二
階段を踏む。この階段は子供のころから何度も往復した、マンションの階段。いったい何段あって、これまで何段踏んできたのかもう数えられないだろうし、今更数えたくもない。
普段はこんな階段のことなんて、気にもとめないだろう。でも、今日はなぜだか気になってしまった。いや、無理矢理別のことに気をそらそうとしている、といったほうが近いのかもしれない。今日あったことは、本当に奇妙で、できる限り思い出したくない。だからきっと、無意識のうちに何でもない物事に関心を向けたのだろう。
わざわざこんなことを考えるなんて、私ほんとうは気にして…?いや、考えるのはやめよう。思い出したくない気持ちは、何があっても曲げたくない。
いやなことを思い出していたら、もう玄関の前に立っていた。長いこと、嫌なことに気を向けてしまったようだ。
いけない、もう考えないって決めたのに。
考えまいとすると、余計に考えてしまう。嫌でも引っ張られてしまうのか。
昔から、いつも注意散漫だと言われてきた。正確にはそうではない。さまざまなものが同時にはっきり見えてしまうのだ。
例えば、授業中先生が黒板に書いている文字をはっきりと読めるのと同時に、窓の外に飛んでいた鳥が飛ぶときの挙動を正確に把握できたりした。
このくらいのことは、ただ視界が広い程度で終わる話だろう。だが、あるときは完全に見えない、事故が多いと有名なスポットで、車の来るタイミングを正確に把握して、飛び出そうとした男子の事故を防いだことがあった。そのときは男子たちが騒いでいて、車の音が聞こえないほどだった。
———なんだよおまえ、未来予知できるのかよ!?
そういえば男子にあんなことを言われたのを思い出した。今は学校が違うので、彼と会える可能性は低いだろうけど、その言葉ではっとしたのは、今でもはっきり覚えている。
———未来予知。そのとき車を視ていたのは、たぶん『私の目ではなかった』。
それ以来、私ははっきりと『それ』が『視ている』ことを自覚した。彼が未来予知だと言ったのは、ある意味では合っていて、ある意味では違うともいえる。『それ』が『視た』全ての事柄から、概ね確定した未来が私に視えるようになる。私がそれを認識するのが直前になるから、刹那先の出来事を予知したように見えたのかもしれない。正確には予知ではなく、『確定した未来の事実を視る』ことをやっていたのだろう。
先生と鳥に関しては、『それ』が未来を『視る』までの過程に視ていたものを私に視せていたのだろうと、今は考えている。
実際、ふだんは先生と鳥のような視え方をしているが、たとえば何か起きたときには、未来視のように先の出来事が視えるのだろう。
そう考えると、彼は非常に不可解だった。クラスメイトで、やたらと私を見てきていた彼は、あのスーパーで影に襲われそうになったとき、瞬間移動した。瞬間移動というか、あの瞬間に彼はあの位置から『切り取られて』、接着剤をベタベタ付けて移動後の位置に『ねじ込んだ』ように視えた。あの瞬間、『それ』が視ていた全てがぐちゃぐちゃになった。要するに、あのときには『確定した未来が無かった』のだ。
また、考えてる。何かに引き寄せられて、それを考えるように仕向けられているよう——————
いま、『観られた』。
何かに私を観られた。私の大事なところをほじくられた感覚だ。視線とは、また違う。これもそういうふうに仕向けられたことなのか。
私を『観てくる』それは、私が『それ』から視ているものとは似ていて、それでいて違う。そう感じる。
なんとなく、怖さは感じなかった。そして、不快感も感じない。
たぶん、それには悪意がないからだ。
ただ、この出来事は気持ちのいいものじゃない。
いつの間にか、日が落ちていた。あのいやなことは確か昼過ぎだったのに、やけに時間が経つのが早い。それほど、私は長く考えごとをしていたのか。でも、買い物もスーパーからここまでの道のりも、そう時間がかかっていないと思っていたのに。
大方、今日の出来事の衝撃が大きくて、脳が処理に追われていたからこうなったのかもしれないと、無理矢理にも納得する。
食事も忘れて、風呂を済ませるととても早く眠ってしまった。
今日はついてない。
◇
翌日、私は出かける準備をしていた。『観てきた』ヤツを探るためだ。
『それ』がおおまかな位置を視てくれたので、どこを目指すかはだいたい決まっている。
私はすでに、なんとなくもう後戻りできないことを確信していた。だからきっと行動を起こしたのだろう。
移動中、ずっと『観られている』感覚があった。監視されるような感じではない。野球の観戦をしているそれに、ウグイス嬢のアナウンスと共にモニターを眺めているそれに近い。
目的地である市外のとある建物まで、その感覚はずっと続いた。
目的地につくと、その感覚は消えた。まるでもう必要ないと、そう言うかのように。
その目的地は、一般的に豪邸といわれるものだった。広い庭、二階建てだが横の広さは大きめのアパートほどあり、異国情緒ただようデザインの建造物は、アニメとか漫画で描かれるそれのようだった。
さっそく訪ねてみようと呼び鈴に手をかける寸前で、門が開いた。
おどろいたが、これは好機とみて、私は門をくぐってみる。すると私が来るのを待っていたかのように立ったまま姿勢を一切動かさない燕尾服に身をつつんだ初老の男性が見えた。門の柱の裏で待ちかまえていたのか。
私はしまったという思いからか、体が強張って動きを止めてしまった。が、私に気付いた男性はすぐに深いお辞儀をし、私を誘導するように玄関口まで歩いていく。一瞬遅れて私も後に続くため、少し駆ける。
追いついて足並みを揃える頃には、玄関口について男性が扉に手をかけていた。男性に手で誘導されるがまま、屋敷に足を踏み入れる。
