株式市場では電子部品関連株が軒並み値上がりしていることを大々的に伝えていた。地続きの旧東京に関する情報は一つもない。壁の外で、脂に怯えずにノウノウと暮らしている人々にとって、旧東京はブラジルよりも遠い存在なのだ。
新聞を半分ほど読み進めたところで、事務所のドアが開いた。社長がお手洗いに立ったのだろうと、俺は新聞に目を落としたままにした。今日まで依頼人は来なかった。社長は勘がどうとか言っていたが、俺はどうせ今日も誰も来ないだろうと思っていた。
「あの――」
知らない男の声がした。驚いて顔を上げる。見知らぬ男が入り口に立っていた。水色の柄物のシャツを着た男で、洒落たデザインの眼鏡を我がものにしていた。埃っぽく薄暗い事務所には場違いな、陽気な雰囲気をまとった男だった。
「こちら、阪本総合調査事務所、で間違いありませんか」
彼は手元の名刺を見ながら尋ねた。
「はい。何かご用ですか」
社長が男に言った。いつの間にかテレビは消えていた。はっきりとは分からないが、社長の雰囲気が変わったように思えた。先ほどまでの堕落した様子は消えて、ハキハキと答える様子は、相手に小柄な体格を忘れさせ頼りがいがあるように見せていた。
「ええ、一つ依頼したい仕事がありまして」
「わかりました、そこにお座りください」
社長は男に応接セットのソファを勧めた。そしてさりげなく俺に目配せをした。
俺は新聞を畳み、椅子から立ち上がった。後ろの窓のブライドを手早く閉める。三人分のお茶を準備しているついでに、社長の席の窓もブラインドを閉める。
「お越しくださいありがとうございます。社長の阪本紅末です。先に料金だけご説明いたしますと、依頼によって額は変わりますが、前金や経費は一切なし、成功報酬のみでやらせていただきます」
すでに社長は、依頼人に説明を始めていた。
俺はコップを三つ載せたお盆を運びながら、棚のプレイヤの電源を入れる。ジャズの音色が、邪魔にならない程度に部屋を満たす。
「失礼します」
静かに、しかし依頼人にはっきりと聞こえるように言って、コップを置く。社長の方にも置くと、彼女は満足げに俺の顔を見た。
依頼人が事務所に来て一分も経っていない。初めてにしては手際よくできただろう。客が来てからの一連の作業だけは、入社してから社長に口酸っぱく言われていた。
「こちら、社員のバーナードです」
社長が紹介する。俺は依頼人に右手を差し出す。彼は一瞬遅れて右手を差し出した。
「私は、トライシプロダクションの玉井と申します」
と彼は俺と、加えて社長に名乗った。トライシと言えば大手の芸能事務所で、多様なタレントが数多く所属していた。母数が多い分、人気の芸能人も多数擁しており、メディア業界の中でも影響力の強い企業だった。
「依頼というのはこちらの――」
彼は自身の端末を起動させて続けた。
「虚層商店についてでして」
端末の中空に、その虚層商店のラインナップが投影されていた。『ウラフル』と名乗る店が取り扱う商品は、割りばしやハンカチ、リップクリームなど小物が多い印象だった。ただ、いずれの品物も使い古されていた。商品の像の下には、品名の代わりに人名が価格と併記されていた。
ほお、と驚いたような声を上げていた社長が口を開いた。
「タレントの使用済みのものを売っているんですね」
「ええ、テレビ局などの楽屋で盗まれた物がこうして売られているみたいなのです。窃盗はこまごましたものですから、大して問題視されていなかったんですが、先日――」
玉井は端末を操作し、一つの商品をピックアップする。ホテルのアメニティでありそうな、安物の歯ブラシだった。その下には美浜福子という名前があった。
「――このような品が売られていたんです」
彼が言うように、売られていたのは過去のことだった。歯ブラシの画像の上にも〝SOLED OUT〟と赤い記載があった。
ほお、と再び社長が驚嘆の声を上げる。
「美浜福子と言えば、今一番人気の女性タレントですよね。大和撫子の清らかさと、ヨーロッパを感じさせる華々しさを共存させた顔立ちは確かに美しいですし、幸運なことに彼女の美貌が現代の我が国における女性的な美の基準かのように扱われています。さらにダンス、演技、歌唱の技術も熟練しているし、おまけにユーモアもある」
「ありがとうございます。おかげさまで彼女は絶大な人気を誇らせていただいています。それだけに、彼女の私物が盗まれて売られるという事態は非常にマズい。ですが、彼女の人気を考えると警察にも相談しにくい案件です」
「よくわかります。それで、依頼はどこまでですか?」
「この歯ブラシの入手経路を追っていただきたいんです」
「それだけ」
社長は拍子抜けした声を上げる。そこまでで、と玉井が念を押した。
「承知しました。そしたらお値段は……」
と言って、社長はそこそこ高い金額を提示した。桁を数える玉井は、あまり驚いていない様子で、飄々とした返事を返した。大人気タレントのスキャンダルに対する口止め料と考えれば少ない方なのだろうか。
「うちの料金システムはご存知ですかね。前金などは一切要求いたしません。完全成功報酬制で、お客様にはこれだけ支払っていただければ結構です」
「わかりました。本当にありがとうございます」
彼はここで初めて真剣な表情を浮かべた。
「盗聴も心配だと思います。四日後に再びここにいらしてください。そこで一度報告させていただきます」
玉井はひとまず満足げな表情を浮かべて、右手を俺の方に差し出した。俺の隣にいた社長は、奪い取るように彼の右手を握った。激しく上下に振られる手に、玉井も驚いた顔を浮かべていた。
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