電脳興信所のささいな事件簿

厠谷化月

プロローグ

1

 廃ビルの横に座りながら、不気味な紫色に染まりゆく夕暮れの空を眺めていた。薄気味悪い色の空の下ではストーンヘンジになりきれなかった高層の廃墟群が、目的も忘れて茫然と立ち尽くしていた。

 本来の持ち主が放棄したあとも、朽ちたビルには点々と明かりが灯っていた。廃材を集めて作られた小屋が道に無秩序に建てられていた。だがかつて「東京」と呼ばれたここは、公的には存在するはずのない街だった。それだけではない。この街のあらゆるものが、公に認められてはいなかった。


電囟コンピュータ」、「午茸マジックマッシュルーム」、「一生工旦白マンメイドプロテイン」、街は漢字で溢れていたが、漢字圏で真っ当な教育を受けた者なら読めるはずのないものばかりだった。だが待ちゆく人々は、その一見すると出鱈目な文字の並びを読み、理解する。彼らは器用に8と83を読み分けていた。そして彼らは辞書に載っていない言葉を使って街の他の人と会話していた。


 そんなこの街の住人でさえ、非合法な存在である。書類上この土地を統治している日本政府は、法律で旧東京に立ち入ることを一切禁じていた。

 だが取締まる側はとうの昔に巨大な壁を建てて逃げ去ってしまった。壁の外に出さえしなければ、不法侵入者たちは平穏に街に暮らすことができた。

 何もかもが公に認められていないという土地柄、街には公に出来ない仕事が数多く流れてくる。資金洗浄や薬物製造、不法な医療行為など、自身の欲求に辛抱できない外の人々が依頼してくる仕事をするために、街には職人たちが集っていたし、彼らの生活を支えるための仕事をする人々も集まっていた。そうやって誰も認めない街が形成されていた。


 暮れかけた陽を合図にして、目抜き通りでは食事の屋台がかまどに火を入れ始めた。香辛料の独特の香りが、通りを越えてこちらにまで漂ってきた。その匂いに釣られ、目抜き通りへ向かう通行人の量は増えていった。華幇が支配するこのあたりでは、自然とアジア人ばかりが集まっていた。俺みたいなコーカソイドは、この辺では非常に珍しかった。

こんな街でも俺みたいな存在はまだ完全には受け入れられていなかった。もっとも、この世界のどこにも俺のような人間の居場所はなかった。だが受け入れられないだけなのも、この街くらいだろう。誰も俺の過去を暴き、街に居続ける目的を探ろうしないのは、俺がこの街に棲む理由だった。


 道路は整備されて二十年は経っているはずだった。アスファルトは剥がれだし、道のいたるところに穴ができていた。俺の目の前の穴には、雨水がたまっていた。旧東京に蔓延る脂が、目の前の水たまりでも、虹色になって浮かんでいた。一人の若者が目の前の水たまりを勢いよく踏んで、走り去っていった。ズボンの裾は脂で重く湿ってしまった。怒鳴ろうと思ったが、そんな気力はどこにもなかった。

昨日から夜露しか口にしておらず、空腹は限界を通り越してめまいを引き起こしていた。普段なら鼻が曲がりそうになるが、今日に限って様々な屋台が放つ強烈な臭気は、俺の胃を疼かせた。

俺は気晴らしに端末を開いた。華幇の事務所に仕掛けた盗聴器からデータが送られてくるころだった。盗聴器は奴らの資金管理用電脳を電磁波盗聴している。俺には華幇の懐具合が手に取るようにわかった。

 華幇は金回りが目に見えて慌ただしくなっていた。出金の回数もさることながら、出入りする金額も普段よりいくつか桁が多かった。

 華幇の目的は想像に難くない。二年前、華幇から離脱した構成員らが蘇明盟を結成し、二つの組織は抗争を繰り返していた。近々、華幇側が大規模に攻勢をかけるのだろう。単純に計算して、華幇が持っている武器の半数を新調できるだろう。だが華幇が武器の購入以外に金をかけている様子もなかった。

 端末を握る手が、興奮で震えてくる。俺は確信した。ついにこの街にアイツが来たのだ。俺が長年待っていたこの時がすぐそこまで近づいていたのだ。


 生暖かい風が、焦げた肉の香ばしい匂いを運んでくる。忘れかけていた空腹が、再び俺を悩ませる。

 ふと不安になった。もし俺がアイツの目の前まで近づけたとして、この飢えた体で何ができるというのだ。だが腹を満たす金がなかった。

 いや、金ならあった。手を伸ばすまでもないほど近くに。華幇の電金庫の暗証番号は既に盗聴済みだった。

 すぐそこに金があることを意識すると、空腹が一段と激しく感じられた。座っているだけでは耐えられないくらい、胃は疼いていた。金の出し入れが激しい今日なら、食費くらいバレずに掠め取れるかもしれない。


 俺はポケットからケーブルを取り出す。ケーブルの一方を端末に、もう一方を首の付け根に埋め込まれた生電端子につなぐ。カチリとラッチが端子にしっかりとはまった振動が背筋を走る。端末から流れ込む情報が像を結んだ。

