2

 引き金に指を掛けた。ゆっくりと路地を奥へ進む。

 室外機と配管の影から、何かが飛び出してきた。避けきれず腹に衝撃を受けて、思わず前に倒れ込む。

 右手が圧迫され、思わず拳銃を離してしまった。拳銃は俺の目の前を通り過ぎて、路地のさらに奥へとアスファルトを滑っていった。

 目の前には黒い革靴。こめかみに何かが突きつけられる。恐らく銃口だろう。横目では、顔が影になっていて見えなかった。


「ちょっと来てもらいたいんだがね」


 男が言うのと同時に、安全装置が外れた振動がこめかみに伝わってきた。

 相手はあくまで俺に選択を委ねていた。だがどちらを選んでも待っているのは死だということは明確だった。


「穏やかじゃないね。不法滞在者同士仲良くしようじゃないの」

「だが、泥棒は話が別だ」

「何の話だかさっぱり」

「今日電金庫に泥棒が入ったんだ」

「それが俺だと?」


 銃口を押し付ける力が強まる。


「うまく盗ったつもりかもしれないが、俺たちはたった五万を引き出したりしない」

「それならコソ泥が入ったんだろうな。だがこの街には食うに困っている奴は大勢いるぜ。それなのに本部近くをうろついていた貧乏人を犯人に絞り込むなんてナンセンスだ」

「そろばん屋は白人が五万換金したって言ってるぜ。これでもまだしらを切るつもりかい?」


 しばらく路地には沈黙が流れた。コイツ以外の気配は感じられなかった。路地を抜けた先には、鉄砲を携えた華幇の奴らが大勢いるが、細い路地に手際よく入り込めまい。

俺はため息を一つついて口を開いた。


「そこまでバレていたら言い逃れできないな。そうだよ、俺が盗んだんだよ」


 フッと笑い声がして、こめかみの銃が緩んだ。その瞬間、みぞおちに鋭い衝撃が走った。胃の中で夕食のうどんが暴れる。


「ほら立てよ」


 襟をつかんで、うつぶせの俺を立たせようとする。

 俺は男に背を向けて立ち、両手を上げた。幸い、まだうどんは胃の中で暴れていた。

背中に銃口が押し当てられる。


「わかってるな、変なことをし——」


 俺は背中を少しかがめた。拳銃を持つ男の緊張が伝わってきた。もたもたしていると、男は引き金を引きかねなかった。

 うどんが路上に撒き散らされる。男の緊張が緩んだのが感じられた。男は嫌そうに喉の奥でうなり声を上げていた。きっと男は俺から顔を背けているだろう。

 その瞬間に、俺は男の方に向き直った。男の手を壁に打ち付けて、拳銃をはたき落とす。男は口を開けて固まっていた。驚いた表情を浮かべる頭を掴んで壁に叩きつける。男の頭が俺の手から離れると、男は地面に倒れ込んだ。


 男の頭で隠れていた、路地の向こうの光景が明らかになった。ビル周辺の警戒は続いているようだが、この騒ぎは気づかれていないようだった。

 俺は男を置いて路地をビルとは反対側へ向かって走った。暗い上に室外機なんかが放置されている路地では、拳銃が見当たらなかったが、諦めて先を急いだ。


 あと数歩で路地を抜けるというところで、腰に衝撃が走り、前に倒れそうになる。遅れて銃声が耳に届く。

 壁際に走っていたパイプを掴み、どうにか倒れずにすんだ。俺はもう一度走り出した。だが痛みで思うようには進めなかった。

 顔のすぐそばで、壁が穿たれる。ひるんでいる暇はなかった。俺は自分を奮い立たせて先を急いだ。

 路地を抜けると、屋台の並ぶ通りに出た。夕食時の道は人でごった返していた。腰に当てた手を見る。そこには鮮血がべったりとついていた。


 銃声を聞きつけて、華幇の者たちは現場に駆け付けるだろう。留まるのはいい手とは言えない。痛みで歩くのもままならないが、雑踏の流れは緩く、彼らに紛れていれば、傷を負っていることも目立ちにくくなっているはずだ。

 だが安心はできなかった。アジア人ばかりのこの街では、人混みの中でも紛れることが難しかった。街の平均よりもずっと背が高く、群衆の中でも頭が飛び出て目立ってしまう。

 まずは傷をどうにかしなければならない。

 辺りを見回すが、建ち並ぶ屋台はどれも飯屋ばかりだった。この時間なら医者も食事に出ているだろう。

 傷をかばいながらでは、思うように動けない。結局、通りに集まった群衆に流されるままに、ゆっくりと歩いていった。痛みで考えは霧散していく。自分が今どこにいるのか、はっきりとわからなくなっていた。

 俺はいつの間にか通りの端の方まで辿り着いていた。この辺りになると、人通りも屋台もまばらだった。


 道端に油蝕症患者の死体。派手な格好は傾城フッカーのようだった。周りには口や鼻からこぼれた脂が乾かずにたまっていた。

 その先に、一階の前面がブルーシートで覆われたビルがあることに気づいた。女の死体を避けながら先を進む。手についた血が滴り、脂だまりに落ちる。

 コンビニとして使われていたテナントをそのまま流用して、店を構えているのだろう。俺の記憶にはない店で、ビニールシートの新しさからここ数日で出来た店のようだった。

 「卅方円毎克」とだけ書いてある看板が店の前に置いてあった。品目は書いていないどころか、その店が何の店なのかすら書いていない。だがそこに行けば俺の求めているものが買えるということが、雰囲気で分かった。

