退屈な楽屋泥棒

1

 隣では一人の女が産まれたままの姿で寝転んでいた。うつぶせで、こちらに首をひねっている。左のうなじのあたりには、微笑む三日月の輪郭の刺青が彫られていた。顎に口づけをして、彼女の皮膚を注視する。紅潮した肌の上にはきめ細やかに溝が走っていた。ノズルから吐出して造形した肌には絶対に現れない複雑な網目模様だった。

 枕元のライトスタンドからの光だけの薄暗いベッドで、女は照れたように笑う。その美しい笑顔に、思わず見惚れてしまう。小さな顔に筋の通った鼻や、大きなアーモンド形の目、艶やかな唇がバランスよく配置されていた。和洋折衷の美しさ、いまならどこへ行ってもこの系統の顔の女性ばかりだ。しかし、この美しさが流行する理由も十分に理解できる。

 縮められた目じりには自然なしわが薄く走った。どうしたの、と尋ねられる。俺は返事の代わりに微笑んだ。礼を失すると思ったからではない。ただ、彼女に何を聞いてもうまくかわされるのだと、この九十分足らずでわかったのだ。

 たばこの煙が天井をいぶしていた。喫煙が可能かは知らないが、禁煙と書いてもいなかった。女も何も言ってこなかった。煙が当たった部分に走る砂嵐の模様は、いわば虚実の間で巻き起こる闘争の余波だろう。


 一目ぼれした二人が一晩で交わる、なんて非現実的に思える。量産されたラヴストーリーでも滅多にない展開だ。だがこの街では、夜毎に幾組ものカップルが結ばれる。ほとんどが店員と客、フィクションでも食傷気味の関係性だ。

 だが法律が強いるのだ。

 アラームが鳴るのは突然だった。同時に部屋が突然模様替えをする。さっきまで見えていた壁の装飾やカーペットは消えて、目の前に広がるのはベッドと最低限の家具だけの簡素な一室だった。

 女はスルリとベッドから抜け出して、タイマーを止めに行く。タイマーは防水機能がついた、少し高い製品だった。

 一気に吸って短くなったたばこを灰皿に押し付けてから、帰り支度を始める。俺の服はすべて床に散らばっていた。

 戻ってきた彼女は既に着替えを済ませていた。ズボンを履いている俺に近づくと、まだ煙の残る俺の口を塞いで、悪戯っぽい表情を作る。


「今日はありがとう」


 敬語が足りないだけの、店員の口調だった。俺らの間では、別れ話すら交わさなかった。本物の恋人になる必要はない。俺たちはあの間だけ〝恋人〟であればいいのだ。料金を払い終え、頼んだ時間はつつがなく過ぎた。いま、俺と女の間には何の関係性もない。


「君は本当に村井緋月なのかい?」


 彼女は俺から離れ、棚に腰掛ける。ベッドに座る僕を見下ろす彼女は、説得するように笑顔を浮かべていた。


「〝ホント〟とか〝ウソ〟とかで意味をつけるのはやめましょ」


 彼女はひょいと棚から降りて、意味を理解しかねて立ち尽くす僕に近寄った。床のシャツを拾って、僕に袖を通した。そして、ボタンまで掛けながら、続けた。


「テレビの向こうで歌っているのも、今夜あなたが抱いたのも村井緋月。少なくともコースの間、私はあなたの恋人――緋月として振る舞った」

「僕が言っているのは……」


 思わず大声を上げてしまった僕の口を、彼女は人差し指で押えた。


「《虚層》に潜ったことはあるでしょ。あそこは現実にないはずのものが、まるであるように見える。なら、全てが建前である可能性を捨てきれない。そこに虚実のレッテルを貼る意味はないのよ」


 彼女は僕を立たせて、ズボンを上げた。

 帰りのエレベーターで、俺は一枚の名刺を眺めていた。去り際に女から渡されたものだ。彼女の名前の他に、所属事務所も併記してあった。ご丁寧に事務所の連絡先まで印字してある。だがいずれも、電脳さえ操作できれば誰でも知れる情報だった。

ビジネスでも連絡先を電子情報で交換するようになった今、紙製の名刺を渡してくるのは、公開されている情報だけでそれっぽく偽装するためだろう。


「ありがとうございました」


 エントランスを抜ける際、男性店員に頭を下げられる。やや遠くからの、聞こえるかどうかギリギリの声量でのあいさつだった。仕切りに阻まれて、店員の頭頂部しか見えない。

 店を出るとビル風に包まれた。生暖かかったが、火照った身体がゆっくりと冷まされて心地が良かった。

 街であたりを見回せば、流行りの顔つきばかりが目に入ってくる。女性は、実際に歩く生身の姿でも、広告で映し出された姿でも、大体が先ほどの女と似た顔つきをしていた。よく観察すれば一人一人異なるのだが、ほとんどが同じ方向の美しさだった。


 先ほどの女の顔を思い出してみようとした。しかし、ほんの数分まで目の前にあったはずの彼女の顔の記憶が薄れていることに気が付いた。街で同系統の顔を一気に見て、顔の印象がないまぜになってしまったのだ。

 いま最も美しい女性は、美浜福子だろう。凛とした雰囲気だが、笑うととてもチャーミングな彼女の顔は、この国の大半の人間の心を奪っていた。

 ここ数年の間は、女性的な美しさの到達点といえば彼女の顔だった。彼女をメディアで見かけない日はないし、彼女にインスパイアを受けた美人を見かけない瞬間もない。村井緋月も、美浜福子と同じ系統の美人だ。

 今夜、村井緋月を指名したのは、俺も美浜福子――フッコの顔が好きだからだ。その人格そのものに惚れこみ、熱烈に追いかけているわけではないが、俺も彼女の顔が美しいと感じている。


 俺は村井緋月と名乗った女から貰った名刺をむなポケットにしまい、道を歩き出した。その時、その女を見つけたのは本当に偶然だった。出てきたビルと、その隣のビルとの間の細い道で、誰かがうずくまっていたのが目に入ったのだ。青いポリバケツのゴミ箱に挟まれて、擬態するかのように膝を抱えて、顔を伏せていた。なだらかな肩の輪郭から、女性のようだった。


「どうしたの?」


 俺は彼女に声をかけた。この辺りの賑わいはいかがわしい店が雑多と集まってできている。取引されている品物は、まともに取り扱っていては法に触れるものばかりだ。薬物で前後不覚になっている者も珍しくはない。

 だが俺は、目の前で身を潜めていた彼女が、そこら辺で薬品を媒介に神や仏やらと逢瀬をしているような中毒者とは違うと確信していた。彼女は曲げた膝を、両腕で力強く抱いていた。そこに、はっきりとした理性が感じられた。

 しかし、彼女は何も答えなかった。それどころか、反応もしなかった。立てた膝に顔を埋めたままの彼女にもう一度尋ねる。


「名前は?」


 それを聞いてどうするのだろうか。だが質問が尽きそうになった俺は、咄嗟に尋ねた。すると彼女はムクリと顔を上げた。膝で頭を支えて彼女は僕を見上げた。薄暗かったが、彼女も流行りの顔立ちをしていた。


「美浜福子」


 彼女はか細い声でそう答えた。思わず笑い声を漏らしてしまい、俺は慌てて口を押えた。確かに、顔の造りは美浜福子フッコに似ていた。今はやりの凛として、洋風の雰囲気もある、和洋折衷の顔立ちである。だが、目の前で座り込む女は、美浜福子よりは美人ではなかった。フッコと比べると目はやや小さく、鼻も丸い。何よりも、顎に張ったエラが野暮ったく、凛とした雰囲気の邪魔をしていた。

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