 端子周りは退役して以来まともなメンテナンスをしてこなかった。生電接続は決してうまくはいかなかった。目の前に広がる現実と、端末の奥に広がる幻想がないまぜになって俺の目に映っていた。


 首の後ろに手を回す。ケーブルのコネクタを押し込んでみるが、ビクともしなかった。コネクタと端子は完全につながっていた。このまま続けるしかないようだった。

 俺は夕刻の荒廃した街を見ながら、華幇の電金庫に侵入した。屋台へ向かう人の賑わいに、電金庫の幻が重なる。タイミングよく、華幇の構成員が出金していたところだった。ソイツが作業を終え、電金庫から離脱する前に俺は急いで金を引き出した。

 振り返る。現実の俺は首をひねったりしなかった。虚層でもただログを開いたに過ぎない。ちょうど先客が電金庫を出るところだった。

 一安心だが、まだ気は抜けなかった。ログを書き換えて、さも俺が電金庫に侵入していなかったかのようにする。出金した事実は消さないようにする。ログと実際の残高との間で帳尻を合わせておけば、ヤツらもしばらくは気づくまい。

 そして俺はログに残らないようにそっと電金庫からの接続を切った。現実だけのクリアな視界が取り戻された。手元の端末を覗く。そこには五万円分の三次元格子紋様マトリクスコードが表示されていた。


 ビルとビルとの隙間にできた、二人やっと通れるくらいの細い路地に俺は向かった。ビルの隙間にポツンと空いたティッシュ箱ほどの穴に、紋様を表示させた端末を差し込むと、途端にパチパチと硬いもの同士がぶつかり合う音が鳴り出した。何度も経験していることだったが、いつもこの音には驚かずにはいられなかった。穴の向こうは暗闇で、様子が分からなかった。

 路地は日当たりも風通しも悪く、年中カビと脂の臭気が籠っていた。通行人は誰もいない。法で統治されていた時代から、人目を憚れる場所として機能していたそこは、法律の意味が失われた今でも、立っているとなんだか悪いことをしているような気になってしまう。

 ペースを保ちながらなり続けたパチパチいう音は、止むときも急だった。穴の向こうから微かに咳払いのような音が聞こえた気がした。

 俺が穴から端末を抜くと、それに合わせて紙幣が出てきた。どれもしわくちゃだったが、シブサワが五枚だった。端がボロボロになったそれを、俺はジャケットの胸ポケットにしまうと、足早に路地を後にした。


 料理の匂いを頼りに道を進むと、道端で一つの屋台が湯気を上げていた。店内にはちょうど客がいないようだった。「面」の一文字が屋台に記されているだけで、味は想像できないが、今の俺ならどんな料理でも満足できそうだった。

 屋台を覆う二重の防脂シートをくぐり、一番端の席に付く。


「一杯進上くれ


 人差し指を立てて注文した。


「四百円アルネ」


俺がシブサワを一枚出すと、店主は露骨に嫌な顔をした。


銅銭コインナイアルネ」


 俺はそう言ってもう一度シブサワを向けたが、店主は頑なに受け取ろうとしなかった。防脂シートで密閉された店内には、魚の良い香りが充満していた。


 シートがめくられ、一人が入ってきた。新しい客は迷うことなく俺の隣の席に座った。まだ別の席が空いているはずだった。見ればソイツは小柄な女で、パンツスーツにパンプスというこの街では見たことのない格好をしていた。


「いらっしゃい」


 店主は俺の対応をやめて新しい客の方を向いた。唯一、片手だけは俺の方に向けて払われていた。

 俺はこの屋台にいる三人に向けて、小さく舌打ちをした。


「二杯進上」


そう言って、女は八百円ピッタリをテーブルに置いた。女の注文に店主は目を丸くした。


「多多的アルネ」


 女は黙って自身と俺とを交互に指さした。店主はさらに驚いた顔を浮かべた。恐らく俺も店主と同じ表情をしていただろう。

店主はゆっくりと頷いて、テーブルの小銭を受け取ると、麺を二玉茹で始めた。その時に、女が支払いで使った硬貨が、すべて今年発行されたばかりの新硬貨だということに気が付いた。


 恐らく彼女は外から来たのだろう。ならばその就活生みたいな格好にも合点がいく。


占士ジェームズ先生さん——」


 彼女は突然俺の名前を呼んだ。聞き間違いかと思い振り返ると、彼女はまっすぐ俺の方を見ていた。


「アンタ、どうして俺のことを?」

「パパさん、仕事ピジンを頼まれてくれるアルカ?」


 俺の日本語での質問を無視して、彼女はカタコトでしゃべり出した。

 この街の人間はみな、東アジアのチャンポンを話す。誰が付けたか知らないが、ここで話されているチャンポンは新協語と呼ばれている。土地柄、日本語の影響が強いが、日本人が傍から聞いていたらデタラメな日本語に聞こえるだろう。だがチャンポンにはチャンポンなりの文法がある。