 字形からして営業しているのは中央アジア出身者。四万円という値段は決して安くはないが、この街の中では相場よりは抑えめの値段だった。探せばもっと安い店もあるだろう。だが人はまばらで、モタモタしている時間はなさそうだった。俺は傷口を押さえながら、店に向かった。


 ブルーシートをくぐると、昔コンビニだったとは思えない薄暗い店内で、すでに数名の先客が潰れているのが見えた。この街でもみすぼらしい格好をしているのを見ると、客はほとんど露宿人(ホームレス)なのだろう。入口付近で倒れている男を避けつつ、俺はカウンターへ向かう。

 カウンターにはアジア人の青年がついていた。比較的彫りが深いようにも見えたが、一目見ただけで彼がアジアのどこにルーツを持つのかを判断できるほどではなかった。顔つきからして、薬に溺れているようではなかった。賢い選択だと思った。


一克進上一グラムくれ包装アルネテイクアウトだ


 俺は四枚のシブサワをカウンターに置いた。立っているのも難しく、叩きつけるような形になってしまったが、店員の青年は臆せずに頷いて棚を開けた。

店員はジッパ付きの小分け袋を俺に渡してきた。空け口には透明なシールで封がしてあって、中には鮮やかな緑色をした粉末が入っていた。


確認スルアル嗎確認するか?」


 店員が、この辺りの言葉で言った。俺は一度聞き返してから、爪で封を開けて中を嗅いだ。自然とは程多い、人工的でケミカルな甘い匂いがした。山岳地帯からの「大楽気分」に混ぜ物をしたもののようだった。

 匂いに気が緩んだのか、痛みが強くなった気がした。俺は我慢できずに、袋の中から小指の爪の先程度の粉末を親指の付け根に落とした。そして鼻を近づけて勢いよく吸い込んだ。

 鼻腔が焼けたように熱くなる。熱は血で薄められ、喜びとなって全身に広がっていく。体中の神経が歓喜して火花を散らす。内側から殴られたように衝撃が走る。倒れそうになるのをカウンターに手をついてどうにか留まる。思わずうめき声を上げてしまう。楽な体勢で息が整うのを待った。

 俺は失敗を悟った。痛みは引いたが、ほかの感覚も一様に鈍くなっていた。


シャチョーさんお客さん少々的足りないよ


 紙幣を数えていた店員が言う。ラリったところを狙って難癖をつけられたかと思ったが、彼の手にはしっかりとシブサワが四枚収まっていた。


『卅方円毎克』的看板、奪嗎「一グラム四万円」の看板は嘘なのか?」

「卅方円毎克アルネ《一グラム三十万円だよ》」


 先ほどまで青く見えていた店員の顔に、狡猾な笑みが浮かぶ。


死了クソったれが


 俺は腰の拳銃に手を伸ばしかける。


不行不行ダメダメ。しっかり払うアルネ」


 耳元でドスの効いた声がする。振り返ると、入り口で気を失っていたはずの男が俺を見下ろしていた。男は中毒者とは思えないほどしっかりと俺の腕を握っていた。

 傷を負って、なおかつ薬が回っている状態でこの男に勝てるわけがなかった。俺は敵意がないことを示そうと、必死で笑みを浮かべた。店員たちも、獲物を前にした獣のように笑う。

 尻のポケットに手を突っ込む。雨や脂で生地とくっついてしまい、取り出すのに手こずるが、店員たちはまだ笑ってくれていた。ようやく合皮の財布を取り出す。


這個これ……」


俺が言いかけると、大男は財布をひったくる。彼は満足したように財布をポケットにしまうと、俺の腕を掴んだまま出入り口の方に引っ張っていく。そして彼は俺を蹴って店から追い出した。

 蹴りは傷口に当たった。薬が回っているとはいえ、ただでは済まなかった。痛みに耐えかねて、店の前の道路で身をよじらせた。


 一台の車が俺の横を素通りしていく。よく見せなかったが、復興府の収集車だろう。奴らは壁の内側でどんなに惨たらしい行為が行われていても無視を決め込む癖に、誰かが脂を吐いて死ねば、ハゲワシのようにすぐに駆けつける。外の人間は、ただ壁の内側に脂を留めておくことだけに腐心しているのだ。

 収集車が去り、その向こうの歩道には華幇の黒服が二人いた。奴らは店での騒ぎを聞きつけたのか、店の奴が垂れ込んだのだろう。


 まだ脳に少しだけ残っていた理性は、逃げろと全身に命令を下す。だが、体中の組織はヘロヘロで、とても理性的な判断を受け入れられなかった。どうにかして痛みと薬のせいで立ち上がろうにも、脚に力が入らなかった。

 腰に手を回したが、手は空を掴む。その間にも黒服たちは銃を構えこちらに向かって来る。


 道の向こうから銀色のマーチが猛スピードで近づいて来きたと思うと、俺の目の前で急ブレーキをかけて止まった。

 助手席の窓から女が顔を出した。女の顔には見覚えがあった。


「探したわよ、アンクルサム」

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