「お邪魔します…」
エントランスは広く、正面に威圧的な階段があるほかには、無数に扉が見えた。
まず目についた階段を見上げると、一番上に車椅子に腰かけた女の人がいた。私をずっと『観ていた』のは彼女だと、『それ』は私の直感に告げる。彼女はまるで私を待っていたかのようにこちらを見ていた、いやよく視ると彼女は目を瞑っている。
彼女は私が気付いたことに気付いたのか、階段の奥に姿を消してしまう。私は彼女を追いかけるように階段を登り、彼女が入っていくのに続いて部屋に入った。
私が入るや否や、彼女は車椅子をこちらに向けて口を開いた。
「ようこそ、私は伏見茉都香。あなたは既に私を『視た』けど、何故ここに呼んだか説明はいるかしら」
彼女は、私が『視える』ことを知ったうえで訊いている。私はよく「あなたには全てを見透かされているようだ」と言われるが、自分で味わうのは初めてだ。
「いえ…私はあなたに『観られた』ってことしか分かりません…」
威圧的でもないのに、なぜか言葉が少し弱くなってしまう。それでいて、スラスラ喋ってしまう。不思議だ。
「そうね、あなたは『未来のことしか視れない』ものね」
「えっ…未来…?」
「私が『過去を観る』目を持っているなら、あなたは『未来を視る』目を持っているの」
「私の…過去を…」
「私があなたを『観る』ためには、まずこうやって、目で見ないといけないの」
そう言って茉都香さんは閉じていた目をゆっくりと開く。その目は光が灯っておらず、光を見るのに慣れていない目のように感じる。吸い込まれるようで宇宙を覗くような感覚だ。向こうからすれば、宇宙を覗いているのは茉都香さんの方なのかもしれない。
目を見ているのに虚空を見ているように感じて、思わず息を飲む。
「あなたはもう見たから、本当は必要ないのだけれどね。正確には、あなたの過去まで全て『観終わった』、だけれどね、志田絵梨奈ちゃん」
「………」
名乗ってもいないのに名前を言ってきたあたり、私の全てを『観た』というのはほんとうなのだろう。
「私はあなたのことを観たくて『観た』。けどあなたは私が観たことを知って訪ねに来た。そこには私が意図的に呼んだ節もあるの。それで志田絵梨奈」
「絵梨奈でいいです」
「…うん。絵梨奈、あなたをここに呼んだ理由だけど———」
———あなたを巻き込む。
「…えっ」
「いえ、既に巻き込まれている、と言った方が正しいわ。あなたは既にその協力者と接触して………」
「待って、待ってください。私をなんで巻き込むんですか」
「それも今説明するわ」
「それに協力者ってなんです…いえ、お願いします」
私は興奮して、食い入るように質問を投げるが、途中でやめる。説明しようとしているのに、こうやって興奮すると相手を遮ってまで訊こうとするのは私の悪いクセだ。過剰に聞くのも、過剰に答えるのもよくない。
数秒気まずい沈黙のあと、茉都香さんは話をふたたび話をはじめた。
「私はあなたのことをつい最近の出来事まで『観た』わ。あなたが例の一件巻き込まれたくなくて、あまり考えないようにしていたことまでね。だからはっきりさせておくと、あなたはもう既に関わらざるを得ないところまで巻き込まれてしまったの。この先の志田絵梨奈の人生は、否が応でも奇妙な体験の連続になるわ」
「………」
ここまで聞いて、私は既に手遅れと知った。そのせいか、私は黙ってしまった。いや、もう手遅れなのは関わった時点で私自身が一番よくわかっていただろう。それなら黙ってしまったのはもしかして助けを言外に望んだからなのか。
「ううん、あなたには既に奇妙な体験をさせてくる、いや『視せてくる』ものがあるわね。でも『それ』には意思はないし、あなたは自分自身の意思で視ているの。そうね『それ』は『霊眼』とでも呼ぶべきかしら」
「『霊眼』…」
『霊眼』が私に視せているのではなくて、私が『霊眼』を使って自ら視ていたのか。そうだ。確かに、基本的に的確に必要なときしか私は『視える』ことはなかった。なるほど合点がいく。
「あなたの『それ』が『霊眼』なら、私の『これ』は『鍵の眼』といったところね。この『鍵の眼』で、私は『全て』を『観た』———。それについてはあなたは知る必要はない…今知ってもあなたには負担になるだけだからね。それと、協力者についても。あなたはまだ知るべきではないわ。知らない方が事はスムーズに進む。所詮私もあなたも駒なのだから、なるべくその通りじゃないと」
「え…駒ってどういう」
「さて、折角のお客人、お茶菓子でもご馳走しておもてなししないとね」
茉都香さんは、私の言葉を遮るようにして、茶会への誘いをした。言外に、それ以上訊くなと私に告げたのが『視えた』。私は追求しなかった。
◇
高そうなお皿に盛りつけられた、買ったのか自分で焼いたのかはわからない数枚のクッキーを食べて、紅茶を口にふくんでいたとき。
二つの足音が『視えた』。一つは荒っぽい。もう一つは…クラスメイトの、彼だ。
「ンだよ姉貴、友達呼んでたのかよ。おいオマエ、日を改めっぞ」
「猛、その必要はないわ。彼女もその類の人間よ」
「その類…」
茉都香さんは荒っぽい弟さんを引き留めた。その言葉からは、この一連のことと関わりがあるのだと『視えた』。
猛とよばれた茉都香さんの弟はテーブルに置いてあったクッキーを無遠慮にかすめとり、二枚かさねて貪り食うと、椅子にどかりと座りこみ、クラスメイトの彼はその隣に座った。ちょうど私の正面になったため、軽く会釈を交わすと、茉都香さんが仕切る会議が、始まった。
これは、私においても大きなターニングポイントとなる。
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