隣の女の話したのは協和語とバンブーのデタラメなチャンポンだった。


混成語ピジン通訳インタプリタなら他を当たれ。外を見てみな、イエローばかりだ。」

仕事ビズ、といった方がいいアルカ?占士ジェームズ先生さんテンポお金、多い多い進上アルネ。」

「麺の礼は言う。だが、これ以上——」

「ンタは占士巴納徳、州籍は紐育アル……」


 女は俺を無視してまくし立てた。それは俺の経歴で、すべて正しい情報だった。


「てめえ、何言ってんだよ。全然わかんねえよ。日本語で話せ」


 俺は思わず女に怒鳴った。麺を湯がいていた店主は、俺たちに一瞥だけしてまた鍋の方に目線を移した。


「それは失礼、ジェームズ・バーナードさん」


 女はハッとした顔を浮かべて言った。

 店主が器を二つ、俺たちの前に置いた。器に入った麺はうどんのようだったが、香りは中華風だった。


「あなたのことは存じ上げているわ」


 女は目の前のうどんに手を付けず様子もなく続けた。俺はつい箸を持つ手を止めて隣を見てしまった。


「州籍はニューヨーク、国籍は西米。旧米の電子戦闘隊で一連の混乱を経験して、分裂後は西の情報局の次席分析官。情報局を止め、東京に来て今に至る。そして最後に食べたのは、一昨日の晩、薬屋の女将が野良猫にやった餌の残り」


 女はよどみなく言い終えると確認するように眉を上げた。俺はため息を一つついて、箸をおいた。


「負けたよ、お嬢さん。だがそこまで調べられるなら、なんで俺を雇う必要が?」

「ありがたいことに商売繁盛しているんだけど、人手不足なのよ」

「俺になんのメリットがあるんだ」

「どうしてあなたみたいな経歴も能力も申し分ない人が旧東京なんかに?」

「放っておいてくれ」


 俺は器に向き直り、急いでうどんをすすった。熱くて味わえもしなかったが関係なかった。飢えていたというのもあるが、それよりも早くここから抜け出したかったのだ。


「うどんは感謝する。だがここを出るのはまた別の話だ」


 空になった器を残して、俺は席を立った。


「私についてくれば、あなたの汚名を晴らすことができるわ」


 一枚目の防脂シートに手を掛けた時、おもむろに女がつぶやいた。俺は立ち止まって振り向いた。女が手のひらサイズの紙を俺のほうに突き出していた。ゆっくりと紙に手を伸ばす。女が俺を見つめる目には強く力が入っていた。

 そこには『阪本総合調査事務所 阪本紅未』と黒い明朝体で記されていた。


「阪本紅未、神戸で興信所をやってるの。バーナードさん、考えておいて」


 彼女はそれだけ言うと、クルリと向き直ってうどんを食べ始めた。俺は女の名刺を胸ポケットにしまい、店を後にした。


 外はすっかり暗くなっていた。明かりの少ないこの街では、夜は早足で近づいて来る。

 華幇の本部ビルは、夕闇の中でも存在感を放っていた。特に、今夜はひと際ものものしい雰囲気に包まれていた。一見するといつもと同様の人通りがあるように思えるが、そこに本当の意味での通行人はめっきりと減っていた。

 ビルの前の通りにいるほとんどの者が、華幇の構成員だった。隠し持っている銃器のシルエットがジャケットに浮かび上がっていたり、筋肉移植手術を受けて人並外れた肉付きしていたり、電子装置が埋め込んであるために異常につるの太い眼鏡をかけていたりと、よく観察すれば普通の者ではありえない特徴が露見している者ばかりだった。なによりも、彼らの緊張と殺気は、俺の肌にビリビリと伝わってきた。本部を警備する彼らは、あれでいて通行人を装っているつもりのようだった。

 アイツが来るとは限らない。だが電金庫の動きと本部の様子を見れば少なくとも、彼らは今夜ここで大きな取引をすることは明らかだった。


 俺はビルの正面を通り過ぎ、適当な路地に入った。ビルの正面を見渡せて、華幇の客を待つのにはちょうどいい場所だった。

 華幇の本部では、電灯が惜しむことなく点けられていた。ビルからこぼれた明かりは路地にも差し込み、どうにか手元を見ることはできた。ベルトに挟んでいたベレッタの拳銃を取り出して検める。

 ビルの前の道路を、テクニカルに改造された胴長のワンボックスが通り過ぎた。ルーフに据え付けられた風呂桶のような箱の外側には、元の持ち主の名前が、下だけ平仮名にして記されていた。その上では機関銃と射手が不愛想な目つきで周囲を警戒している。この街を統べる摂理が変わってしまっても、この車は力のある者を乗せ続けていた。


「探したぜ、アンクルサム」


 背後の香港訛りの英語に振り返る。目の前では、薄暗い路地がまっすぐ伸びているだけだった。だがすぐ近くで男の声がしたのは間違いなかった。

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